今回からテーマをガラッと変え、いま国内で盛り上がりを見せている女子サッカーと、それに対するおじさんの考えやこれまでの関わりについて伺っていきます。
女子サッカーとの距離感
兼正(以下K)
おじさんが女子サッカーを取材しはじめたきっかけはなんだったんでしょうか?
良之(以下Y)
じつは、個人的には女性はサッカーをやるもんじゃないと昔は思ってたんだよ。そんな大偏見の持ち主だった。少なくとも女の子とサッカーはやりたくないな、ってね。やっぱり男女で体つきも違うわけだから、怪我させちゃったりするのが怖かったんだよね。
K
「サッカーマガジン」在籍時は女子サッカーを取り上げることはあったんですか?
Y
日本で女子サッカーが普及してきたのって、70年代半ばだと思う。「サッカーマガジン」でも、ちょこちょこ載せてはいたけれども、僕はあまり興味がわかなかったな。
K
どんな取り上げ方をしていたんですか?
Y
変りダネ的な扱いで取り上げていた気がするな。けっして大きく取り上げていたわけではなかった。そういえばサッカースクールで一緒にコーチをやっていて、後にサッカーマガジンでいっしょに働くことになった千野(圭一/元「サッカーマガジン」編集長)の話は前にしたよね? 彼が熱心に取材していたな。
K
そうだったんですか。千野さんの取材に興味をもって、おじさんも一緒に取材に行く、とかはなかったんですか?
Y
なかった、ぜんぜん(笑)。女子サッカーを最初に見たのは81年に開催されたポートピア81国際女子サッカー大会。同年に初めて女子日本代表が結成されて、この大会がはじめての国内開催の代表戦。まず神戸でイングランドと対戦。そのあと東京でイタリアと戦ったんだよ。
K
会場は国立でしたか?
Y
いや、西が丘サッカー場(現在の「味の素フィールド西が丘」)だった。その試合を観に行ったのがはじめて。
K
そのときの印象ってどうでしたか?
Y
日本代表って言っても、メンバーの半分が高校生だったしね。体力面はもちろん、技術もなにもかもがイタリア代表と違っていたよ。
密着マークでイタリア代表のエースを潰した大原智子
K
対戦国として来日したチームは、プロだったんですか?
Y
そうだね。当時のイタリアはヨーロッパでも強くてね。とくにエリザベータ・ビニョットっていうセンターフォワードが"女子選手版クライフ"って思うくらい上手くて。テクニックはもちろんスピードはあるし、もの凄いシュートを打つし。
K
凄いですね(笑)。
Y
そのときに、東京で行われた試合の日本代表のメンバーは、清水第八(SC)の選手が半分くらいいて、あとは東京の選手たち中心。神戸でイングランドとやって0-4で負けた試合は、清水第八の選手と関西の選手たち。だから代表と言っても、ちょっと変則的ではあったんだけどね。
K
なるほど。
Y
それでそのときの代表に、いま僕が一緒に仕事をしている大原(智子)がいたんだよ。
K
大原さんのポジションはどこだったんですか?
Y
普段はフォワード。ただ、そのころの代表には足が速くて体の大きい選手っていなかったから、比較的大きくて足も速かった大原が、ビニョットのマークに抜擢されたんだ。彼女にとっては、はじめてのディフェンダーとして出場。スライディングタックルを特訓で覚えて、90分間ビニョットに密着マークして、スライディングしまくってた(笑)。
K
大原さんとの出会いはその試合で?
Y
いや、その前から知ってはいたんだよ。同じベースボールマガジンで仕事をしていたんだけど、僕とは別部署でアルバイトをやっていたからね。
(次回に続く)
<大住良之より>
「サッカーマガジン」の編集長を1982年に私から引き継ぎ、1998年まで16年間にわたって務めた千野圭一さんが、2012年10月31日に亡くなられました。58歳という若さでの逝去に、残された93歳のお母様をお慰めする手立てもありませんでした。東京新聞の「サッカーの話をしよう」のコラムでは、11月7日付けで彼への追悼記事を書きました。この「ムダ話」とともに、その記事をお読みいただけると幸いです。