前回は女子サッカークラブ「FC PAF」監督就任の経緯や、初の女子サッカーをテーマにした本を書き上げる上での制作秘話などを語ってもらいました。今回は女子サッカーチームの探し方や、日本サッカー協会と日本女子サッカー連盟の関係性について。
女子サッカーチームの探し方
兼正(以下K)
ここまで、おじさんと女子サッカーとの関わりについてお話しを聞いてきましたが、おじさんに対する印象が少し変わってきた気がします。それと言うのも、僕も含めて、一般の方々はおじさんのことを「女子サッカー取材の先駆者」のような見方を少なからずしていると思うんですが、ご自身ではどう思われていますか?
良之(以下Y)
それはまったく違う。89年に日本女子サッカーリーグが始まったわけだけど、開催日が日曜日だから、ちょうど「FC PAF」の試合と重なってしまうんだよね。だから現在に至るまで、女子リーグの取材にはほとんど行けていない。
K
いまでも監督をされている「FC PAF」の練習や試合の頻度はどれくらいですか?
Y
練習は火・木・土の週3回。そして日曜日は試合。公式戦がなければ、必ず練習試合がはいる。選手の大半はウイークデーの昼間は仕事をしている。学生も何人かいるけどね。ただ、最初からそんなカッチリした感じではなかったよ。ウイークデーの練習には人もあまり集まらなくて、他のチームの練習に混ぜてもらったりとかもしていたな。
K
じゃあおじさんは、トップリーグの取材というよりも「FC PAF」などを通した"現場"との結びつきのほうが強いわけですね。
Y
もちろん日本女子代表の試合などの取材は行ける限り行ってきたけど、僕なんかよりはるかに多く取材している人はたくさんいる。何年も時間をかけて取材をして、ようやく最近の盛り上がりで日の目を見たって言う人もね。でも『がんばれ!女子サッカー』を書いたころ(2004年)は、女子サッカーを頻繁に取材し、豊富に知識をもっている人などほとんどいなかった。女子サッカーが取材の対象になったのは、『なでしこジャパン』の名前ができた2004年以降のこと。インターネットという形式の発表媒体ができてからだと思う。
K
ちなみにその『がんばれ!女子サッカー』ですが、巻末に各都道府県のサッカー協会の連絡先が掲載されていますね。これはなぜですか?
Y
この本はアテネオリンピック出場で盛り上がりを見せたときに出したわけだけど、サッカーをやりたい女の子って、04年の段階でも孤立していたんだよね。ネット情報などもほとんどなくて、日本サッカー協会も積極的には情報を発信してなかった。それでこの本を読んでくれた女の子が「サッカーをやりたい!」って思ってくれたときにどうしたらいいかって考えたんだ。
K
なるほど、興味を持った方に向けた情報だったんですね。
Y
うん、具体的な情報を得るためには、各都道府県のサッカー協会に電話をして、「私の住んでいる地域にどんな女子チームがありますか」って聞くしかなかったからね。電話をすれば、女子サッカー担当の人が「あなたの近くにはこういうチームがあります」と紹介してくれる。
K
サッカーを始めるにも簡単にはいかない状況だったわけですね。
Y
04年の盛り上がりもあって、徐々に女子サッカーを取り巻く状況が変化してきて、協会も女子チームを検索できるサイトを作ったけどね(http://www.jfa-teams.jp/)。ただ、この本の出版時に女子サッカーチームを探すのに手段は、やっぱり都道府県のサッカー協会に電話をすることだった。
日本サッカー協会と日本女子サッカー協会
K
日本サッカー協会としての04年以前の取り組みはどうだったんですか?
Y
大きく変わったのが02年。川淵三郎さんが会長に就任してからだと思う。それ以前は、女子の強化にそれほどの予算は割かれていなかった。女子サッカーは90年にアジア大会の正式種目になったんだ。96年にはオリンピックの正式種目になった。これはアメリカが女子サッカー世界№.1だったから、「金メダルいけるぞ」って正式種目に採用された背景があったみたいだけど。女子のワールドカップは91年に始まっている。そのすべてに日本は出ているんだよね。
K
90年代初頭にアジアで強かった国はどこでしたか?
Y
中国と北朝鮮。韓国はまだ強くなかった。その前に台湾が強い時期があったんだけど、このころには日本のほうが強くなっていた。タイも強かったな。そんななかで、90年のアジア大会でいきなり銀メダル。それでも協会は女子サッカーに全然予算を割かなかったんだよ。
K
それはどうしてですか?
