サッカーのムダ話

Talk8 ワールドカップ初取材

前回はサッカーで食べていくために一度は考えた指導者への道について語ってもらいました。今回はベースボールマガジン入社後、ワールドカップを取材に行くためにしたことや、初めてのワールドカップ取材について聞きました。


夢が叶った78年アルゼンチンワールドカップ

兼正(以下K)
「ワールドカップへ行きたい」という気持ちが強く、そして取材に行ける可能性が高かったため「サッカーマガジン」を選んだわけですが、入社したから絶対に行けるというわけではないですよね? そのあたりはどうクリアしたんですか。

良之(以下Y) 
とにかくいろんな人にアピールしたよ。仕事もそうだけど、ちょっとした雑談の時なんかに「78年のワールドカップは......」って話題に出した。そうすると、自然と編集部の中でも「78年大住の番かな」っていう雰囲気になったんだ。

K 
そういった強い気持ちが78年ワールドカップ現地取材を実現させたわけですが、実際に取材をしていちばん印象に残った試合はなんでしたか?

Y 
やっぱり決勝のアルゼンチン対オランダかな。ただ、試合そのものも印象に残っているんだけど、それ以上にアルゼンチンのサポーターが作る会場の雰囲気がとっても強烈な印象だった。終わったあと、街中の道路という道路を車が埋め、クラクションを鳴らしながら狂喜乱舞する熱気も含めて、とにかくそれが強烈なイメージとして頭のなかに残っている。歴史的にみると、あの78年ワールドカップの評価ってそんなに高くないんだよね。クライフも本大会は結局出場しなかったし、いわゆるスーパースター不在の大会だった。でも、観客の作る雰囲気は凄かったね。

K 
78年はケンペスが活躍した大会でしたよね。決勝戦ももちろん会場で取材されたと思いますが、なにか大変だったこととかはありましたか。

Y 
心配がいくつもあった。そのひとつが日程だった。決勝の取材をしていたのが、「サッカーマガジン」のチーフだった僕とカメラマン4人。そのほかに読売新聞の牛木素吉郎さんや、共同通信社の奈良原武士さん(故人)らを含めた10人の団体で帰国用飛行機のチケットを取っていた。旅行会社が苦労してようやく確保してくれたのが、ブエノスアイレス→モンテビデオ→サンパウロ→ニューヨーク→アラスカ経由の日本といった航路だった。もちろん変更は不可。この大会までワールドカップではPK戦がなく、決勝戦が延長引き分けの場合には再試合という制度だったから、もうそれだけは止めてくれと思っていたよ(笑)。

K 
もし再試合になっていたらどうしていましたか?

Y 
そもそも再試合になった時のことなんて、考えてもいなかったんだよ(笑)。でも牛木さんに「大住君、このチケットは変更がきかないものだよね。もし再試合になったらどうする?」って指摘されて。それまで考えになかったことだから、どうしようか思案していたら、牛木さんが「俺はもし再試合になったら、その試合を見ずに帰るのは嫌だ」と言いだして(笑)。牛木さんはもともと海外経験が豊富な方だったから「再試合になったら俺がこの10人分のチケット、なんとかするから」って。牛木さんならなんとかしてくれるかもしれないとは思っていたけど、10人の帰国便については、僕が責任ある立場だったし、予約を確保するのさえ難しいチケットだったからね。もうどっちが勝ってもいいから勝敗が決まってくれって心から祈ってたよ(笑)。

K 
取材も気が気じゃないですね(笑)

Y 
そんなことを思っていたからかどうかわからないけど、試合は延長戦までもつれこんだでしょ。「あと30分で点が入らなかったら、いよいよ大変なことになる」って心臓がバクバク。そしたらケンペスがゴールを決めてくれて。「ヨッシャー! 帰れる!!」って叫んだよ(笑)。


ケンペスを引き寄せたエースカメラマン

K 
大変な思いをされていたんですね(笑)。

Y 
いや、実はそれだけじゃなかったんだ。決勝戦で割り当てられたピッチに入れるカメラマンは全世界で90人ほど。そのうち日本の割り当てがわずか2人。

K 
少ないですね。

Y 
そうなんだよ。日本からは「サッカーマガジン」が4人、「イレブン」や「朝日カメラ」からも来ていた。会社数にするとカメラマンは10社くらいから派遣されていたんだ。それまでであれば、経験もあり、国際的にも有名だった「サッカーマガジン」のカメラマンが主催者側から指名されるのが普通だったんだけど、この時はなぜか「日本人同士で勝手に決めてくれ」と言われて。それでみんなで開いた会議の結果、抽選会をすることになったんだ。でもさ、現場は抽選で仕方ないかって気持ちになれるんだけど、その雰囲気がわからない東京にいる編集長が「そんなバカなことあるか! 写真なかったらどうやって本を作るんだ!!」ってカンカンに怒っちゃって。

