サッカーの話をしよう
No.1101 卷誠一郎の生き方
「あなたは息子を最後まであきらめずに走る子に育てましたか」
2003年、監督に就任したばかりのイビチャ・オシムがジェフ千葉の入団懇親会で新人選手・巻誠一郎の父親にこう尋ねたというエピソードは、あまりに有名だ。
「うちの子はへたくそですが、親として監督がいまおっしゃったことだけは自信があります」と父親が答えると、オシムは笑顔を浮かべて「そうなら、私が責任をもって育てます」と話したという。
ことしの日本のサッカー界で私が最も強い感銘を受けたのは、J2ロアッソ熊本のFW巻誠一郎選手だった。
4月14日夜に震度7の大揺れで始まった熊本地震は、28時間後の「本震」を含め、震度7が2回、6強が2回、6弱が3回。想像を絶する恐怖だったに違いない。全壊約8000棟を含む45万棟近くの住宅が被害を受け、橋や道路、農業・漁業用施設など多方面に甚大な被害が出た。
そうしたなか、巻選手は自ら被災して避難生活となったが、迷うことなく被災者支援に取り組んだ。すぐさま復興支援のための募金サイトを立ち上げ、自らは支援物資の仕分けや配送手配に奔走した。
巻選手は熊本県益城郡小川町(現宇城市)出身である。
「現在の僕があるのは育ててくれたふるさとのおかげ。いまはサッカーどころではない」。自分自身がコンディションを気遣わなければらないプロサッカー選手であることなどまったく顧みなかった。
選手もスタッフも被災し、練習場も使えず、熊本の試合はアウェー戦も含め1カ月間中止になった。他クラブから練習施設提供の申し出もあったが、選手たちは地元に残って支援活動に当たった。全体練習が始まったのは5月2日のこと。巻選手は練習が終わるとそのまま支援センターにかけつけ、夜遅くまで復興支援の作業を続けた。
熊本は5月15日からJ2の戦列に復帰した。震災前には7戦して4勝1分け2敗、5位の好位置につけていたが、残りの35試合は過密日程になったこともあり8勝9分け18敗。最終順位は16位だった。だがその数字の背後には、魂をゆさぶる戦いがあった。
「1年を通じて満足できたのか、満足できなかったのかというと後者ですが...。それでも1年を通して、歯を食いしばって必死に最後まで戦ったシーズンでした」
自分自身のSNSで、巻選手はこう書いている。
父親がオシムに約束したとおり、人生で最も困難な状況に直面したとき、彼は逃げることなく真っ正面から立ち向かった。その姿に多くの人が勇気づけられた。試合は再開されても人びとに元の生活が戻ったわけではない。巻選手の支援活動もまだ続く。
(2016年12月28日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。