Y
基本的なスタンスが「自助努力をしなさい」ということだったんだ。現場の人たちで勝手にやってくれという意味ではなくて、女子代表の強化費や普及事業にかける資金は、女子サッカー界が自分たちの努力でつくって活動しなさいということだった。1980年代までは日本サッカー協会の財政規模も現在とは比較にならないほど小さかったから、女子だけでなく、いろいろな連盟に対して同じスタンスだった。1979年に日本サッカー協会が女子を仲間に入れるときにつくらせた「女子サッカー連盟」は自分で何とかしなさいという形だった。
K
女子サッカー連盟は日本サッカー協会とは別組織だったんですか?
Y
日本サッカー協会の傘下の組織のひとつという形だった。日本サッカー協会の下に「メンバーシップ」と呼ばれる47の都道府県のサッカー協会がある。それとは別に各種連盟というのがあるんだ。Jリーグもそうだし、JFLや大学サッカー連盟もそう。自治体職員サッカー連盟なんかもあってね。そのなかのひとつに女子サッカー連盟があったんだよ。
K
日本サッカー協会が主導していたわけではなかったんですね。
Y
現在は女子サッカー連盟は発展的に解消されて、日本サッカー協会が直接女子サッカーの運営に当たっているけど、初期のころはそうだった。自分たちで大会を開催して、入場料収入などで強化のやりくりしなさいと。でも女子の大会に観客なんて集まらないから、連盟も資金をつくれず、80年代のある時期までは、海外遠征に行くにしても半分は選手たちの自費という形だった。
K
あとの半分は?
Y
三菱重工を中心とした企業に無理をいってお願いした。当時、日本を代表するサッカーチムのひとつが三菱重工(現在の浦和レッズ)だったんだけど、ユニホームもシューズもプーマだった。リーベルマン(シューズ輸入)、ヒットユニオン(ユニホーム製作)といった「プーマグループ」が三菱とのつきあいのなかで用具を提供し、遠征費の半額は三菱グループで出してくれたりしていた。三菱重工サッカー部のOBで、後にJリーグの専務理事になった森健兒さんが非常に骨を折ってくれたんだ。初代の日本女子サッカー連盟の会長も、三菱重工サッカー部のチームドクターだった大畠襄先生(慈恵医大)が引き受けてくれた。79年度から始まった全日本女子選手権(現在の皇后杯)も東京の巣鴨にある三菱養和会のグラウンドを貸してもらって開催していたし、日本の女子サッカーの黎明期は、三菱グループの協力なしに考えられなかったね。
K
なるほど。
Y
だから、ある遠征の時には、パンツに三菱のマークがついているなんて事もあったよ(笑)。
K
代表のユニフォームにですか?
Y
そう、日の丸がエンブレムとして使用されていたころ。三菱だってそういうかたちじゃないと、会社からお金出せないからさ。中国に遠征に行ったときはちょっと問題になったこともあったようだね。
(次回に続く)
今回は、女子サッカークラブ「FC PAF」監督就任の経緯や初の女子サッカーをテーマにした本を書き上げる上での裏話などを語ってもらいました。
監督就任の舞台裏
兼正(以下K)
おじさんは現在も女子サッカークラブの監督をしていますが、きっかけはなんだったんですか?
良之(以下Y)
ベースボールマガジン社を辞めて、前の編集長だった橋本さんていう方と一緒に仕事をやろうってことになったんだ。それでアンサーって会社に入ったんだよ。
K
83年頃のお話しですか?
Y
そう、そのとき大原がアンサーで社員として働いていた。サッカーをやっているのはもちろん知っていたんだけど、「監督がいなくて、試合前にメンバー表書く人がいないんです」って言っていて(笑)。「試合前にメンバー表を書くだけなら引き受ける」よって返事をして、84年に行き始めたんだ。
K
「女子サッカー界に貢献するために」とかではなかったんですか?
Y
女子サッカーがどうのって言うよりも、一生懸命頑張っている選手たちがいて、その選手たちが困っているから「じゃあ、可能な範囲で協力するよ」っていう軽い気持ちだった。それをいままで28年間も続けるとは思ってもいなかった。「FC PAF」っていうチームで、当時は実践女子大の卒業生で構成されていた。
K
おじさんが直接的に女子サッカーに関わるようになったのはそれからですか?