K 
大変なことになりましたね。

Y 
カメラマンたちは今ある枠ふたつをどうやって増やそうか考えた。会議で相談した結果、2枚のうちの1枚を前・後半で分けることで計3枠にしようと。その上で抽選した結果、「サッカーマガジン」が確保できたのは、前半だけの枠だった。前半の写真しか撮れない訳だからね。当時は編集者だったから誌面構成をどうしようか考えたもんだよ。とくに表紙ね。

K 
表紙用の写真は結局どうしたんですか?

Y 
決勝の舞台はリバープレートスタジアム。陸上トラック併設型スタジアムなんだけど、当日になってメイン側のスタンド前、両ペナルティーエリアの横あたりにカメラマン用の仮設スタンドが増設され、その仮設スタンドにはいるチケットを1枚手に入れることができたんだ。当時のサッカーマガジンの「エース」は、ヨーロッパで8年間も取材経験のあった富越正秀さん。当然「ゴール裏」と言うと思ったんだけど、彼はそこは別のカメラマンに譲って、「自分は仮設スタンドにはいる」と言うんだ。前半だけのゴール裏に陣取ったのは松本正さん。この人もヨーロッパで何年も写真を撮っており、非常に優秀な人だった。しかし試合が始まると、松本さんがカメラを構えているのはアルゼンチンのゴール。試合はアルゼンチンが攻勢で、オランダはなかなか攻め込めなかったから、いいシーンが訪れない。やきもきしていると、前半37分。アルゼンチンが攻め込んでケンペスがゴールを決めたんだ。そうしたら、ケンペスは両手を広げ、まさに富越さんのほうに向かって叫びながら疾走してきたんだ。

K 
そうだったんですか。

Y 
すごいと思ったよ、富越さんは。ケンペスが富越さんに向かって走ってくるんだよ。「これでだいじょうぶ」と直感したね。得点よりもそれに興奮したよ。もちろん、すばらしい写真だった。

K 
しびれるようなお話ですね。

Y 
本当にそうだよね。中島光明さんというカメラマンは、国内取材が中心の人で、ヨーロッパでの経験はなかったけれど、この人も凄かった。決勝戦の朝、ゴール裏の2階席にはいる入場券をどこからか調達してきたんだ。何を撮るのかと思ったら、アルゼンチン名物の「紙吹雪」を、それを投げるサポーターの真ん中にはいって撮った。ある意味でこの大会を象徴するすばらしい1枚になったんだ。まあ、いま振り返っても本当にいろいろなことが起きた大会だったし、そういった意味ではこれまで取材してきたワールドカップのなかでもいちばん印象深い大会だね。

→(続きは次回)

Talk7 ベースボールマガジン入社で開けた夢舞台への切符

皆さん、更新滞っていて大変失礼しました! これからまた定期的に更新していきますので引き続きよろしくお願いします! ということで前回は両親にベースボールマガジン入社のためにした説得の様子まで話してもらいました。今回は引き続きその様子と、ベースボールマガジン入社前に考えた就職先の候補やワールドカップを見に行く難しさについて伺いました。

はじめて出した本の感想は「読みやすかった」

兼正(以下K) 
おばあちゃん(良之の母)はどういう反応をしたんですか? 僕のイメージだと、絶対に反対しそうですが......。

良之(以下Y)
その通り。当時の常識では、良い大学に入って良い会社に就職し、勤め上げる終身雇用の考え方。最もそれが人生をハッピーに過ごせる方法だと誰しもが思っていたし、そのために一生懸命息子を育てたっていうのに、突然わけのわからない出版社に入って「サッカーの本を作るんだ!」って言いだして。「仕事と趣味は一緒ではないでしょ」って嘆き悲しんでいたよ(苦笑)。

K 
それはベースボールマガジン入社後も続いたんですか?

