前回は女子サッカークラブ「FC PAF」監督就任の経緯や、初の女子サッカーをテーマにした本を書き上げる上での制作秘話などを語ってもらいました。今回は女子サッカーチームの探し方や、日本サッカー協会と日本女子サッカー連盟の関係性について。
女子サッカーチームの探し方
兼正(以下K)
ここまで、おじさんと女子サッカーとの関わりについてお話しを聞いてきましたが、おじさんに対する印象が少し変わってきた気がします。それと言うのも、僕も含めて、一般の方々はおじさんのことを「女子サッカー取材の先駆者」のような見方を少なからずしていると思うんですが、ご自身ではどう思われていますか?
良之(以下Y)
それはまったく違う。89年に日本女子サッカーリーグが始まったわけだけど、開催日が日曜日だから、ちょうど「FC PAF」の試合と重なってしまうんだよね。だから現在に至るまで、女子リーグの取材にはほとんど行けていない。
K
いまでも監督をされている「FC PAF」の練習や試合の頻度はどれくらいですか?
Y
練習は火・木・土の週3回。そして日曜日は試合。公式戦がなければ、必ず練習試合がはいる。選手の大半はウイークデーの昼間は仕事をしている。学生も何人かいるけどね。ただ、最初からそんなカッチリした感じではなかったよ。ウイークデーの練習には人もあまり集まらなくて、他のチームの練習に混ぜてもらったりとかもしていたな。
K
じゃあおじさんは、トップリーグの取材というよりも「FC PAF」などを通した"現場"との結びつきのほうが強いわけですね。
Y
もちろん日本女子代表の試合などの取材は行ける限り行ってきたけど、僕なんかよりはるかに多く取材している人はたくさんいる。何年も時間をかけて取材をして、ようやく最近の盛り上がりで日の目を見たって言う人もね。でも『がんばれ!女子サッカー』を書いたころ(2004年)は、女子サッカーを頻繁に取材し、豊富に知識をもっている人などほとんどいなかった。女子サッカーが取材の対象になったのは、『なでしこジャパン』の名前ができた2004年以降のこと。インターネットという形式の発表媒体ができてからだと思う。
K
ちなみにその『がんばれ!女子サッカー』ですが、巻末に各都道府県のサッカー協会の連絡先が掲載されていますね。これはなぜですか?
Y
この本はアテネオリンピック出場で盛り上がりを見せたときに出したわけだけど、サッカーをやりたい女の子って、04年の段階でも孤立していたんだよね。ネット情報などもほとんどなくて、日本サッカー協会も積極的には情報を発信してなかった。それでこの本を読んでくれた女の子が「サッカーをやりたい!」って思ってくれたときにどうしたらいいかって考えたんだ。
K
なるほど、興味を持った方に向けた情報だったんですね。
Y
うん、具体的な情報を得るためには、各都道府県のサッカー協会に電話をして、「私の住んでいる地域にどんな女子チームがありますか」って聞くしかなかったからね。電話をすれば、女子サッカー担当の人が「あなたの近くにはこういうチームがあります」と紹介してくれる。
K
サッカーを始めるにも簡単にはいかない状況だったわけですね。
Y
04年の盛り上がりもあって、徐々に女子サッカーを取り巻く状況が変化してきて、協会も女子チームを検索できるサイトを作ったけどね(http://www.jfa-teams.jp/)。ただ、この本の出版時に女子サッカーチームを探すのに手段は、やっぱり都道府県のサッカー協会に電話をすることだった。
日本サッカー協会と日本女子サッカー協会
K
日本サッカー協会としての04年以前の取り組みはどうだったんですか?
Y
大きく変わったのが02年。川淵三郎さんが会長に就任してからだと思う。それ以前は、女子の強化にそれほどの予算は割かれていなかった。女子サッカーは90年にアジア大会の正式種目になったんだ。96年にはオリンピックの正式種目になった。これはアメリカが女子サッカー世界№.1だったから、「金メダルいけるぞ」って正式種目に採用された背景があったみたいだけど。女子のワールドカップは91年に始まっている。そのすべてに日本は出ているんだよね。
K
90年代初頭にアジアで強かった国はどこでしたか?
