明けましておめでとうございます!本年も「サッカーのムダ話」をよろしくお願いいたします。
前回、入部したサッカー部での出来事や、64年東京オリンピック、対アルゼンチン戦で日本が逆転勝利をおさめ、日本サッカー界の歴史的一歩を踏み出したことについて話してもらいましたが、今回は「東洋のコンピューター」と呼ばれたあの人との対戦や、チームのスタイルが明確で楽しめた日本リーグについて語ってくれました。
奥寺康彦と相模大学付属高校黄金期
兼正(以下K)
東京オリンピック後にサッカーの認知度が高まったことは、神奈川県の高校に何か変化をもたらしたんですか?
良之(以下Y)
そうだね。スポーツに力を入れていた学校には、いい選手が集まるようになった。神奈川県だと、なんと言っても相模工業大学付属高校。僕の年代の各中学のエースがごっそり集まってすごいチームを形成してた。あの奥寺康彦もいた。神奈川県の高校はそれまで全国に行っても上の方まで進むのが難しかったんだけど、その年代は確かベスト8までいったんじゃなかったかな。とにかく圧倒的に強かったよ。
K
相模工業大学付属高校はものすごい練習量で有名だったって聞いたことがあるけど。
Y
そりゃそうだろな。うちみたいな週二回の部活動じゃやっぱりだめだよ(笑)。ちなみに高校サッカーで一番メインとなる二年の時のインターハイの初戦の相手。
K
え!? 1回戦でいきなりそんな強豪校と。
Y
そうなんだよ。だからこっちはもう守るしかないって感じだった。でも、始まってすぐに相手の左からのコーナーキック。バーンって大きめのボールが上がって、僕らはみんな裏に抜けるなって思っていたんだよ。そうしたら中央で奥寺がドカーンって来て。ジャンプを見たら、二階ぐらいの高さからすごいヘディングシュート打つわけ。それで先制されてしまった。
K
もう漫画みたいな世界(笑)。
Y
怪物だったよ。彼はね、中学から高校にかけて体がグンと急激にでかくなった。だから存在感も抜群で。
K
奥寺さんって当時どのポジションでプレーしてたんですか?
Y
センターフォワードだった。すごかったよ、とにかく。
K
県内で他で強い高校はありましたか? 今だと、桐蔭学園とかが強豪として有名ですけど。
Y
桐蔭は今ほどじゃないけど、当時ベスト8に入るぐらいの力はつけていたね。まあ、でもやっぱり相模工業大学付属高校が図抜けた強さだったってことは強烈に覚えているよ。
さまざまなプレイスタイルを楽しめた日本リーグ
K
おじさんの高校時代って「三菱ダイヤモンド・サッカー」の他に、世界のサッカー情報を仕入れる手段ってなんだったんですか? 僕の高校時代はテレビだと深夜にフジテレビでやっていた「セリエAダイジェスト」。ジョン・カビラさんと青島アナウンサーの実況が面白くて強烈に印象に残ってます。特に青島さんが、当時インテルに所属していたヴィエリの実況をするときなんか最高だった。彼がボールを持つと、ただ「ウォー、ウォー」って吠えまくるの(笑)。一見言葉だけだと意味が伝わらないんだけど、彼のいかつい風貌とガツガツしたプレースタイルがあまりにもマッチしていて深夜なのにゲラゲラ笑ってました(笑)。あとは、雑誌だと「サッカーマガジン」や「サッカーダイジェスト」。ちょっと格好つけてるやつはナンバーとか読んでましたね。
Y
僕の頃はサッカー関連の情報を伝える媒体自体が少なかったからね。でも「サッカーマガジン」はあった。少し経ってから「イレブン」が創刊されたんだけど。「三菱ダイヤモンド・サッカー」が始まったのが高校二年の時。それで一年間はずっとイングランドサッカー漬け。それ以外の国のサッカーってほとんど見ることが出来なかったから。「サッカーマガジン」にのる海外情報もほとんどイングランドだったね。
K
好きなチームってありました?