Y
直接言われはしなかったけど、どこかで愚痴っていたかもしれないね。面と向かって言っても入社してしまったものは仕方がないし。でもね、だいぶ後になってなんだけどフリーで仕事をしていけるようになってはじめて出した『サッカーへの招待』(岩波新書)。これを買って読んでくれたらしく、会った時に「とても読みやすかった」って言ってくれたよ。

K
嬉しかったんじゃないですか。

Y
まあ、「読みやすかった」が褒め言葉かどうかはわからないけど(笑)。でも良いことには違いないからね。

K
そのあたりまで引きずっていたんですかね、おばあちゃん。

Y
そうかもしれないね。

K
いつまでも引きずりそうな性格ですもんね。

Y
ここで家族の会話をしても仕方ないだろ(笑)。でも思い返せば約20年かかったことになるのか......。ただ、母親の期待していた道とは違う方向へ進んだにしては、そうたいした年月じゃないのかもね。

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一度は考えた指導者への道

K
すこし話が戻りますが、ベースボールマガジンへ入社する前、指導者になる道は考えませんでしたか?

Y
それはね、考えたよ。サッカーで食べていくって考えた時のひとつの選択肢が高校のサッカー部の監督だった。でもそう思った時には、時すでに遅し。大学で教職課程を取っていなかったんだよね。先生なんて自分には向いていないって思っていたから。もし教職課程を取っていたら政治経済の先生とかになっていたかもしれないな。

K
高校サッカーの監督以外の選択肢はどうですか。

Y
そのほかの選択肢で思いついたのはサッカー協会。でもワールドカップに行くっていう希望を叶えられるとすれば「サッカーマガジン」編集部だって思ったんだよ。

K
わざわざ出版社に入社しなければいけないほどワールドカップを生で見るのは難しかったんですか?

Y
海外に行くことですらひとつの夢として成り立つ時代だったからね。はじめて行ったワールドカップが1974年の西ドイツ大会。この時はお金関係が大変だった。日本経済がまだ海外からそれほど信用されていないから外貨持ち出し制限があったんだ。一人当たり500ドルだったかな? それだけしか持っていけなかったんだ。ほかにもいろいろと費用がかかってね。

K
本当に大変だったんですね。

Y
そうなんだよ。当時、テレビのクイズ番組で一番良い商品が「"夢のハワイ旅行"に行けるチケット」なんて具合だからさ。ところが僕の一つ下の後藤健生さんは74年の時、大学生だったんだけど西ドイツまで見に行ったんだよ。

K
大学生で行くなんて、これまでのお話を聞いている限りよっぽどのことじゃないと行けないですよね。どうして行けたんですか?

Y
それはね、彼がクイズ王だったから。いろいろなクイズ番組に出て、賞金100万円を獲得したんだよ。それで行けたって言っていたよ。

K
えー(笑)。

Y
そうでもしないと行けないから(笑)。今みたいに気軽に海外に行ける時代じゃなかったからね。だから「サッカーマガジン」編集部に入ってなんとかしてワールドカップに行こうって思ったんだよ。

→(続きは次回)

Talk6 ひとひとりの人生をも変える祭典、ワールドカップ

皆さんこんにちは。前回、オイルショックによって内定取り消しの危機に陥った一部始終を語ってもらいましたが、今回はサッカースクールの経験がその後の人生にどう影響したか、そして、「サッカーマガジン」志望の理由について語ってもらいました。
 
サッカースクールで培った編集業務
 
兼正(以下K)
その時々で紆余曲折はあっても、ここまでは順調にキャリアを積み重ねていっている印象を受けるんですが......。

良之(以下Y)
人には中学1年生で編集部に入り、中学3年生でサッカー部に入部、大学卒業と同時に「サッカーマガジン」編集部に入社――なんて計画的な人生なんだろうって言っているけど、実際はそんなこと全くないんだよね。

K
それはどうしてですか?

Y
サッカースクールのアルバイトをしていたときに、「会員に配布する広報新聞を作りたい」って言い出した社員の人がいて、やってくれないかって頼まれたんだ。それからひと月に1冊、会員に配る会報誌を作り始めたんだよ。

K
お願いされた時、少し時間をもらって考えてみようとは思わなかったんですか?

Y
いや、それがすごく簡単に引き受けちゃった。中学のときに会報誌を作っていた経験があったから大丈夫だろうって。でも甘かったね。文章ひとつとっても、中学のときに作っていた会報誌は「原稿用紙3~4枚くらいで記事書こうか」って具合だったから、文字量、さらに行数まで指定されるものなんて経験がなかったんだよ。だからもう大変。会員5~600人に配るから、それなりにしっかりとしたものを求められたからさ。実際作っていた会報誌の一面には「今年の秋期大会では~」なんてサッカースクールに関する情報をもってきて、裏面には「ペレがこんなこと言いました」的な話を写真と一緒に掲載してた。写真はサッカー雑誌の切り抜きを使ったりして。今なら著作権法違反だよね(笑)。

K
おじさん一人で作っていたんですか?