Y
中国と北朝鮮。韓国はまだ強くなかった。その前に台湾が強い時期があったんだけど、このころには日本のほうが強くなっていた。タイも強かったな。そんななかで、90年のアジア大会でいきなり銀メダル。それでも協会は女子サッカーに全然予算を割かなかったんだよ。
K
それはどうしてですか?
Y
基本的なスタンスが「自助努力をしなさい」ということだったんだ。現場の人たちで勝手にやってくれという意味ではなくて、女子代表の強化費や普及事業にかける資金は、女子サッカー界が自分たちの努力でつくって活動しなさいということだった。1980年代までは日本サッカー協会の財政規模も現在とは比較にならないほど小さかったから、女子だけでなく、いろいろな連盟に対して同じスタンスだった。1979年に日本サッカー協会が女子を仲間に入れるときにつくらせた「女子サッカー連盟」は自分で何とかしなさいという形だった。
K
女子サッカー連盟は日本サッカー協会とは別組織だったんですか?
Y
日本サッカー協会の傘下の組織のひとつという形だった。日本サッカー協会の下に「メンバーシップ」と呼ばれる47の都道府県のサッカー協会がある。それとは別に各種連盟というのがあるんだ。Jリーグもそうだし、JFLや大学サッカー連盟もそう。自治体職員サッカー連盟なんかもあってね。そのなかのひとつに女子サッカー連盟があったんだよ。
K
日本サッカー協会が主導していたわけではなかったんですね。
Y
現在は女子サッカー連盟は発展的に解消されて、日本サッカー協会が直接女子サッカーの運営に当たっているけど、初期のころはそうだった。自分たちで大会を開催して、入場料収入などで強化のやりくりしなさいと。でも女子の大会に観客なんて集まらないから、連盟も資金をつくれず、80年代のある時期までは、海外遠征に行くにしても半分は選手たちの自費という形だった。
K
あとの半分は?
Y
三菱重工を中心とした企業に無理をいってお願いした。当時、日本を代表するサッカーチムのひとつが三菱重工(現在の浦和レッズ)だったんだけど、ユニホームもシューズもプーマだった。リーベルマン(シューズ輸入)、ヒットユニオン(ユニホーム製作)といった「プーマグループ」が三菱とのつきあいのなかで用具を提供し、遠征費の半額は三菱グループで出してくれたりしていた。三菱重工サッカー部のOBで、後にJリーグの専務理事になった森健兒さんが非常に骨を折ってくれたんだ。初代の日本女子サッカー連盟の会長も、三菱重工サッカー部のチームドクターだった大畠襄先生(慈恵医大)が引き受けてくれた。79年度から始まった全日本女子選手権(現在の皇后杯)も東京の巣鴨にある三菱養和会のグラウンドを貸してもらって開催していたし、日本の女子サッカーの黎明期は、三菱グループの協力なしに考えられなかったね。
K
なるほど。
Y
だから、ある遠征の時には、パンツに三菱のマークがついているなんて事もあったよ(笑)。
K
代表のユニフォームにですか?
Y
そう、日の丸がエンブレムとして使用されていたころ。三菱だってそういうかたちじゃないと、会社からお金出せないからさ。中国に遠征に行ったときはちょっと問題になったこともあったようだね。
(次回に続く)
今回は、女子サッカークラブ「FC PAF」監督就任の経緯や初の女子サッカーをテーマにした本を書き上げる上での裏話などを語ってもらいました。
監督就任の舞台裏
兼正(以下K)
おじさんは現在も女子サッカークラブの監督をしていますが、きっかけはなんだったんですか?
良之(以下Y)
ベースボールマガジン社を辞めて、前の編集長だった橋本さんていう方と一緒に仕事をやろうってことになったんだ。それでアンサーって会社に入ったんだよ。
K
83年頃のお話しですか?