Y
高校のころは、特別好きなチームってなかったかな。でも日本リーグのヤンマーのことは気になって見てたね。1967年に釜本が入って、そのあとすぐネルソン吉村が入団した。ヤンマーのプレースタイルってとっても画期的だったんだよね。当時は東洋工業サッカー部が「第三の動き」っていう呼び名がつけられるほど、人が動くサッカーで強かった時代。それに対抗するのはヨーロッパスタイルの三菱重工業サッカー部。監督はブンデスリーガに短期間選手を預けて強化を図ったことでも有名な二宮寛。そこに鬼武健二監督のヤンマーがブラジルスタイルで食い込んできたわけ。ネルソン吉村に続いてカルロス・エステベスやジョージ小林をブラジルから呼んで、個人技はめちゃくちゃうまかったよ。日本人も個人技のうまいやつを揃えてた。今と比べてチームごとのスタイルの違いがとてもはっきりしていて、非常に面白かったね。
K
実際に見に行ったりとかは?
Y
高校時代はあまり行けなかった。横浜の三ツ沢には何回か行ったことはあったけれど。大学に入ったら、毎週のように見に行っていたよ。東京に住んでいたから、行こうと思えばいつでも見に行くことが出来た。お客さんも全然いなかったから、前売りも買う必要がなかった。スタジアムに行けば入れたからね。
→(次回に続く)
皆さんこんにちは!
前回のインタビューで、オールドサッカーファンの中には因縁の対決として記憶に残っている方もいるであろう、1966年ワールドカップ決勝「イングランドVS西ドイツ戦を見たことがサッカーに本格的にのめり込むきっかけだった」と語ってくれた良之おじさん。今回は、その後すぐに入部を決意したサッカー部での出来事や、当時憧れていたサッカープレーヤー、そして日本サッカー界が発展への道を歩みだす第一歩となった試合について語っていもらいました。
兼正(以下K)
世界のサッカーシーンにとっても(とりわけイングランドとドイツの間では現在でも論争がおこる)重要な一戦となった試合を見て入部を決意したわけだけど、イングランド大会を見るまでは特にサッカー部に入るとかは考えていた訳じゃなかったんですか?
良之(以下Y)
本当になんでもよかった。ただ放課後「だら~」って過ごすことに飽き飽きしてた頃だったから、とにかく体を動かせる部活に入りたかった。
K
小学校のときにやってた野球は選択肢にはなかった?
Y
うちの野球部の雰囲気があまり好きじゃなかったから(笑)。その時ね、たまたま僕の隣に座ってたやつも同じような状況だった。ブラスバンド部だったけどね、そいつは。いっしょに野球部に入ろうって誘われたんだけど、夏休み明けに僕が「サッカー部に入ったよ」って言ったら、そいつも入って。
K
じゃあ今まで入っていた編集部は辞めてサッカー部に?
Y
いや、掛け持ちでやってたね。時間だけはたっぷりある部活だったから(笑)。
K
サッカー部ではポジションはどこでプレーしていたんですか?
Y
入った時は、周りはずっとサッカーやってるやつばかりだった。だから中学三年だけど一年生の練習に混ざってやってた。ポジションなんてなかったよ。それである程度基礎が身についてようやく三年の練習に加わったんだ。ポジションはフォワード。ただし、フォワードって言っても格好いい点を決めるタイプじゃなくて、こす~い点をとるタイプ(笑)。
K
泥臭いってこと?
Y
ちがうちがう、こす~い点取り屋(笑)。
憧れのプレーヤーはジミー・グリーブス
K
ぼくは学生時代、アーセナルに所属していたオランダ代表のデニス・ベルカンプにあこがれていたんだけど、良之おじさんの憧れてたプレーヤーって誰でした?
Y
ジミー・グリーブスって知ってる? その頃ね、「三菱ダイヤモンド・サッカー」っていう海外のサッカーを紹介するTV番組をやってたんだ。だからトットナム、アーセナル、マンチェスター・ユナイテッドとかの情報は手に入れることができた。ジミー・グリーブスはトットナムの選手で、そんなに大きくないんだけど、ゴール前でこちょこちょってやって点を取ってた。
K
その選手に憧れていた?