Y
そう、ひとりで作っていた。最初のうちはすごく大変だったよ。よく徹夜もしていたし。大学3年の秋くらいからはじめたから、「サッカーマガジン」のアルバイトをしながら作っていたね。凝った作りにしていたから人に原稿を発注していたよ。

K
赤字を入れたりはしていたんですか?

Y
やってたよ。他人が書く文章ってこんなに癖があるものなのかって、嫌というほどわかった(笑)。でもその経験が後の人生で一番役に立っていると思うよ。
 

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「サッカーマガジン」志望の理由
 
K
「サッカーマガジン」を志望したのはなぜですか?

Y
ワールドカップに行くチャンスが一番ありそうだったからだよ。66年のイングランド大会を見て、次が70年のメキシコ大会。テレビ報道はなかったから、試合の結果が知りたくて、夕刊の英字新聞を一ヶ月間購読して、そこで「ブラジルが勝った!」とか一喜一憂してた。そうしたら、たまたま「三菱ダイヤモンド・サッカー」がその大会のビデオを入手し、放送し始めて僕もそれを見たんだ。映像がカラーだったっていうこともあると思うけど、それぞれの国が違ったスタイルで試合に挑み、白熱した試合を繰り広げるわけ。とにかく凄かった。それでなんとかワールドカップに行けないかなって思い始めた。行けそうなのはどこかなって考えたら「サッカーマガジン」かサッカー協会のどちらかだったんだよ。

K
当時、サッカー専門誌は「サッカーマガジン」ひとつだけだったんですか?

Y
小さいのはいくつかあったと思う。「イレブン」ていう選択肢もあったけど、間違えだらけだったからちょっとなって思って辞めたような気がする(笑)。それもあって「サッカーマガジン」にしたんだよ。大学卒業してすぐのワールドカップは74年西ドイツ大会。自分の中では大学卒業してすぐの新人に行くチャンスはないだろうって思って、その次の78年のアルゼンチン大会に賭けてた。行ければ会社辞めてもいいと思っていたくらいにね(笑)。

K
ワールドカップはおじさんの人生を変えたんですね。

Y
でも父親と母親の前で話をしたときは大変だったよ。まさかワールドカップへ行きたいから「サッカーマガジン」に就職したいなんて言えないから、サッカースクールで指導したことを引き合いにして、サッカーは子供たちが成長するのにすごくいいスポーツで、子供の教育が伴ったこんなすばらしい競技を広めることは、ひいては日本の社会をよくすることに繋がるんだっていったんだ。だから、ただ好きだからその道に進もうと考えているわけじゃないってことを切々と語ったよ(笑)。

K
理解は得られたんですか?

Y
父親が背中を押してくれたんだ。「がんばりなさい」って。えらいよね、お父さんは。こんな邪まな考えが根底にあったのに(笑)。
 
 
→(次回に続く)

Talk5 編集者人生の第一歩


皆さんこんにちは。前回、ベースボールマガジンに突然押し掛けるという驚きの強硬策で、内定を取りつけてしまった経緯を語ってもらいました。今回はサッカーマガジンでのアルバイト生活と、入社にいたるまでの紆余曲折の日々を語ってもらいました。

サッカーマガジン編集部でのアルバイト生活

兼正(以下K)
いよいよおじさんの編集者人生のスタートですね。

良之(以下Y)
そうだと思うでしょ?ところが、編集部が5人体制で人手が足りないから、大学卒業するまでアルバイトをしてほしい、って言われたんだ。サッカーマガジンで働けるのは嬉しかったけど、今までやってきたサッカースクールの仕事ももちろん面白い。だから本音はサッカーマガジンでアルバイトなんてしたくなかった(笑)。

K
もしかして断ったの?

