サッカーの話をしよう
No.1166 ベルマーレの父
4月27日に永眠した石井義信さん(79)は、誰にも分け隔てなく優しい人だった。
フジタ工業を率いて日本サッカーリーグで2回の優勝を果たし、1986年から2年間日本代表の監督も務めた。当時の選手たちの力を最大限に引き出してソウル五輪出場権獲得まであと一歩に迫った戦いは、監督としての力量を感じさせるものだった。
「エリート」にはほど遠かった。「サッカーどころ」の広島県出身だが、サッカーを始めたのは高校時代。無名高の県立福山葦陽高校卒業後に一般入社で東洋工業に入社、サッカー部の門をたたいた。当時の東洋工業は、日本代表の主将でもあったDF小沢通宏を中心に日本のトップクラスの戦力を誇っていた。
そうしたなかで、「素人同然」の石井さんは努力を積んでついにレギュラーとなり、守備的MF(今日で言えばボランチ)として1965年からの日本サッカーリーグ3連覇に貢献する。その間、日本代表にも選ばれている。
1968年はじめに28歳で現役を引退。東京支社に転勤になったが、サッカーは石井さんを手放さなかった。建設大手の藤田組(後のフジタ工業)の関連会社である藤和不動産の藤田正明社長が、「日本のサッカーを強くするにはプロ化が必須」と、自らプロを目指したチームを立ち上げることになったからだ。
熱心な誘いに、石井さんは生涯勤め上げる考えだった東洋工業を退職、コーチ兼選手として栃木県リーグ4部に加盟した藤和不動産の強化を引き受ける。特別措置もあり、4年目には日本リーグ1部に昇格、8年目にチームはフジタ工業に移管され、創立10シーズン目の1977年には日本リーグ初優勝を果たす。このチームこそ現在の湘南ベルマーレの前身である。実質的な「初代監督」だった石井さんは、まさにゼロからその基礎を築き、日本の強豪クラブのひとつに押し上げた人だった。
4月中旬、湘南ベルマーレは立派な「50年史」を発行した。ベルマーレ誕生は1993年。そこからの25年史ではなく、石井さんたち先人の奮闘に対するリスペクトから、あえて「50年史」とした。制作を担当した遠藤さちえさんは、完成を待ちかねるように一冊を石井さんの病床に届けた。
「ご本人は電話に出られませんでしたが、『とても喜んでいた』というお話を奥様から伺いました」(遠藤さん)
ページをめくると、一枚の写真が目を引く。1970年12月17日、日本リーグとの入れ替え戦で劇的な勝利を収めた直後の1シーン。そこには、右手を突き上げた31歳の石井さんがいる。その情熱、誠実そのもので、優しさのかたまりのような人柄は、決して忘れられることはない。合掌。
(2018年5月2日)
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