サッカーの話をしよう
No.1167 25年目の5月
「25年目の5月」だ。
1993年5月は、日本のサッカーにとっての「明治維新」であり、最大の歴史の変わり目だった。Jリーグのスタートである。
せわしない開幕だった。日本代表選手たちは5月7日まで中東のUAEで1994年ワールドカップのアジア第1次予選を戦い、帰国してすぐにJリーグ元年の開幕日を迎えた。
5月15日、東京の国立競技場で行われた「開幕」のヴェルディ川崎×横浜マリノス。キックオフ直前の尋常でない熱気。あれほどの期待と興奮の高まりは、それ以前にも以後にも経験したことがない。
25年前、あなたは何歳だっただろうか。どこで何をしていただろうか。そして25年後のことをどう考えていただろうか。私は42歳だった。開幕前後の嵐のようなサッカーブームのなかで、昼も夜もひたすらキーボードを叩いていた。25年後どころか、翌月のことすら考えられなかった。
1993(平成5)年は、2002年ワールドカップ日本招致の陰の立役者だった宮澤喜一内閣で始まり、7月の総選挙で「新党ブーム」があって38年ぶりに自民党が政権を失い、細川護煕首相の連立政権が成立した年だった。地価が大きく下落し、バブル経済の破綻が誰の目にも明白になった。Jリーグ開幕の3日後に「ウィンドウズ3.1日本語版」が発売されたばかりのパソコンは、まだ大衆化には遠く、私が一心不乱に叩き続けていたキーボードはワープロ専用機のものだった。
当時、日本サッカー協会の事務局は東京の渋谷区にある岸記念体育会館内の小さな1室にあった。その協会が10年もしないうちにワールドカップのホストを務め、都心に大きな自前ビルを所有するようになるなど、誰に想像できただろうか。「ドーハの悲劇」はこの年の10月のことであり、日本のサッカーはまだワールドカップで戦うことがどういうことなのか、想像すらできない時代だったのだ。
それから25年、日本のサッカーは大変貌を遂げた。初年度の8府県10クラブから、Jリーグは1部から3部まで38都道府県54クラブに拡大し、ビジネス面でも順調な伸びを見せている。ヨーロッパのトップリーグで10人を超す日本人選手が活躍し、夢のようだったワールドカップ出場もことしのロシア大会で6大会連続となった。すべて、国籍を問わず日本のサッカーに関わった人びとが、競い合い懸命に努力してきた結果だった。
だがそれでも、日本のサッカーは歩みを止めることはできない。世界も同じように、あるいはそれ以上に発展し、進歩しているからだ。本当の勝負は「次の25年」なのかもしれない。ただただ、積極果敢に挑戦を続けるだけだ。
(2018年5月9日)
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