Y
憧れてたとまではいかないけれど、強いてあげるとすればね。
K
おじさんは背番号は何番を付けていたんですか?
Y
背番号は8番をつけたかったんだけど、当時の学校のサッカー部って個人でユニフォームを持っているわけじゃなくて、部で十一枚持つシステムだった。ちなみにキーパーは自分で用意したユニフォーム。だから番号で言うと二番から十二番まで。だから一人目の交代はいいんだけど、それ以上交代するとなるとその場で脱いで渡してた。汗の染みこんだベチョベチョのやつを(笑)。
K
うわ~、ビブスでさえ人から受け取ると異様な臭いがしたりするのに(笑)。そういった面を考えると今の中学や高校のサッカー部は恵まれてますね。サッカー部のレベルはどうでした?
Y
神奈川県の中では強かった方かな。と言っても、神奈川県でサッカーがあまり盛んでない頃の話だけれど。他校には高校から始めた人たちも結構多かったし、昔からの通例で「サッカー部=不良の溜まり場」みたいなところもあった。僕の高校は週に二回しか部活動がなかったんだ。だからフィジカル的には弱いけれど、小さい頃からやっている奴が大半だったから、技術的にはしっかりしたモノを持っているチームだった。僕の五年上の代は全国大会に出ていたから。当時は単独校の大会だった国体の予選にも勝ったんだけど、学校が「他の生徒が勉強しているときに、部活動をするなんて許さない」って言って出場を許可してくれなかった。
K
すごい時代(笑)。今では考えられない理由ですね。
Y
それはそれでひとつの考え方だと思うけどね。ただ社会的に見れば、サッカーの認知度など非常に低い時期だった。でも64年の東京オリンピックで日本がアルゼンチンに勝つという快挙があって、少しずつ状況が変わってきていた。それまではサッカー=球蹴りのイメージだったんだけど、そのころからサッカーという競技が一般に認知されはじめたんだよね。
→(続きは次回)
はじめまして、大住兼正です。名字からお察しの通り、大住良之さんと僕とは親戚の間柄。叔父と甥の関係になります。
小さい頃から良之おじさんの記事を読んで育ち、いま僕はサッカーライター見習い中の身です。今回このサイトを開設するにあたって、おじさんとの対談をこのサイトで連載しないかというお誘いを頂きました。
おじさんが長い記者生活の中で体験してきた、サッカーにまつわるあれこれを聞き出し、読んでくださるみなさんに楽しんで頂く。そして僕自身も多くのことをこの対談で吸収していきたいと思います。
最近は僕と同じようにスポーツライターを志望する方がとても多く、どうやら人気の職業のひとつと言ってもいいと思いますが、かつておじさんが記者になった頃はどうだったのでしょうか?この連載のスタートに際して、おじさんがどのようにしてサッカーに興味を持ち、記者の道を選んだのか、当時の日本サッカーをとりまく様々なエピソードを交えて語ってくれました。当時を懐かしむ方、そんな時代があったのかと驚かれる方、いろんな方がいると思いますが、一人でも多くの方にこの連載を楽しんで頂ければうれしいです。
兼正(以下K)
こうして良之おじさんとサッカーの話をみっちりするのは、実ははじめてですよね。今日は僕みたいな若いサッカーファンにとっては貴重な話しがたくさん聞けると思うので、楽しみです。
良之(以下Y)
どうぞよろしくおねがいします。
K
では、さっそくですがサッカーに興味を持ったきっかけを聞かせてもらえますか。
Y
はじめてサッカーというものに触れたのは、小学生のとき。体育の授業でラインサッカーっていう競技があって、でも当時はサッカーという名前を知っている人はいてもどんな競技か知っている人は少なかった。だから先生たちの中には、サッカーは手を使ってはいけない競技なんだっていうイメージが先行している人が多くて、僕らは手を後ろに回した状態でのプレーを要求されてね。今じゃ考えられないけど。はっきり言って全然面白くなかった。けれど入学した中学校が、サッカーが校技みたいに非常に盛んなところでね。一年生の時にスポーツ大会があったんだけど、卓球とサッカーに参加したんだ。結局なにも出来なかったけど(笑)。でもその時、広い場所でサッカーをやったら「気持いいな」って思って。それがすべての始まりかな。
K
そこから本格的にサッカーに熱中するようになったのはどんなきっかけがあったんですか?
