サッカーの話をしよう
No.1128 サッカーをより魅力的に ペトロヴィッチのミッション
ミハイロ・ペトロヴィッチが日本にやってきたのは2006年6月14日。48歳のときだった。以後サンフレッチェ広島と浦和レッズで指揮をとり、彼は59歳になった。
ドイツで開催されていたワールドカップの期間中。この8日後に日本代表の敗退が決まり、さらに2日後には、当時の日本サッカー協会・川淵三郎会長が「オシムが...」と口を滑らせ、その後の話題をジーコの後任監督問題で独占したことを考えると、ずいぶん昔の話のように感じる。
実際、この年、J1とJ2で計31クラブあったが、31人の監督中、現在もJリーグで指揮をとっているのは長谷川健太監督(当時清水、現在はG大阪)ら数人にすぎない。ただし長谷川監督には2年間の「浪人生活」があった。
2006年、ペトロヴィッチはシーズン半ばに広島の監督に就任し、5年半の指導で高い評価を受けた。そして2012年以降は浦和で指揮をとっている。
旧ユーゴスラビア、現セルビアの西部、ボスニアヘルツェゴビナと国境を接するロズニツァという小さな町で生まれ、ユーゴスラビア代表としても活躍したペトロヴィッチは、オーストリアで引退すると、オーストリアに留まってまるで「サッカー伝道」のような指導の道を始めた。
ミッションはただひとつ。心から愛するサッカーをより魅力あふれるものとし、サッカーを愛する人びとにより多くの喜びを与えることだ。
広島で6シーズン、そして浦和に移っても6シーズンの長きにわたって監督の座にある一事だけでも、いかに評価が高いかわかる。
広島でも浦和でも、共通するのは魅力あふれる攻撃的サッカーだ。独特の3-4-2-1システムは、奇異に見られた時期もあったが、いまでは日本の多くのチームに影響を与えている。特定の選手に頼らず、磨き抜いたコンビネーションでつくり出す攻撃には、息をのむような美しさがある。常に新しいコンビネーションを考案し、練習方法を開発する手腕は天才的だ。ただ、そうしたサッカーをつくるには時間がかかる。
今日の世界では、監督たちはマジックのように即座に結果を出すことを求められている。コンビネーションを磨こうとする監督などほとんどいない。大半は選手の「組み合わせ」で勝利に近づこうとする。必然的に、成績は怪物のような能力をもつFWがいるかどうかで決まる。言い換えれば、資金力で決まる。
こうした世界の潮流に完全に逆行するペトロヴィッチの生き方。「いかに勝つか」では満足せず、「いかに美しく勝つか」を追及する、世界でも希有な天才指導者がJリーグで12シーズンも活動していることの幸運を、私たちは絶対に手放すべきではない。
(2017年7月12日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。