日本サッカー協会の島田秀夫会長が2002年ワールドカップの招致に関して「アジアには期待していない」と発言したという問題は、会長自身が釈明して一応は落ちついたようだ。
ワールドカップ開催地を決めるのは国際サッカー連盟(FIFA)の理事会。アベランジェ会長を含む23人の理事の投票で、過半数をとらなければならない。アジアからの理事会メンバーは3人。その3人の票だけでは当選することはできないので、「アジアだけにとらわれずに運動していく」というのが島田会長の真意だった。
しかし、これは少し筋が違うのではないか。日本が2002年ワールドカップを開催したいと考えたら、まずはアジアの国ぐにから支持されなければならないと思うからだ。
FIFAにとって、日本はワールドカップ開催の理想的な条件を備えている。強固な企業協賛、安全で、通信や交通施設も万全、施設の計画も申し分ない。何よりも通貨が非常に強く、安定した収入を得ることができる。その日本が、大会の10数年も前から真剣に招致活動をやってきたのだ。印象が悪いわけがない。
それだけではない。正式な立候補をする前にプロリーグを発足させ、大成功を収めている、93年のU−17世界選手権など、FIFAイベントへの協力も非常に積極的だ。
長年にわたる努力で、日本サッカー協会は南米サッカー連盟との間に密接な関係を築いてきた。これも大きな助けになるだろう。
だがしかし、アジア諸国が「ワールドカップ日本開催」を望まないとしたら、FIFAは、そして世界はどう見るだろうか。アジアの支持は、ただの「3票」ではないのだ。
では、アジアの支持を得るためにどうすればいいのか。中東の産油国のようにアジアサッカー連盟に大金を寄付するような方法は関心できない。アジアのサッカーの発展に寄与できるものであってほしい。
1969年に千葉の検見川東大グラウンドで「FIFAコーチングスクール」が開かれた。FIFAからはデットマル・クラマー・コーチが派遣されたが、スクールにかかる経費は日本協会が負担した。当時の協会は借金だらけだったが、「10年、20年先のための投資」と、2300万円という大金を出した。
アジアの12カ国のコーチ40人(うち日本人12人)が受講し、その成果はアジアのサッカーのレベルを引き上げるのに大きな役割を果たした。
もちろん当時といまでは状況が違う。アジアのサッカーも大きく進歩した。だが同じようにアジア全体のためになることがまだまだいくらでもあるはずだ。
日本サッカー協会は、招致活動を始めるにあたってワールドカップの日本開催が「アジアサッカー全体にとっても大きな意義のあること」(招致パンフレットの高円宮・協会名誉総裁のあいさつから)と宣言している。それならば、招致活動自体がアジアのサッカーの発展に役立つものであればいっそういい。
日本の2002年招致委員会は、96年6月の開催地決定までに40億円以上の予算をもっている。その一部をアジアのサッカー発展のために役立てることはできないのだろうか。
もちろん、招致が決まったらそんなものはもう必要ないというわけにはいかない。アジアのサッカーが発展していくために恒常的な活動を行わなければならない。日本協会は、アジア初のワールドカップを日本で開催することに対するアジア全体への責任を、重く受け止めなければならない。
(1994年5月31日=火)
ワールドカップ開催地を決めるのは国際サッカー連盟(FIFA)の理事会。アベランジェ会長を含む23人の理事の投票で、過半数をとらなければならない。アジアからの理事会メンバーは3人。その3人の票だけでは当選することはできないので、「アジアだけにとらわれずに運動していく」というのが島田会長の真意だった。
しかし、これは少し筋が違うのではないか。日本が2002年ワールドカップを開催したいと考えたら、まずはアジアの国ぐにから支持されなければならないと思うからだ。
FIFAにとって、日本はワールドカップ開催の理想的な条件を備えている。強固な企業協賛、安全で、通信や交通施設も万全、施設の計画も申し分ない。何よりも通貨が非常に強く、安定した収入を得ることができる。その日本が、大会の10数年も前から真剣に招致活動をやってきたのだ。印象が悪いわけがない。
それだけではない。正式な立候補をする前にプロリーグを発足させ、大成功を収めている、93年のU−17世界選手権など、FIFAイベントへの協力も非常に積極的だ。