Y
そうだね、監督を引き受けて関わるようにはなったけど、取材に行っても仕事で扱えるようなものは当時はなかったよ。足かけ30年近くになるわけだけど女子サッカーの普及や発展に貢献した、とは自分では思わないな。さっきも言ったように80年代の女子サッカー発展に貢献したのは、僕の後を継いで「サッカーマガジン」の編集長を務めた千野(圭一)だね。
初の女子サッカーをテーマにした著書制作の舞台裏
K
おじさんは岩波書店から『がんばれ! 女子サッカー』という新書を出していますが、それはどういった経緯で?
Y
04年のことだね。これはね、アテネオリンピックの女子サッカーアジア予選で日本が北朝鮮に勝って予選突破を決めて、すごく盛り上がったんだよ。東京の国立競技場で行われたんだけど、オリンピック出場がかかった北朝鮮戦はテレビ朝日で生放送され、視聴率16.3%、瞬間最高視聴率31.1%。
K
凄いですね。
Y
いまはなでしこJAPANも人気になったから大した数字じゃないかもしれないけれど、当時はまだ知名度もあまり高くないなかでのその視聴率だからね。その北朝鮮戦がもの凄い試合だった。7連敗中の相手に対して3-0の快勝。その試合をテレビで観て感動した岩波の編集者が「女子サッカーの本を出せませんか」って連絡をしてきたんだ。
K
なるほど、そういう経緯で。
Y
すぐに打ち合わせに行ったんだけど、出版社側からどうせならオリンピック(8月)前に出したいっていう提案があってね。そりゃそうだ。オリンピックで惨敗だったら、熱気も消えてしまうからね。それでいきましょうってことになったんだけど、実はちょっと不安があったんだ。
K
どんな不安ですか?
Y
その年の夏は僕がほとんど日本にいない予定になっていたんだよね。5月の終わりにUEFAチャンピオンズリーグの決勝を観にドイツに行って、そのあと日本代表がイングランドで試合するから、帰国せずにそのまま残って取材して。
K
小野伸二がゴールを決めた試合ですよね。
Y
そうそう、その試合。帰国したら1週間ほどでポルトガルで行われる欧州選手権(EURO)を取材。戻って7月中旬からは中国でのアジアカップの取材。8月8日に北京で決勝戦が終わって日本に帰ってきた翌日にはアテネオリンピックに出発という日程だった。
K
ハードですね。ただオリンピック前の発売だと、制作スケジュールとしては7月半ば校了くらいのイメージですかね。執筆期間が短い(笑)。
Y
そうだね、相当短かった(笑)。しかも僕は日本にいないんだから。それで打ち合せの席に大原を連れて行ったんだ。大原には「一緒に打ち合わせに行くよ」ってだけ言って。その席で僕が「ふたりで書きますから大丈夫です。共著でどうでしょうか」って言っちゃって(笑)。大原がびっくりしていたよ、「なにを言い出しているの!?」って(笑)。
K
(笑)。そしてできあがったのがこの本ですね。
Y
当時、女子サッカーを包括的に紹介する本ってまだなかったからね。日本の女子サッカーの歴史や世界の女子サッカー史を追った本なんてさ。ただ、それだけを書くと完全な資料本になってしまうから、最後は同年齢で日テレ・ベレーザと女子日本代表の両チームで中盤のコンビだった澤穂希と酒井與惠両選手の対談を入れたりして。
K
これも大原さんに任せて......。
Y
さすがに出席したよ(笑)。
(次回に続く)
女子サッカーについて、前回はサッカーマガジン在籍時の考えや初観戦の印象などを語ってもらいました。今回は、熱心に女子サッカーの取材をされていた千野圭一さんのことや、80年代女子サッカー界の状況について。
取り上げるのが難しかった女子サッカー
兼正(以下K)
実際に観に行ったことで本格的に取材をしようとは思いましたか?
良之(以下Y)
それはなかったな。記事にするほどの盛り上がりはなかったからね。全日本選手権(現・皇后杯全日本女子サッカー選手権)を観に行くぐらいだった。決勝戦は国立競技場で開催されていたんだけど、イチ・ニ・サン・シ......って数えられるくらいしか観客が入っていなかった。あのころから考えると、いまのフィーバーぶりは到底想像できなかったな。
K
全日本選手権へは取材で?
