サッカーの話をしよう
No.1042 クラマーさんの90分間
「日本サッカーの父」という表現は、世界的にも知られている。9月17日に亡くなったデットマール・クラマーさんは、まさに「サッカーを生きた人」だった。
日本での功績や残した言葉は、先週土曜のコラムで財徳健治さんが紹介してくれた。指導者養成のコースで回った国が90カ国。重い病気にかかりながら90歳までもちこたえた。「90」という数字が重なるのは、いかにもクラマーさんらしい。その業績を「90分間」の試合に例えてみたい。
1925年4月4日、ワイマール共和国(当時)のドルトムント生まれ。クラマーさんの「試合序盤」は戦争だった。落下傘兵としてイタリアやソ連との戦闘に従軍し、捕虜も経験した。
20歳すなわち「前半20分」で終戦、プレーを再開したものの、まもなく膝を痛めて引退。「23分」に西ドイツサッカー協会のコーチとなる。一時は報道の仕事もしたが、東京五輪に向けて優秀な指導者を探していた日本サッカー協会と「前半35分」に出合う。
その仕事は、「39分」のアルゼンチン戦勝利、「43分」のメキシコ五輪銅メダルにつながる。「39分」には西ドイツ代表の助監督にも就任し、「41分」でワールドカップ準優勝を経験している。
「前半42分」から「後半4分」にかけては国際サッカー連盟(FIFA)と契約し、世界中で指導者養成コースを開催する。その花は、20世紀終盤の世界のサッカーの隆盛となって結実する。
「後半4分」に短期間アメリカ代表監督を務めた後、しばらくクラブチームの監督として活動、5分、6分にはバイエルン・ミュンヘンを2年連続で欧州チャンピオンズカップ優勝に導いた。「後半15分」以後はマレーシア、韓国(五輪代表)、タイで指導に当たり、「後半32分」に現場から身を引く。しかしもちろん、サッカーとのつながりは試合終了まで続く。
私が初めて単独でインタビューをしたのは「後半35分」のこと。2006年1月2日。1時間の約束だったが、クラマーさんは私が発した3つの質問だけで2時間話し続け、「最後にひとつだけ」とフェアプレーについて聞くと、さらに1時間近く熱弁をふるった。
「日本代表で指導を始めたころ、毎日のように選手たちとフェアプレーに関するディスカッションをした」という話に強い感銘を受けた。クラマーさんは「フェアプレーの父」でもあった。
「タイムアップの笛は、次の試合のキックオフの笛」。財徳さんも引用した言葉だ。
「90分間」を戦い終えたクラマーさん。いまごろは、天国で新たなキックオフを迎えているに違いない。
(2015年9月30日)
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