長年にわたる努力で、日本サッカー協会は南米サッカー連盟との間に密接な関係を築いてきた。これも大きな助けになるだろう。
だがしかし、アジア諸国が「ワールドカップ日本開催」を望まないとしたら、FIFAは、そして世界はどう見るだろうか。アジアの支持は、ただの「3票」ではないのだ。
では、アジアの支持を得るためにどうすればいいのか。中東の産油国のようにアジアサッカー連盟に大金を寄付するような方法は関心できない。アジアのサッカーの発展に寄与できるものであってほしい。
1969年に千葉の検見川東大グラウンドで「FIFAコーチングスクール」が開かれた。FIFAからはデットマル・クラマー・コーチが派遣されたが、スクールにかかる経費は日本協会が負担した。当時の協会は借金だらけだったが、「10年、20年先のための投資」と、2300万円という大金を出した。
アジアの12カ国のコーチ40人(うち日本人12人)が受講し、その成果はアジアのサッカーのレベルを引き上げるのに大きな役割を果たした。
もちろん当時といまでは状況が違う。アジアのサッカーも大きく進歩した。だが同じようにアジア全体のためになることがまだまだいくらでもあるはずだ。
日本サッカー協会は、招致活動を始めるにあたってワールドカップの日本開催が「アジアサッカー全体にとっても大きな意義のあること」(招致パンフレットの高円宮・協会名誉総裁のあいさつから)と宣言している。それならば、招致活動自体がアジアのサッカーの発展に役立つものであればいっそういい。
日本の2002年招致委員会は、96年6月の開催地決定までに40億円以上の予算をもっている。その一部をアジアのサッカー発展のために役立てることはできないのだろうか。
もちろん、招致が決まったらそんなものはもう必要ないというわけにはいかない。アジアのサッカーが発展していくために恒常的な活動を行わなければならない。日本協会は、アジア初のワールドカップを日本で開催することに対するアジア全体への責任を、重く受け止めなければならない。
(1994年5月31日=火)
「プロ・サッカーチームの監督というのはね、選手のパスポートを見てはいけないんだよ」
私が敬愛するクロアチア人監督トミスラフ・イビッチ(60)の言葉だ。
この言葉を聞いた87年秋、彼が指揮するFCポルト(ポルトガル)は欧州のトップクラブで、たくさんのスターと若手のホープをかかえていた。そのなかから11人を選ぶことの難しさについて話していたときの言葉だった。
「どんなにたくさんの有名選手がいても、必ずベストの11人が存在する。監督がすべきことは、国籍や年齢(つまりパスポートに記載されている情報)などは無視し、その11人を正しく見抜き、それに正直になること」
これが彼の本意だった。
いまJリーグには30歳以上の選手が45人いるが、その約半数は外国人。日本人は25五人にすぎない。一チーム平均2人ということになる。これは、プロのサッカーとしてはやや「異常」な事態ではないかと思う。30歳を超えてプレーできるのは、ごく限られた特別の選手ということになるからだ。
たしかに、現代のサッカーは体力的な要素が高く、「活動量が落ちても経験でカバーする」という、かつての「ベテラン選手」のあり方は受け入れられにくくなっている。
だが同時に、戦術面での複雑化にともない、一人前の選手になるのによりいっそうの「成熟」が必要になった。かつては20歳そこそこの選手が世界のトップで活躍することも珍しくはなかったが、現在では23歳以下の選手がチャンスを与えられることは多くはない。Jリーグのように30歳でなんとなく線が引かれてしまうと、活躍できるのはわずか6、7年間ということになる。
30歳を超してなお若手に負けないスピードとコンディションを保ち、最先端の戦術的要求をこなすことのできる選手がたくさんいないと、リーグは味気のないものになってしまう。
第1に、選手自身が年齢を気にしないようにする。「もう30だから」という考えは、「自己管理をしっかりしよう」というより、自己弁護、自分に対する甘えの気持ちにつながることが多いからだ。
第2に、監督、コーチが選手の年齢を忘れることが必要だ。数年単位のチームづくりを考えるときには若い選手を使いたくなるだろうが、原則としては、コンディションや技術、戦術など、純粋に選手としての能力だけから判断しなければならない。