Y
そう。だけど「女子サッカーを盛り上げるためにドーンと取り上げよう」とかまではあまり考えてなかったな。それよりも、当時編集長だったから、記者席で「どうすればもっと部数を伸ばせるか」とか「いかに経費を削減するか」とか試合を観つつも頭の中ではそんなこと考えてたね。
K
そのときの「サッカーマガジン」は月刊誌だったんですか?
Y
77年から81年のはじめまでは隔週で出してたんだ。隔週にすることで、最新情報を欲している読者に提供する目論見もあったんだけど、ニュースばかりで内容が薄いし、相変わらず日本リーグも盛り上がらなくてね。
K
人気なかったんですね、日本リーグ......。
Y
そんな状況だから、結局81年半ばに月刊誌に戻したんだよ。それで読物をたくさん入れるようにした。だからこそなんだけど、ページが増えて女子サッカーの情報も入れられるようになったんだよね。
黎明期の女子サッカー発展に貢献した千野圭一
K
なるほど。それで千野さんが女子サッカーの記事を担当されていたんですね。
Y
そうなんだ。一生懸命取材をしてたよ。後にベースボールマガジン社が菅平高原でサッカーの大会を開催するようになったとき、彼の独断で第1回から女子の大会も一緒に開催してたんだよ。
K
本当に熱心だったんですね。
Y
しばらくして女子の大会は中止になったんだけど、菅平の大会がうまくまわるようになると、80年代の後半には男子とは別に女子の大会だけを開催するようになった。80年代って全国的な女子チームが交流できる場がなかったから、関係者から非常に喜ばれていたのを覚えているよ。だから僕なんかよりずっと、彼のほうが女子サッカー普及の貢献者だよ。
K
菅平の大会以外で、千野さんが女子サッカーのための大会を開催したりとかはあったんですか?
Y
いや、なかったと思うな。ただ、編集長のときはとくに力を入れていたようだね。女子サッカーを取り上げれば売上げが上がるって時代じゃなかったから、おそらく一生懸命プレーしている子たちを応援しなきゃ、って気持ちで力を入れていたんだと思うけどね。
K
当時の女子チームって、日本にどれくらいあったんですか?
Y
79年に女子チームの登録がはじまったんだ。最初は52チーム、919人。
K
それに比べるといまの数字って凄いですよね。
Y
ただ、せっかくこれだけ盛り上がったんだから、登録数ももっと伸びなきゃいけないけどね。
(次回に続く)
菅平女子サッカー大会(2000年5月撮影)
<大住良之より>
「サッカーマガジン」の編集長を1982年に私から引き継ぎ、1998年まで16年間にわたって務めた千野圭一さんが、2012年10月31日に亡くなられました。58歳という若さでの逝去に、残された93歳のお母様をお慰めする手立てもありませんでした。東京新聞の「サッカーの話をしよう」のコラムでは、11月7日付けで彼への追悼記事を書きました。この「ムダ話」とともに、その記事をお読みいただけると幸いです。
今回からテーマをガラッと変え、いま国内で盛り上がりを見せている女子サッカーと、それに対するおじさんの考えやこれまでの関わりについて伺っていきます。
女子サッカーとの距離感
兼正(以下K)
おじさんが女子サッカーを取材しはじめたきっかけはなんだったんでしょうか?
良之(以下Y)
じつは、個人的には女性はサッカーをやるもんじゃないと昔は思ってたんだよ。そんな大偏見の持ち主だった。少なくとも女の子とサッカーはやりたくないな、ってね。やっぱり男女で体つきも違うわけだから、怪我させちゃったりするのが怖かったんだよね。
K
「サッカーマガジン」在籍時は女子サッカーを取り上げることはあったんですか?
Y
日本で女子サッカーが普及してきたのって、70年代半ばだと思う。「サッカーマガジン」でも、ちょこちょこ載せてはいたけれども、僕はあまり興味がわかなかったな。
K
どんな取り上げ方をしていたんですか?
Y
変りダネ的な扱いで取り上げていた気がするな。けっして大きく取り上げていたわけではなかった。そういえばサッカースクールで一緒にコーチをやっていて、後にサッカーマガジンでいっしょに働くことになった千野(圭一/元「サッカーマガジン」編集長)の話は前にしたよね? 彼が熱心に取材していたな。
K
そうだったんですか。千野さんの取材に興味をもって、おじさんも一緒に取材に行く、とかはなかったんですか?