Y
いやいや(笑)。ちゃんとサッカースクールには事情を説明したよ。自分の仕事は他の人に割り振ったりとかしてね。それでサッカーマガジンに行き始めた。大学4年の4月からね。

K
なるほど。でも、それなら大学を卒業してすぐ入社しても、即戦力になりますね。

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Y
おそらく、会社側もそういった目論見が少なからずあったんじゃないかな。そういえば、同じ年の9月に俺と一緒に仕事をしていたアルバイトが辞めたんだ。人手が元々少なかったから当然誰かいないかってことになって。その頃、サッカースクールでコーチをやっていた千野(圭一/元サッカーマガジン編集長)ってやつがいたんだけど、先輩に連れられて僕のところに来て「大住さん、サッカーマガジンに入るんですって?」って目を輝かせながら言うわけ。いや、あれは尊敬の眼差しだったかな(笑)。だから声をかけたんだよ。ちょうど人探しているから、よかったら一緒にやらないかって。

K
そういった経緯があったんですか!

Y
それでね、その頃のアルバイトの仕事って、今みたいにFAXもない、メールもないって環境だから、後輩が出来たことをいいことに千野に原稿取りとか面倒な仕事押し付けちゃってた(笑)。

K
千野さんかわいそう(笑)

Y
後になって千野から「大住さんは下積みを知らないから駄目だ」ってよく言われたよ(笑)。

オイルショックがもたらした、内定取り消しの危機

K
アルバイト時代は特に問題なく過ごされたんでしょうか。

Y
それが、夏頃にオイルショックがあって、紙が一斉値上げになる事態が起こったんだよ。僕はもちろんオイルショックが起きていることは知っていたけど、だからって特別何か自分に害が必要以上に降りかかるわけじゃなかったから、いつものように編集部でアルバイト業務に精を出していたんだ。それで、廊下を歩いていたときに、たまたますれ違った社員の人に「もう就職決まったの?」って聞かれたわけ。僕は当然「来年からこちらでお世話になることになりました」って答えたら、その答えに返ってきた言葉にびっくり。「オイルショックの影響で来年の新卒採用はないよ」って。

K
えっ!? どうしたんですか?

Y
そのことを慌てて編集部の人に言ったら、上に掛け合いに行ってくれて。内定取り消しは回避できたんだよ。でも、世の中がそんな状況だったから、翌年の新入社員は縁故採用4名、その他1名――僕のことだけど――だったってわけ。

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K
とても大変な時代だったんですね。

Y
ほんとに世の中がガラッと変わったからね......。というわけでサッカーマガジンに入るまでの話が長くなっちゃったけど(笑)。こんな感じかな。

K
でも勇気ありますよね。そもそも入りたい会社に押し掛けるとか考えつかなかったです。

Y
めちゃくちゃでしょ(笑)。時代がそれを許してくれたのかもしれないし、マスコミ業界について何の知識もないことが結果的にプラスに働いたのかもしれないな。

K
今の時代じゃ考えられないですよ。

Y
そうかもしれないね。僕から見ればスーツに身を固めて就職活動をする若者に驚いちゃうな。

K
おじさんの他にサッカーマガジンに就職を希望する人っていなかったんですか?

Y
もうひとりひとり入社を希望する人がいたんだよ。しかも同じ大学。結果的に彼はフジテレビに行ったんだけれど。二人だけだったとはいえ、自分を選んでもらった時は正直うれしかったよ。

K
選んだ決め手とか後になって聞かれましたか?

Y
やっぱり人柄じゃないかな(笑)。なんて冗談はさておき、オイルショックのせいでとんだドタバタ劇になってしまったけど、無事入社出来たんだ。

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→(続きは次回)


Talk4 大学時代〜サッカーマガジン入社

皆さんこんにちは!
前回の話しでは奥寺康彦を擁し神奈川県で最強の座をほしいままにしていた相模工業大学付属高校や、帰化選手が多く活躍していた日本リーグについて話してくれました。今回は自身のサッカー人生の"転機"となったサッカースクールでのアルバイト経験や、「サッカーマガジン」入社までの経緯を語ってもらいました。

人生の転機となった東京サッカースクール

兼正(以下K)
そういえば大学時代にサッカーを教えていたって聞いたんですけど、どんなサッカースクールで教えていたんですか?

良之(以下Y)
東京サッカースクールというところでアルバイトをやっていたよ。本部は進学教室を経営している会社だったんだけど、お金が余ってたらしくて、大学生のアルバイトを雇って子供たちにサッカーを教えてたんだ。そこで大学二年生の時から卒業するまで働いてたね。面白かったよ。

K
教えるって大変だけれど面白いですよね。

Y
そうなんだよ、面白いし、それまではただサッカーを好きでやってきたから、自分が考えることってそう多くはなかった。でも教える立場になってから、子供たちにとって「何が大事なのか」って真剣に考えるようになったんだ。

K
大変なこともあったんじゃないんですか?