人間というのは、たくさんの固定観念、偏見に支配されている。どんなに「自由」な人でも、この呪縛から逃れることはできない。だが同時に、知恵によってその固定観念から逃れることも、人間の能力のひとつであるはずだ。
ポルトガルでは、ブラジル人はなぜか「外国人」扱いされない。だが「外国人選手は3人まで」という規定から、Jリーグでは監督はパスポートを見ないわけにはいかない。しかしそれは表紙だけにするべきだ。選手に生年月日があることなど忘れてほしい。
残り5節となったJリーグ第1ステージ。このステージ終了後、2人の大ベテランがサッカーシューズを脱ぐ予定だと聞く。アントラーズのジーコ(41歳)とエスパルスの加藤久(38歳)だ。
ふたりはたくさんの負傷と戦い、自己のコンディションをプロのレベルに保つために血のにじむような努力で自己管理をしながらここまでやってきた。このような選手がたくさん出てこないと、Jリーグは成熟を迎えることはできない。
(1994年5月24日=火)
私が敬愛するクロアチア人監督トミスラフ・イビッチ(60)の言葉だ。
この言葉を聞いた87年秋、彼が指揮するFCポルト(ポルトガル)は欧州のトップクラブで、たくさんのスターと若手のホープをかかえていた。そのなかから11人を選ぶことの難しさについて話していたときの言葉だった。
「どんなにたくさんの有名選手がいても、必ずベストの11人が存在する。監督がすべきことは、国籍や年齢(つまりパスポートに記載されている情報)などは無視し、その11人を正しく見抜き、それに正直になること」
これが彼の本意だった。
いまJリーグには30歳以上の選手が45人いるが、その約半数は外国人。日本人は25五人にすぎない。一チーム平均2人ということになる。これは、プロのサッカーとしてはやや「異常」な事態ではないかと思う。30歳を超えてプレーできるのは、ごく限られた特別の選手ということになるからだ。
たしかに、現代のサッカーは体力的な要素が高く、「活動量が落ちても経験でカバーする」という、かつての「ベテラン選手」のあり方は受け入れられにくくなっている。
だが同時に、戦術面での複雑化にともない、一人前の選手になるのによりいっそうの「成熟」が必要になった。かつては20歳そこそこの選手が世界のトップで活躍することも珍しくはなかったが、現在では23歳以下の選手がチャンスを与えられることは多くはない。Jリーグのように30歳でなんとなく線が引かれてしまうと、活躍できるのはわずか6、7年間ということになる。
30歳を超してなお若手に負けないスピードとコンディションを保ち、最先端の戦術的要求をこなすことのできる選手がたくさんいないと、リーグは味気のないものになってしまう。
第1に、選手自身が年齢を気にしないようにする。「もう30だから」という考えは、「自己管理をしっかりしよう」というより、自己弁護、自分に対する甘えの気持ちにつながることが多いからだ。
第2に、監督、コーチが選手の年齢を忘れることが必要だ。数年単位のチームづくりを考えるときには若い選手を使いたくなるだろうが、原則としては、コンディションや技術、戦術など、純粋に選手としての能力だけから判断しなければならない。
人間というのは、たくさんの固定観念、偏見に支配されている。どんなに「自由」な人でも、この呪縛から逃れることはできない。だが同時に、知恵によってその固定観念から逃れることも、人間の能力のひとつであるはずだ。
ポルトガルでは、ブラジル人はなぜか「外国人」扱いされない。だが「外国人選手は3人まで」という規定から、Jリーグでは監督はパスポートを見ないわけにはいかない。しかしそれは表紙だけにするべきだ。選手に生年月日があることなど忘れてほしい。
残り5節となったJリーグ第1ステージ。このステージ終了後、2人の大ベテランがサッカーシューズを脱ぐ予定だと聞く。アントラーズのジーコ(41歳)とエスパルスの加藤久(38歳)だ。
ふたりはたくさんの負傷と戦い、自己のコンディションをプロのレベルに保つために血のにじむような努力で自己管理をしながらここまでやってきた。このような選手がたくさん出てこないと、Jリーグは成熟を迎えることはできない。
(1994年5月24日=火)
