サッカーの話をしよう
No.1172 ロシアの誇り
明日、ワールドカップ2018ロシア大会が開幕。開幕戦にホスト国ロシアが登場する。しかし残念ながらロシア代表の評価は高くない。国際サッカー連盟(FIFA)のランキングで今大会出場チーム中最低の70位。国際的なスターもおらず、やや寂しい。
しかしロシアには輝かしいサッカーの歴史がある。そのシンボルが、今大会の公式ポスターに描かれたひとりのゴールキーパー(GK)だ。
レフ・ヤシン(1929-90)。50〜60年代に活躍し、63年にはGKとして初めて、そして現在にいたるまでただ一人、「バロンドール(欧州年間最優秀選手賞)」を獲得し、世界でも歴代最高のGKと言われている。黒一色のウェアから「黒クモ」の愛称で敬愛された。
ロシアへのサッカー移入は帝政時代の1887年。モスクワの東50キロにあるオレホボズエボという小さな町の「モロゾフ綿紡績工場」の英国人経営者が社員にプレーさせたのが始まりだった。サッカーはやがてモスクワと首都サンクトペテルブルクで盛んになり、1912年にはストックホルム五輪出場のためにサッカー協会も設立された。
第一次世界大戦と革命を経て、ロシア帝国はソビエト連邦となる。そして独裁者スターリンの方針により、ソ連代表は国際舞台出場の道を閉ざされる。ようやくFIFA加盟を果たすのは、第二次大戦後の1945年のことだ。
だがこの長いブランクの時代に、ソ連のサッカーは発酵するように国内の競争が激化し、レベルを上げていた。1952年に国際舞台への復帰を果たすと、1956年メルボルン五輪優勝、1958年には初出場のワールドカップでベスト8。1960年に欧州選手権を制覇、1966年ワールドカップでは4位にはいった。1954年以来ソ連のゴールを守り続けたヤシンは、そのすべての栄光の原動力だった。
錠前師の家庭に生まれ、労働者として一生を終わるはずだった。運命の変化は18歳。軍需工場のチームで認められて強豪ディナモ・モスクワにスカウトされた。ポジション獲得まで5年を要したが、いちどゴール前に立つとディナモに数多くの栄光をもたらした。サッカーで名をなす前には、ディナモのアイスホッケーチームのGKとして国内カップ優勝も経験している。
類いまれな反射神経を生かしたセーブ(生涯で151本ものPKをストップした)だけでなく、ペナルティーエリアを出て組み立てに参加するスタイルは、数十年も時代を先取りしたものだった。
彼は20年間の現役生活を通じてディナモで過ごした。このクラブこそロシア・サッカーの源流「モロゾフ綿紡績工場」の後身であることは、偶然ではないような気がする。
(2018年6月13日)
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