Y
なかった、ぜんぜん(笑)。女子サッカーを最初に見たのは81年に開催されたポートピア81国際女子サッカー大会。同年に初めて女子日本代表が結成されて、この大会がはじめての国内開催の代表戦。まず神戸でイングランドと対戦。そのあと東京でイタリアと戦ったんだよ。
K
会場は国立でしたか?
Y
いや、西が丘サッカー場(現在の「味の素フィールド西が丘」)だった。その試合を観に行ったのがはじめて。
K
そのときの印象ってどうでしたか?
Y
日本代表って言っても、メンバーの半分が高校生だったしね。体力面はもちろん、技術もなにもかもがイタリア代表と違っていたよ。
密着マークでイタリア代表のエースを潰した大原智子
K
対戦国として来日したチームは、プロだったんですか?
Y
そうだね。当時のイタリアはヨーロッパでも強くてね。とくにエリザベータ・ビニョットっていうセンターフォワードが"女子選手版クライフ"って思うくらい上手くて。テクニックはもちろんスピードはあるし、もの凄いシュートを打つし。
K
凄いですね(笑)。
Y
そのときに、東京で行われた試合の日本代表のメンバーは、清水第八(SC)の選手が半分くらいいて、あとは東京の選手たち中心。神戸でイングランドとやって0-4で負けた試合は、清水第八の選手と関西の選手たち。だから代表と言っても、ちょっと変則的ではあったんだけどね。
K
なるほど。
Y
それでそのときの代表に、いま僕が一緒に仕事をしている大原(智子)がいたんだよ。
K
大原さんのポジションはどこだったんですか?
Y
普段はフォワード。ただ、そのころの代表には足が速くて体の大きい選手っていなかったから、比較的大きくて足も速かった大原が、ビニョットのマークに抜擢されたんだ。彼女にとっては、はじめてのディフェンダーとして出場。スライディングタックルを特訓で覚えて、90分間ビニョットに密着マークして、スライディングしまくってた(笑)。
K
大原さんとの出会いはその試合で?
Y
いや、その前から知ってはいたんだよ。同じベースボールマガジンで仕事をしていたんだけど、僕とは別部署でアルバイトをやっていたからね。
(次回に続く)
<大住良之より>
「サッカーマガジン」の編集長を1982年に私から引き継ぎ、1998年まで16年間にわたって務めた千野圭一さんが、2012年10月31日に亡くなられました。58歳という若さでの逝去に、残された93歳のお母様をお慰めする手立てもありませんでした。東京新聞の「サッカーの話をしよう」のコラムでは、11月7日付けで彼への追悼記事を書きました。この「ムダ話」とともに、その記事をお読みいただけると幸いです。
前回は念願のワールドカップ初取材について語ってもらいました。今回も引き続きワールドカップ初取材について、そして70年代後半の日本のサッカー熱について伺いました。
消えた航空貨物
兼正(以下K)
78年ワールドカップの当時、海外からの原稿送りはどうしていたんですか?
良之(以下Y)
原稿や写真を送るのは航空貨物。確認するのはすべて国際電話だった。メールもファクスもなかったからね。もしすぐ送らなければいけない記事があったら、国際電話をかけて口述筆記してもらうしかなかった。国際電話といっても、あのころは、アルゼンチンから日本にかけるには、国際電話局に申し込んで、回線が空くまで3時間も4時間も待たなければならなかった。電話代も高かったから、経費も大変だったよ。
K
原稿を1本送るにしても大変ですね。
Y
それがさ、大会が始まってから騒動が起きたんだ。必要なものを用意して航空貨物に載せたら、東京から「原稿が届かない」って恐ろしい連絡が......。大変な騒ぎになって、確認したらロサンゼルスの空港で3日間ぐらい置き去りにされていた。出すときに乗り継ぎの便もすべて指定していたにも関わらずにね。とにかく方々手を尽くしてなんとかなったんだけど、いまみたいにメールにデータを添付して、「はい終わり」じゃなかったから苦労したよ。
K
航空貨物を送る際の封筒の中身はどんなものが入っていたんですか?
