1951年07月17日、神奈川県横須賀市久里浜生まれ
サッカージャーナリスト
日本サッカーライターズ協議会事務局長
日本スポーツプレス協会副会長
財団法人日本サッカー協会女子委員会委員
財団法人日本サッカー協会審判委員会委員
財団法人日本サッカー協会殿堂委員会委員
小学生時代は父の影響で野球に熱中。4年生時には同学年の仲間でチームもつくった。中学入学後、校友会誌『栄光』の編集部に入部(高校3年まで)、並行して、中学3年の9月にサッカー部に入部、以後、サッカーのとりことなる。
大学進学とともに、1970年、高校時代のサッカー仲間と「Eiko High Forever」というクラブを創設、神奈川県湘南地方のリーグで活動。1972年からはコーチとして働いていた東京サッカースクールの生徒の父親とコーチでつくった「タイガー・サッカー・クラブ」でプレーヤーとして登録し、翌年から1990年にかけて東京都社会人リーグ3部、2部のリーグ戦や天皇杯全日本選手権の東京予選などに出場。1985年より「タイガー・サッカー・クラブ」マネジャー(~1990)。現在も同クラブで選手登録をしている。
1984年より女子サッカークラブ「FC・PAF」の監督(~現在)。
大学入学時は弁護士を目指していたが、1年で適性がないと判断、3年のときにサッカーで生きていくことを考え、当時存在した2つのサッカー専門月刊誌のひとつである『サッカー・マガジン』(ベースボール・マガジン社発行)で働くことを決意する。大学4年時、1年間のアルバイトを経て、1974年、大学卒業とともに正式入社、1978年には編集長となる。
1982年にベースボール・マガジン社を退職、翌83年、『サッカー・マガジン』の先代編集長だった橋本文夫さんが興した株式会社アンサーに入社、トヨタカップ、キリンカップなどの来日チームの取材を主な仕事とする。この当時にヨーロッパや南米の有力クラブを内側から取材できたことが、後年の大きな財産となる。
1988年、株式会社アンサーを退職、フリーランスとなる。
1991年2月、『報知新聞』で「スーパースター物語」がスタート、1年間にわたって週6回の連載が続いた。同紙で1992年秋に始まったリレーコラムで書いた週1回のコラムが東京新聞運動部の財徳健治氏の目に止まり、翌年からの「サッカーの話をしよう」の連載につながる。「サッカーの話をしよう」は、財徳健治さんの提案を当時の運動部長だった海藤栄治さんが取り上げ、実現したもので、最初の年には特別なコラムタイトルはついていなかった。「サッカーの話をしよう」となった1回目は、1994年1月4日(通算第35回)だった。タイトルをつけてくれたのは、東京新聞整理部の中根英之さんである。以後、このコラムがサッカージャーナリストとしての仕事の「軸」となっている。
- 1958年4月 横須賀市立久里浜小学校入学
- 1964年3月 同小学校卒業
- 1964年4月 私立栄光学園中学校入学(第18期生)
- 1967年3月 同中学校卒業
- 1967年4月 私立栄光学園高等学校入学
- 1970年3月 同高等学校卒業
- 1970年4月 一橋大学法学部入学
- 1974年3月 同大学卒業
- 1971年4月 東京サッカースクールコーチ(~1974)
- 1973年4月 『サッカー・マガジン』編集部(アルバイト)
- 1974年4月 (株)ベースボール・マガジン社入社
『サッカー・マガジン』編集部配属 - 1978年5月 『サッカー・マガジン』編集長に就任
- 1982年7月 (株)ベースボール・マガジン社退職
- 1983年3月 (株)アンサー入社
(トヨタカップ来日チームなどの取材を担当) - 1988年6月 (株)アンサー退職、フリーランスとなる
- 1991年1月 財団法人日本サッカー協会
「ワールドカップ招致準備室」勤務(~同年4月) - 1993年8月 FIFA U-17世界選手権の日本組織委員会報道担当(~同年9月)