5月13日は日本のサッカー関係者にとってショッキングな1日だった。
日本政府のマラドーナへのビザ発給拒否はアルゼンチンのキリンカップ参加取り止めを引き起こし、クアラルンプールではアジア・サッカー連盟(AFC)の選挙で日本の村田忠男氏が落選し、狙っていた国際サッカー連盟(FIFA)副会長の座を逃した。
大きな問題は、このふたつの出来事がが2002年ワールドカップの日本招致に影を落とすのではないかということだ。
ワールドカップの開催には「政府の保証」が不可欠な条件になっている。そしてそのなかには、FIFAが認めた役員、選手団、報道関係者など、すべての人にビザを与えるという条項が含まれている。今回のマラドーナへの対応は、日本には国際的なサッカーを受け入れる態勢ができていないのではという懸念を抱かせる危険性がある。
だが、今回の政府決定をワールドカップの招致に結びつけて非難するのは妥当ではないと思う。
政府(法務省)の判断は「麻薬所持で逮捕された経歴のある者にはビザを発給しない。今回も例外は認めない」というものだった。
麻薬は、エイズと並んで21世紀の世界を脅かす大問題。日本では厳しい税関や取り締まりなどで、諸外国ほどの広がりは見せていないが、それでも徐々にその被害は広まっている。
マラドーナがどのようで経緯でコカイン使用に走ったかは知らないが、それを常用し、また保持しているところを検挙されてイタリアで有罪の判決を受けたのは事実である。そして法務省の方針が、現在はどうであろうと、そうした経歴のある者を入国させないというのなら、それはそれでひとつの「見識」だ。
ワールドカップ開催は、サッカーのみならず、日本の社会に大きなプラスになると思う。大衆に最も身近なスポーツであるサッカーを通じて世界と交流することは、日本と日本人にとって非常に意義が大きい。同時に、青少年に夢を与える大会になるだろう。
だがそれはあくまで、スポーツの大会にすぎない。「子供たちにワールドカップを与えますか、麻薬を与えますか」という質問をされたら、どこに考える余地があるだろうか。
AFC選挙が前述のような結果になったことも、韓国がなりふりかまわぬ「選挙運動」をした結果であることは明らか。日本のサッカーに対する熱意や姿勢、あるいは村田氏個人の能力に対する評価が反映されたものではない。
このようなことで招致に疑念を抱く必要はない。
日本は麻薬に毒されていない安全で健全な社会であり、国民は心温かく親切さにあふれ、そのうえに大会を運営し、遂行する能力が優れているなど、ワールドカップ開催にふさわしい条件を備えていることを、これからも強くアピールするべきだ。それによって日本で開催するワールドカップが、大会本来の楽しさにあふれたものになることを理解してもらうことだ。
ワールドカップの日本開催が、日本にとっても、またその大会を享受する世界にとっても価値のあるものであることを心から信じている人なら、今回の事件ぐらいで信念が揺らぐことはないはずだ。
アルゼンチンが来日中止を発表した晩、東京のテレビではアルゼンチン代表の最新の試合が放映されていた。そしてマラドーナはいまだにとてつもない天才であることを示していた。このチームが来日しないのはファンとしては悲しいことだ。だが、現時点では仕方のないことだった。
(1994年5月17日=火)
日本政府のマラドーナへのビザ発給拒否はアルゼンチンのキリンカップ参加取り止めを引き起こし、クアラルンプールではアジア・サッカー連盟(AFC)の選挙で日本の村田忠男氏が落選し、狙っていた国際サッカー連盟(FIFA)副会長の座を逃した。
大きな問題は、このふたつの出来事がが2002年ワールドカップの日本招致に影を落とすのではないかということだ。
ワールドカップの開催には「政府の保証」が不可欠な条件になっている。そしてそのなかには、FIFAが認めた役員、選手団、報道関係者など、すべての人にビザを与えるという条項が含まれている。今回のマラドーナへの対応は、日本には国際的なサッカーを受け入れる態勢ができていないのではという懸念を抱かせる危険性がある。
だが、今回の政府決定をワールドカップの招致に結びつけて非難するのは妥当ではないと思う。
政府(法務省)の判断は「麻薬所持で逮捕された経歴のある者にはビザを発給しない。今回も例外は認めない」というものだった。