Y
そう、そのとき大原がアンサーで社員として働いていた。サッカーをやっているのはもちろん知っていたんだけど、「監督がいなくて、試合前にメンバー表書く人がいないんです」って言っていて(笑)。「試合前にメンバー表を書くだけなら引き受ける」よって返事をして、84年に行き始めたんだ。
K
「女子サッカー界に貢献するために」とかではなかったんですか?
Y
女子サッカーがどうのって言うよりも、一生懸命頑張っている選手たちがいて、その選手たちが困っているから「じゃあ、可能な範囲で協力するよ」っていう軽い気持ちだった。それをいままで28年間も続けるとは思ってもいなかった。「FC PAF」っていうチームで、当時は実践女子大の卒業生で構成されていた。
K
おじさんが直接的に女子サッカーに関わるようになったのはそれからですか?
Y
そうだね、監督を引き受けて関わるようにはなったけど、取材に行っても仕事で扱えるようなものは当時はなかったよ。足かけ30年近くになるわけだけど女子サッカーの普及や発展に貢献した、とは自分では思わないな。さっきも言ったように80年代の女子サッカー発展に貢献したのは、僕の後を継いで「サッカーマガジン」の編集長を務めた千野(圭一)だね。
初の女子サッカーをテーマにした著書制作の舞台裏
K
おじさんは岩波書店から『がんばれ! 女子サッカー』という新書を出していますが、それはどういった経緯で?
Y
04年のことだね。これはね、アテネオリンピックの女子サッカーアジア予選で日本が北朝鮮に勝って予選突破を決めて、すごく盛り上がったんだよ。東京の国立競技場で行われたんだけど、オリンピック出場がかかった北朝鮮戦はテレビ朝日で生放送され、視聴率16.3%、瞬間最高視聴率31.1%。
K
凄いですね。
Y
いまはなでしこJAPANも人気になったから大した数字じゃないかもしれないけれど、当時はまだ知名度もあまり高くないなかでのその視聴率だからね。その北朝鮮戦がもの凄い試合だった。7連敗中の相手に対して3-0の快勝。その試合をテレビで観て感動した岩波の編集者が「女子サッカーの本を出せませんか」って連絡をしてきたんだ。
K
なるほど、そういう経緯で。
Y
すぐに打ち合わせに行ったんだけど、出版社側からどうせならオリンピック(8月)前に出したいっていう提案があってね。そりゃそうだ。オリンピックで惨敗だったら、熱気も消えてしまうからね。それでいきましょうってことになったんだけど、実はちょっと不安があったんだ。
K
どんな不安ですか?
Y
その年の夏は僕がほとんど日本にいない予定になっていたんだよね。5月の終わりにUEFAチャンピオンズリーグの決勝を観にドイツに行って、そのあと日本代表がイングランドで試合するから、帰国せずにそのまま残って取材して。
K
小野伸二がゴールを決めた試合ですよね。
Y
そうそう、その試合。帰国したら1週間ほどでポルトガルで行われる欧州選手権(EURO)を取材。戻って7月中旬からは中国でのアジアカップの取材。8月8日に北京で決勝戦が終わって日本に帰ってきた翌日にはアテネオリンピックに出発という日程だった。
K
ハードですね。ただオリンピック前の発売だと、制作スケジュールとしては7月半ば校了くらいのイメージですかね。執筆期間が短い(笑)。
Y
そうだね、相当短かった(笑)。しかも僕は日本にいないんだから。それで打ち合せの席に大原を連れて行ったんだ。大原には「一緒に打ち合わせに行くよ」ってだけ言って。その席で僕が「ふたりで書きますから大丈夫です。共著でどうでしょうか」って言っちゃって(笑)。大原がびっくりしていたよ、「なにを言い出しているの!?」って(笑)。
K
(笑)。そしてできあがったのがこの本ですね。
Y
当時、女子サッカーを包括的に紹介する本ってまだなかったからね。日本の女子サッカーの歴史や世界の女子サッカー史を追った本なんてさ。ただ、それだけを書くと完全な資料本になってしまうから、最後は同年齢で日テレ・ベレーザと女子日本代表の両チームで中盤のコンビだった澤穂希と酒井與惠両選手の対談を入れたりして。
K
これも大原さんに任せて......。
Y
さすがに出席したよ(笑)。
(次回に続く)
女子サッカーについて、前回はサッカーマガジン在籍時の考えや初観戦の印象などを語ってもらいました。今回は、熱心に女子サッカーの取材をされていた千野圭一さんのことや、80年代女子サッカー界の状況について。
取り上げるのが難しかった女子サッカー
兼正(以下K)
実際に観に行ったことで本格的に取材をしようとは思いましたか?