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Y
本部の管理職の人とぶつかったことがあってね。こっちからしたら「なんでそんなこと言われなきゃいけないんだ」っていう感じのこと。でも相手は責める訳だよね。それで「もうやってられるか」って、気持ちが離れそうになったけど、その時考えたんだ。大学を卒業してどんな会社に就職しても、こういう理不尽なことを要求したりする上司もいるに違いない、そこで辞めてしまったらおしまいじゃないか。仕事をするなら、自分が本当にやりたいことをやろうってね。大学三年の時だったかな。相手は覚えていないと思うけど、僕にとっては人生で非常に大きな出来事だった。サッカーで生きていこうって決めた時だったからね。

K
今考えるとそれが人生のターニングポイントだったんですね。

Y
何でもいいから少なくともサッカーの仕事には就こうと考えた。一生出来るかどうかはわからなかったけれどね。

K
確か大学は法学部でしたよね。

Y
そう、弁護士になろうと思っていたからね。だから一年生の時は一生懸命そのための勉強をしてた。でも勉強の仕方が悪かったのか、さっぱりわからない。テストとかはわかるんだけど実生活での経験がないから、いまいちピンと来なくて。法律って子供がやる学問じゃないって悟った。それで就職を考えるようになった。当時は売り手市場で、大学三年の頃は企業からPRの冊子が山ほど来たんだよ。

K
今の世の中の状況を考えるとうらやましい限り。僕も就職難だったから。

Y
そうだよね。それでね、おじいちゃん(良之の父)が企業からきた冊子を取っておくわけ。封筒だけで天井まで届いたよ(笑)。そんな世の中だったから、大変申し訳ないんだけど、大学二年生からあまり勉強をしなかった。一橋大学卒業って書いてあるけど、ゼミの教授からは「お前なんて大学に置いといても仕方ないから卒業させてやる」って言われてたよ(笑)。でも大学時代に何やっていたかってって聞かれたら「サッカースクールでサッカー教えてました」っていう他ないんだけどね。実際に指導するのは週一回だったけど、それまでの週6日、本部に通いつめて次の指導の準備だとか、夏の企画の検討だとか、安い給料で社員以上に働いていたよ。それがあったから働くってことに関して大きな自信を得ることができた。合宿ひとつに関しても、今まで誰もやらなかったことをやってみたりして、それが好評で徐々に認められていったり。本当に面白くて楽しかったから、卒業するまですっと続けてた。

K
家族の反対とかはなかったの?

Y
大学三年生が終わろうとしていた1月に履歴書を「サッカー・マガジン」編集部に渡しに行ったあとに話したね。神田駅からいきなり「サッカー・マガジン」の裏表紙に書いてある電話番号に電話して、「サッカー・マガジンの池田恒雄さんお願いします」って。本当に何も知らなかったんだよね。池田恒雄さんというのは、ベースボール・マガジン社の創始者で、当時の社長なんだ。でもサッカー・マガジンの裏表紙には「編集兼発行人・池田恒雄」となっていたから、編集長だと思いこんでいたんだ。

K
相手はびっくりしなかったんですか?

Y
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そりゃあびっくりするよ。「どういうご用件でしょうか」って聞かれたから、そこで「サッカー・マガジンに入りたいんですけど」って言ったの。

K
話は聞いてもらえたんですか?

Y
電話交換手の女性がとっても親切な人で、サッカー・マガジンの編集長につないでくれた。「話を聞いてください」って言うと会ってくれて近くの喫茶店で話をした。そうしたら開口いちばん「こんな会社やめとけ」って言われた(笑)。給料安いし、会社更生法にその時入っていたからね。「でもやりたいんです」って言って履歴書渡して帰ってきたら一カ月くらい経って、編集部から「社長が会いたいと言っているから来い」と連絡があって池田恒雄さんに会いに行くことに。でも関係のない話ばっかり。「お前だったら将来銀行の頭取にでもなれるだろ」って、ガハハと笑って。それで就職内定だったんだよ。
→(次回に続く)

サッカーのムダ話について 大住良之の甥、大住兼正(サッカーライター見習い中)と繰り広げるエンドレス・サッカートーク!取材の裏話や記事にならなかったコボレ話など、ここでしか読めない貴重な内容満載の対話連載です。

企画、構成 : 大住兼正

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