麻薬は、エイズと並んで21世紀の世界を脅かす大問題。日本では厳しい税関や取り締まりなどで、諸外国ほどの広がりは見せていないが、それでも徐々にその被害は広まっている。
マラドーナがどのようで経緯でコカイン使用に走ったかは知らないが、それを常用し、また保持しているところを検挙されてイタリアで有罪の判決を受けたのは事実である。そして法務省の方針が、現在はどうであろうと、そうした経歴のある者を入国させないというのなら、それはそれでひとつの「見識」だ。
ワールドカップ開催は、サッカーのみならず、日本の社会に大きなプラスになると思う。大衆に最も身近なスポーツであるサッカーを通じて世界と交流することは、日本と日本人にとって非常に意義が大きい。同時に、青少年に夢を与える大会になるだろう。
だがそれはあくまで、スポーツの大会にすぎない。「子供たちにワールドカップを与えますか、麻薬を与えますか」という質問をされたら、どこに考える余地があるだろうか。
AFC選挙が前述のような結果になったことも、韓国がなりふりかまわぬ「選挙運動」をした結果であることは明らか。日本のサッカーに対する熱意や姿勢、あるいは村田氏個人の能力に対する評価が反映されたものではない。
このようなことで招致に疑念を抱く必要はない。
日本は麻薬に毒されていない安全で健全な社会であり、国民は心温かく親切さにあふれ、そのうえに大会を運営し、遂行する能力が優れているなど、ワールドカップ開催にふさわしい条件を備えていることを、これからも強くアピールするべきだ。それによって日本で開催するワールドカップが、大会本来の楽しさにあふれたものになることを理解してもらうことだ。
ワールドカップの日本開催が、日本にとっても、またその大会を享受する世界にとっても価値のあるものであることを心から信じている人なら、今回の事件ぐらいで信念が揺らぐことはないはずだ。
アルゼンチンが来日中止を発表した晩、東京のテレビではアルゼンチン代表の最新の試合が放映されていた。そしてマラドーナはいまだにとてつもない天才であることを示していた。このチームが来日しないのはファンとしては悲しいことだ。だが、現時点では仕方のないことだった。
(1994年5月17日=火)
最近、国立競技場で行われたJリーグのある試合をバックスタンドに座って見た。普段はスペースたっぷりの記者席で取材させてもらっているが、この日は友人からS席の入場券を入手したので、久しぶりに「観客」として座ったのだ。
そして、そこで見たものは、悲しくなるような現実だった。
「個席」とは名ばかりの窮屈なベンチシート。もちろん、背もたれもない。場内アナウンスは不明瞭、照明も「逆光」ぎみだ。相変わらずスタンドでの喫煙は野放しで、「愛煙家」たちはすぐ近くに子供やタバコ嫌いの人がいることなど考えもなしに平気で煙害をまき散らしている。
もっとおぞましいものがハーフタイムに現れた。競技場の安全を確保するために空けられた前3段に配置された数百人の補助役員がいっせいに立ち上がり、観客席のほうに向き直って威嚇するようににらみつけるのだ。
フィールドへの飛び出しを防止するための行動であることはよくわかる。だがやっとのことで確保した数千円の入場券で試合を楽しみにやってきた「お客様」に対する態度ではない。
ゴール裏の電光掲示板を見れば、「飛び下りてはいけない」「発煙筒や花火はダメ」「チアホーンは自粛しろ」など、「禁止事項」ばかり。まるで校則だ。
スタンド裏の通路に出てみれば、売店にはろくなスナックもなく、女子トイレには長蛇の列。
見逃してならないのは、こうした問題はすべてJリーグになる前から存在しており、何も変わっていないということだ。
昨年から、Jリーグの試合は満員になるのが当たり前。スタート前の最大の懸案だった観客動員は、まったく心配ない状況だ。そのせいか、「少しでも楽しく試合を見てもらう」という「初心」はすっかり忘れ去られ、「問題が起きないように」という運営姿勢ばかりが目につく。
小さなところからでもいい、まず施設を改善し、より快適に、楽しく試合を見てもらえるようにしなければならない。
たとえば、国立競技場に飛び下りができないような柵あるいはアクリルボードを設置する。それで毎試合2000席も増やすことができるし、補助役員をなくすこともできる。また、男子トイレの一部を女子用にすることで、列を短くすることができる。