Y
まずは原稿。これは自分が書くのもあるし、人からもらった原稿に赤字を入れたものもあった。もちろん小見出しを入れ、タイトルもリードもつけて。それからセレクトした写真。そして写真や原稿をこんなふうに使ってほしいとデザイナーに指示するラフも一緒に。それらを見開きごとにワンセットでひとつの袋に入れ、何10ページか分をひとつの荷物にして毎日のように送っていたよ。
K
なるほど。いまでは考えられないような手間がかかっていたんですね。
Y
本誌のほかに大会の別冊も制作していたからね。計400ページ近くをその方法でやり取りしていたんだ。写真の現像も現地のラボを探して持ち込み、翌日に受け取りに行くという方式だった。それから現地の雑誌社や通信社とも契約していて、毎日たずねてはネガから写真を選んで紙焼きしてもらって翌日受け取りに行っていた。それを全部ほとんどひとりでやらなければいけなかったからね。いまもブエノスアイレスの地理はよく覚えている(笑)。決勝戦の後、スタジアムからの道路が大渋滞で動かないなか、ひとつの通信社に写真を選びに行かなければならなかった。メディア用のバスで都心まで近づいたけれど、どうしても動かなくなったので、運転手に頼んで途中で降ろしてもらい、歩いて行った。ところがその通信社の担当スタッフが戻ってきたのは、僕が着いてから1時間後。「どうやってここまで来たんだ?」と聞くから「どこどこで降ろしてもらって、そこから歩いてきた」と話したら、「お前は俺たちよりブエノスアイレスを知っている」と感心されたよ(笑)。
K
ブエノスアイレス以外での開催試合はどうしていたんですか?
Y
カメラマンを送るだけで、他の都市の試合はテレビで見るだけだったね。大会中はずっといま話したような状況だったからブエノスアイレスを離れるわけにはいかず、ロサリオで行われたブラジル対アルゼンチンの試合を見に行きたくても無理だった。
K
寝る暇はあったんですか?
Y
毎日2時間くらいかな。睡眠不足で開催期間中、半分夢遊病のような状態だった。だから決勝で再試合になった日には、そりゃ困っちゃうよ(笑)。
気持ちを奮い立たせた「イレブン」の存在
K
なんだか海外取材が怖くなってきました(笑)。
Y
いまはもうそういう心配はないから、気にしなくて平気だよ(笑)。ただ、そんな状況でも、"やんなきゃいけない"って気持ちを奮い立たせたのが同じサッカー専門の月刊誌『イレブン』(日本スポーツ出版社)の存在だった。『イレブン」にだけには負けたくないっていう気持ちがあった。
K
ライバル視していたんですね。
Y
狭い市場だからね。『イレブン」の増刊号よりいい本を作りたい、の一心だったよ。
K
その頃の日本国内のサッカー人気はどうでしたか?
Y
日本リーグの観客数を調べたらわかると思うけど、どん底の時代だった。ただ、それまで関西で行われてきた高校サッカーが77年正月の大会から首都圏にやってきた。日本テレビが強引にもってきたんだけど。そうしたら高校サッカーの人気の凄いこと。最初の大会で、帝京(東京)、浦和南(埼玉)、静岡学園(静岡)という個性的な3チームが優勝を争い、国立競技場がほぼ満員になった。日本リーグや天皇杯はもちろん、日本代表の試合でもありえなかったことだった。
K
その人気は日本リーグに波及したんですか?
Y
日本リーグよりも大学サッカーに波及したと思うよ。当時の選手たちは先を見据えて高校卒より大学卒を選ぶ時代だったから。まだ関西で開催されていたころの高校サッカーのアイドルだった西野(朗/現・神戸監督)なんかもそうだった。彼は浦和西高から早稲田に進学したんだけど、関東大学リーグの試合が行われる西が丘サッカー場に女性ファンがたくさんつめかけてえらいことになってね。それまではがらがらだったのに...。黄色い声援が飛び交うし、西野がけがしたときには白いハンカチで涙をふいていた女性がたくさんいたよ(笑)。
以上、良之おじさんがどのようにしてサッカーと出会い、記者の道に進んだのか、当時の国内外のサッカー事情も交えてのお話しでした。78年ワールドカップのことや、当時のサッカーメディアのことなど、個人的に興味深いトピックがいろいろあったので、機会があればもっと詳しい話を聞きたいと思います。
次回からはまた別のテーマでお届けしようと思います。
どうぞお楽しみに!