サッカーの話をしよう
No.1084 リオ世代、新たな挑戦
日本選手の連日の活躍に沸いたリオ五輪。しかしサッカーはグループリーグを抜け出すことができず、残念な結果に終わった。
3試合で7得点。手倉森誠監督が率いた今回の五輪代表は、これまでにない攻撃力を世界に示した。しかし守備面で「幼稚さ」を露呈、初歩的なミスやコミュニケーション不足により次々と得点を献上してしまった。チームとしての戦い方、守備の場面での個々の選手の一瞬の決断力など、考えさせられる点の多い大会だった。
だが今回ブラジルで戦った18人の選手にとって、いや、大会直前に所属クラブの都合で出場できなくなったFW久保裕也や、悔しい思いを抱きつつ「バックアップメンバー」としてチームに帯同した4人の選手、さらにはメンバー選考からもれてJリーグで戦い続けた選手たちにとって、「リオ2016」はけっしてゴールではない。
五輪のサッカーは原則として23歳以下という年齢制限のある大会に過ぎない。言うまでもないことだが、サッカーには「ワールドカップ」という最高の目標があるからだ。
世界から隔離された28年間の暗闇を開き、久々に五輪出場を果たしたのが1996年のアトランタ大会。以後、2000年シドニー、2004年アテネ、2008年北京、2012年ロンドン、そして2014年リオと、日本は6大会連続出場を果たしてきた。ロンドン大会までの5大会に出場した選手の総数は、2大会に出場した4人を考慮すると86人になる。そしてその半数近くにあたる29人が、その後にワールドカップ出場を果たしている。
2004年アテネ大会で五輪代表を率いた山本昌邦監督は「アテネ経由ドイツ行き」というメッセージを掲げた。2006年のワールドカップ・ドイツ大会を、常に選手たちの視野に置かせたのだ。
この大会は1勝2敗に終わり、残念ながら「ドイツ」の地を踏めた選手もわずか3人に過ぎなかった。しかしその4年後の2010年ワールドカップ(南アフリカ)には「アテネ組」が6人もはいり、そのうち5人がレギュラーとして活躍、日本サッカー史上初のアウェーでのベスト16進出の原動力となった。
ことし8月10日、ブラジル北東部のサルバドールでほぼ完璧と言っていい試合をしてスウェーデンを1-0で下しながら敗退が決まった後、肩を落とす選手たちに、手倉森監督はこう声をかけた。
「あとはA代表にからんでほしい」
9月1日にスタートするワールドカップ2018ロシア大会のアジア最終予選から、「リオ世代」の新しい挑戦が始まる。
(2016年8月24日)
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