しかし何よりもまず必要なのは、「観客第一」の運営、どうしたら観客が快適に試合を楽しむことができるかを第一にした運営を、各チーム、各担当者が知恵をしぼって考え、実行することだ。
試合の中身は、いろいろな状況によって変わる。いつもエキサイティングになるとは限らない。だが試合の運営は、努力と工夫次第でいくらでも観客の満足度を増すことができるはず。試合に行くたびに観戦が快適で楽しいものになれば、ファンは離れはしない。逆に、人気の上にあぐらをかいて進歩のない運営を続ければ、人びとはスタジアムから遠ざかってしまう。
日本のサッカーは、東京オリンピックから30年をかけて現在の繁栄に到達した。だがその「旗手」であるJリーグが観客無視の運営を続けていたら、その繁栄は長くはない。
Jリーグは国立競技場だけで行われているわけではない。施設のしっかりした競技場もある。私がいいたいのは、運営サイドがより楽しい試合の実現への努力を怠ってはいけないということだ。Jリーグと日本サッカーの将来の大きな部分がそれにかかっていることを忘れてはならない。
(1994年5月10日=火)
そして、そこで見たものは、悲しくなるような現実だった。
「個席」とは名ばかりの窮屈なベンチシート。もちろん、背もたれもない。場内アナウンスは不明瞭、照明も「逆光」ぎみだ。相変わらずスタンドでの喫煙は野放しで、「愛煙家」たちはすぐ近くに子供やタバコ嫌いの人がいることなど考えもなしに平気で煙害をまき散らしている。
もっとおぞましいものがハーフタイムに現れた。競技場の安全を確保するために空けられた前3段に配置された数百人の補助役員がいっせいに立ち上がり、観客席のほうに向き直って威嚇するようににらみつけるのだ。
フィールドへの飛び出しを防止するための行動であることはよくわかる。だがやっとのことで確保した数千円の入場券で試合を楽しみにやってきた「お客様」に対する態度ではない。
ゴール裏の電光掲示板を見れば、「飛び下りてはいけない」「発煙筒や花火はダメ」「チアホーンは自粛しろ」など、「禁止事項」ばかり。まるで校則だ。
スタンド裏の通路に出てみれば、売店にはろくなスナックもなく、女子トイレには長蛇の列。
見逃してならないのは、こうした問題はすべてJリーグになる前から存在しており、何も変わっていないということだ。
昨年から、Jリーグの試合は満員になるのが当たり前。スタート前の最大の懸案だった観客動員は、まったく心配ない状況だ。そのせいか、「少しでも楽しく試合を見てもらう」という「初心」はすっかり忘れ去られ、「問題が起きないように」という運営姿勢ばかりが目につく。
小さなところからでもいい、まず施設を改善し、より快適に、楽しく試合を見てもらえるようにしなければならない。
たとえば、国立競技場に飛び下りができないような柵あるいはアクリルボードを設置する。それで毎試合2000席も増やすことができるし、補助役員をなくすこともできる。また、男子トイレの一部を女子用にすることで、列を短くすることができる。
しかし何よりもまず必要なのは、「観客第一」の運営、どうしたら観客が快適に試合を楽しむことができるかを第一にした運営を、各チーム、各担当者が知恵をしぼって考え、実行することだ。
試合の中身は、いろいろな状況によって変わる。いつもエキサイティングになるとは限らない。だが試合の運営は、努力と工夫次第でいくらでも観客の満足度を増すことができるはず。試合に行くたびに観戦が快適で楽しいものになれば、ファンは離れはしない。逆に、人気の上にあぐらをかいて進歩のない運営を続ければ、人びとはスタジアムから遠ざかってしまう。
日本のサッカーは、東京オリンピックから30年をかけて現在の繁栄に到達した。だがその「旗手」であるJリーグが観客無視の運営を続けていたら、その繁栄は長くはない。
Jリーグは国立競技場だけで行われているわけではない。施設のしっかりした競技場もある。私がいいたいのは、運営サイドがより楽しい試合の実現への努力を怠ってはいけないということだ。Jリーグと日本サッカーの将来の大きな部分がそれにかかっていることを忘れてはならない。
(1994年5月10日=火)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。