Y
1966年のワールドカップをテレビで見たことだね。当時、僕は中学校で校友会誌を作成する編集部に入っていて。そこで年に数回、会誌作りの活動をして残りの日々は遊び呆けていた。そんな学校生活がしばらく続くわけだけど、中学三年生になってくると、一般的には体も大きくなってくるよね。僕は大きくならなかったけど(笑)。その頃から実際にスポーツをやることにも興味を持つようになってきて。中高一貫教育の学校だったから、中学三年生の途中からでも部活に入ることが出来たのも今考えれば良かったかなって思う。それで、小学校のころは野球をやっていたから野球部にしようか、体育の授業でやったバレーが楽しかったからバレー部にしようかとか考えていた。ただ、サッカー部には友達が何人もいたからね。楽しそうだとも思っていたよ。そうこうしているうちに夏休みに入ってしまって。その年がちょうど1966年のイングランドワールドカップの年だったんだよ。
きっかけは1966年ワールドカップ・イングランド大会
K
今ではみんな当たり前のようにテレビでワールドカップを見ているけど、当時はワールドカップの中継ってされていたんですか?
Y
そう、それがね、だれも信じないんだけどやってたんだ。未だにそんな番組なんてやってなかったって言う人も多いけど。でも実際やってたの。決勝戦だけだったけど。確かTBSだったかな? 衛星生中継じゃないよ。試合の8日後に、空輸されてきたフィルムを放映したんだ。
K
66年のイングランド大会といえば、サッカー発祥の地であるイングランドが初優勝した大会でしたよね。ペレやボビー・ムーア、エウゼビオ、ベッケンバウアー、それにヤシンとかバンクスなど、今では記録映像でしか見ることの出来ない偉大な選手たちが活躍したすごい大会ですよね。
Y
そう。「7月30日、ワールドカップ決勝。イングランドVS西ドイツ戦」。僕はもう夏休みに入っていて、家でなにをするわけでもなくプラっとしていたの。それでたまたまテレビをつけたらその試合の放送をやっていて。結果は新聞で読んで知っていたんだけれど。それは読売新聞の一番下の1段10行くらいの小さな記事で、イングランドが西ドイツに勝ったってことが書かれていた。でもスコアまでは覚えていなかったからね。試合は西ドイツがハーラーのゴールで先制するけど、すかさずイングランドもハーストのゴールで追いつく。さらにイングランドがピータースのゴールで追加点をあげ、西ドイツを逆転。そのまま終盤を迎えるわけ。このままイングランドが勝つんだろうなと思っていたら、終了直前に西ドイツのウェーバーの値千金のゴールで追いついて、延長戦に突入するわけ。当時、外国のサッカーを見る機会なんて全くなかったから、ほんとにその時が初めてだよ。日本リーグは何度か見ていたけど、全然違う体験だった。もう何もかもが想像がつかないくらい違う。今のプレミアリーグをテレビで見ていても「すごい!」と思う場面がたくさんあるけれど、あの頃はグラウンド、スタジアム、そして観客にいたるまで全てが全く別世界のものみたいだった。そして見ている試合は終了間際にゴールが入り、延長戦に突入するドラマチックな展開でしょ。結局イングランドが延長戦で二点とって初優勝を飾るんだけど、もう僕はそれどころじゃない。「うわっ、これはおもしろいな」って思ったんだよ。それで夏休みが終わったときにはサッカー部に入部届けを出しに行ってた。
K
うん、情報が本当に少ない時代にそんな試合を見ちゃったら、間違いなく僕も入部届けの準備にとりかかっていたんじゃないかな(笑)。
→(続きは次回)