良之(以下Y)
それはなかったな。記事にするほどの盛り上がりはなかったからね。全日本選手権(現・皇后杯全日本女子サッカー選手権)を観に行くぐらいだった。決勝戦は国立競技場で開催されていたんだけど、イチ・ニ・サン・シ......って数えられるくらいしか観客が入っていなかった。あのころから考えると、いまのフィーバーぶりは到底想像できなかったな。
K
全日本選手権へは取材で?
Y
そう。だけど「女子サッカーを盛り上げるためにドーンと取り上げよう」とかまではあまり考えてなかったな。それよりも、当時編集長だったから、記者席で「どうすればもっと部数を伸ばせるか」とか「いかに経費を削減するか」とか試合を観つつも頭の中ではそんなこと考えてたね。
K
そのときの「サッカーマガジン」は月刊誌だったんですか?
Y
77年から81年のはじめまでは隔週で出してたんだ。隔週にすることで、最新情報を欲している読者に提供する目論見もあったんだけど、ニュースばかりで内容が薄いし、相変わらず日本リーグも盛り上がらなくてね。
K
人気なかったんですね、日本リーグ......。
Y
そんな状況だから、結局81年半ばに月刊誌に戻したんだよ。それで読物をたくさん入れるようにした。だからこそなんだけど、ページが増えて女子サッカーの情報も入れられるようになったんだよね。
黎明期の女子サッカー発展に貢献した千野圭一
K
なるほど。それで千野さんが女子サッカーの記事を担当されていたんですね。
Y
そうなんだ。一生懸命取材をしてたよ。後にベースボールマガジン社が菅平高原でサッカーの大会を開催するようになったとき、彼の独断で第1回から女子の大会も一緒に開催してたんだよ。
K
本当に熱心だったんですね。
Y
しばらくして女子の大会は中止になったんだけど、菅平の大会がうまくまわるようになると、80年代の後半には男子とは別に女子の大会だけを開催するようになった。80年代って全国的な女子チームが交流できる場がなかったから、関係者から非常に喜ばれていたのを覚えているよ。だから僕なんかよりずっと、彼のほうが女子サッカー普及の貢献者だよ。
K
菅平の大会以外で、千野さんが女子サッカーのための大会を開催したりとかはあったんですか?
Y
いや、なかったと思うな。ただ、編集長のときはとくに力を入れていたようだね。女子サッカーを取り上げれば売上げが上がるって時代じゃなかったから、おそらく一生懸命プレーしている子たちを応援しなきゃ、って気持ちで力を入れていたんだと思うけどね。
K
当時の女子チームって、日本にどれくらいあったんですか?
Y
79年に女子チームの登録がはじまったんだ。最初は52チーム、919人。
K
それに比べるといまの数字って凄いですよね。
Y
ただ、せっかくこれだけ盛り上がったんだから、登録数ももっと伸びなきゃいけないけどね。
(次回に続く)
菅平女子サッカー大会(2000年5月撮影)
<大住良之より>
「サッカーマガジン」の編集長を1982年に私から引き継ぎ、1998年まで16年間にわたって務めた千野圭一さんが、2012年10月31日に亡くなられました。58歳という若さでの逝去に、残された93歳のお母様をお慰めする手立てもありませんでした。東京新聞の「サッカーの話をしよう」のコラムでは、11月7日付けで彼への追悼記事を書きました。この「ムダ話」とともに、その記事をお読みいただけると幸いです。