サッカーの話をしよう
No.1085 ロハス事件が教える『覚悟』
2018年FIFAワールドカップのアジア最終予選が明日のアラブ首長国連邦(UAE)戦でスタートする。
過去3大会、順調に出場権を獲得してきた日本。だがアジア各国の力の接近で、今回は楽にはいかないだろう。最後まであきらめずに戦い抜く覚悟を、選手・チームだけでなく、メディアやファンも、もっておく必要がある。
過去20回のワールドカップすべてに出場し、5回の優勝を誇るブラジルでさえ、「こんどこそ予選敗退か」と青ざめたときがあった。1990年のイタリア大会予選だ。
89年9月3日、ブラジルは南米予選最終戦を迎えた。勝つか引き分けなら14大会連続出場。負ければ初の予選敗退となる。リオのマラカナン・スタジアムは16万人ものファンで埋まった。そして後半4分に待望の先制点。
だが後半25分、とんでもない事件が起こる。スタンドから1本の発光筒が投げ込まれてピッチに落下、チリのGKロハスが顔を覆って倒れたのだ。集まるチリの選手たち。駆けつけるドクター。頭部からおびただしい血を流したロハスが仲間に抱きかかえられて退出する。チリの選手たちは「安全が確保されていない」とピッチに戻らず、そのまま没収試合となった。
発光筒が投げ込まれたのはブラジルGKのキックがFWに渡らず、中盤でチリのDFが止めた直後。テレビカメラが映したのは、燃えさかる発光筒のそばに倒れたロハスの姿だった。発光筒が当たった瞬間の映像はなかった。
このままではブラジルが失格になることも...。国民の脳裏に「ブラジルのいないワールドカップ」がよぎる。
大混乱のなかでアルゼンチン人カメラマンのR・アルフィエリが「発光筒はロハスに当たっていない。その瞬間を撮った」と発言。役員が飛んできてフィルムの提供を求めた。だがこのとき彼は日本の『サッカー・マガジン』の契約カメラマンだった。
東京の編集部に電話を入れると、千野圭一編集長は『サッカー・マガジン』の発売前には他のメディアには出さないという条件でその写真を国際サッカー連盟(FIFA)に提出することを認めた。
深夜までに及んだ現像で浮かび上がったのは、発光筒がロハスの数メートル背後に落下する決定的なシーンだった。ロハスはケガを装い、あらかじめ用意した刃物で自らの額を切って血を流したのだ。1週間後、FIFAはブラジルの2-0の勝利を発表した。
もちろん、こんな「悪だくみ」がしょっちゅうあるわけではない。だが過去20回連続出場のブラジルにもこんなに際どい予選があった。私たちも、「覚悟」なくして予選を迎えることはできない。
(2016年8月31日)
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