サッカーの話をしよう

No.59 アジア、アフリカの台頭にテレビの影響

 「ブラジル以外に飛び抜けたチームはいない」
 ワールドカップ・アメリカ大会前半の試合を見て感じるのは、「世界が狭くなった」ということだ。
 韓国がスペイン、ボリビアと引き分けた。サウジアラビアがオランダをあと一歩のところまで追い詰め、モロッコには2−1で快勝した。ナイジェリア、カメルーン、モロッコのアフリカ勢は欧州、南米の一流チームを相手に互角以上のゲームを見せ、メキシコも欧州の中堅どころにひけをとらない。心配された地元アメリカもコロンビアを破って勝ち点4をあげた。
 かつては、アジアやアフリカ、中北米地区のチームは、欧州、南米の強豪にとっては勝ち点の計算できる「お客さん」だった。74年大会ではユーゴがザイールに9−0の大差をつけ、82年大会ではハンガリーがエルサルバドルを10−1で下した。
 だがそうした時代はもう終わりを告げた。今大会の予選リーグで好試合が多かったのは、どんな強豪でも確実に勝てる相手がなくなり、力をフルに出さざるをえなかったからだ。

 ただいい結果を出しているだけではない。アジアもアフリカもそして北中米のチームも、洗練された最先端の戦術を身につけ、試合ぶりも決して劣らない。プレーの質が均等化し、サッカーの世界が急速に狭くなっているのだ。
 サッカーの世界が狭くなったのには、ふたつの理由がある。そのひとつはテレビの普及と、ワールドカップをはじめとしたビッグゲームの国際放映の増加だ。
 86年大会では190億人程度だったワールドカップの延べ視聴者数が、90年には267億人にはね上がり、今大会は350億人にものぼるだろうと予測されている。この驚異的な伸びは、とくにアフリカ、アジア地域でのテレビの普及に関係している。
 こうした地域の若者たちが世界のトップクラスのサッカーを見て、より洗練されたプレーのイメージをもてるようになったことが、プレーの向上に大きく役立っている。

 そてもうひとつは、コーチングの進歩だ。「進歩」といっても、アジアやアフリカのコーチの能力が上がったということだけではない。これらの地域に欧州や南米から優秀なコーチがはいり、選手たちの才能が大きく伸ばされているのだ。
 今大会でもアメリカのミルチノビッチ(ユーゴ)、ナイジェリアのウェスターホフ(オランダ)、カメルーンのミッシェル(フランス)、サウジアラビアのソラリ(アルゼンチン)など外国人コーチたちがすばらしい仕事ぶりを見せた。

 欧州や南米でも、大会前にはあまり高く評価されていなかったチームの健闘も目につく。スイス、ベルギー、アイルランド、ボリビアなどだ。
 「第二クラス」と見られていたこれらのチームは、チームさえまとまっていれば、どんなビッグネームのチームでも危機にさらされるということを改めて思い起こさせた。
 その背景にあるのは、七〇年のブラジル、七四年のオランダのような「スーパーチーム」が過去二十年間生まれていないという事実だ。こうしたチームは、相手が誰であれ、自分たちのサッカーを押しつけることができるだけの、抜群の力量を備えていた。

 最初に書いたように、ブラジルが群を抜いているようには見えるが、かつての「スーパーチーム」と比較することはできない。
 強豪同士がぶつかって、何が起こるかわからない大会の後半。今週末から、いよいよ決勝トーナメントがスタートする。

(1994年6月28日=火)

No.58 USA94の主役は陽気で積極的なボランティア

 ワールドカップが開幕して早くも4日目が過ぎた。連日のように会場を移って取材しているが、どの会場も満員の観客でふくれ上がり、すばらしい雰囲気だ。
 360万枚用意された入場券も大会前には大半が売り切れた。大会の観客数記録(90年イタリア大会の約250万人)を更新するのは確実だ。

 88年にアメリカ開催が決まったとき、サッカーがナンバーワンでない国ということでずいぶん心配された。組織委員会は、バスケットやフットボールの有名スポーツマンをCMに使うなど、「啓蒙」に努めてきた。しかし大会が近づいてからも「国民の3割しか大会の存在を知らない」という世論調査が出るなど、盛り上がりを心配する空気が強かった。
 だが、シカゴの空港に着いたときから「がんばっているな」という印象をもった。街灯のポールには大会旗がひるがえり、店のディスプレーにも大会マスコットやロゴが並んでいる。
 もっとも、試合会場以外の都市では世論調査のとおりかもしれない。17日のテレビのトップニュースは「ワールドカップ開幕」ではなく、O・J・シンプソンの殺人事件だった。

 4年前のイタリア大会はすばらしい盛り上がりだった。サッカーが第2の宗教のような国だけに、国民の大半が熱狂的に歓迎した。大会運営も、国の威信をかけているようで、施設もサービスも何もかもがすばらしかった。
 それに比べると、今回はそれぞれの都市単位で努力している感がつよい。各都市の最初の試合前に、17日のシカゴでの開幕戦と同じような、かなり大きな規模のセレモニーが行われたことに、この国の人びとの意識が現れている。

 そのためか、運営やサービスも会場によってばらばらだ。スタジアムは既存のものに少し手を加えた程度(多いところで数億円の規模)だし、メディア関係の施設もきわめて質素だ。
 しかしだからといって、この国のワールドカップを批判する気にはなれない。4年にいちど、開催国を移しながら行われるワールドカップ。私が取材してきた過去の各大会にも、それぞれの顔があった。74年西ドイツ大会は雨の大会だった。78年アルゼンチン大会は非常に寒かった。86年のメキシコは太陽の大会だったし、90年イタリアはローマ帝国2000年の歴史のうえに「カルチョ」の文化が咲き乱れていた。では94年アメリカは?

 カラフルで陽気な観客で埋まったスタンドのすばらしさとともに私にとって印象的なのは、メディアセンターやスタジアムで働くボランティアの人びとだ。
 大会ロゴをあしらったTシャツと半ズボンといういでたちで、何百もの人が働いている。その年齢層も、高校生から80歳を超えるおばあちゃんまで、実にバラエティーに富んでいる。だが例外なく陽気で積極的で責任感がある。
 何よりもすばらしいのは彼らの心からの笑顔だ。クレームをつけても、彼らの笑顔にいつの間にが怒りは消えてしまっている。

 最初はいくつもの問題をかかえながら、最終的には終わるのが惜しまれるようなすばらしい大会になるのではないか。ほとんど空席のな巨大スタジアムの盛り上がりで、大成功の大会になるのではないか。そんな予感がする。
 8年後の大会をもってこようという日本が忘れかけていることが、この大会にはある。それは、ワールドカップはスポーツの大会だということだ。見る側も運営する側も、みんなが楽しめる大会こそ、すばらしいワールドカップなのだ。


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(1994年6月21日=火)

No.57 ディエゴ・ルセーロ 伝説の記者

 第15回ワールドカップ開幕が目前に迫ってきた。1930年から世界のサッカーファンの夢を乗せ、世界のプロフェッショナルたちが情熱を注いで戦ってきたワールドカップ。
 協会関係者以外の日本人が実際にこの世界最大のスポーツの祭典を見たのは、66年のイングランド大会のころだっただろう。テレビ放送が始まったのは70年メキシコ大会。初めて生中継されたのは74年西ドイツ大会のことだった。62年チリ大会までは、日本人にとってワールドカップはいわば「歴史」のなかの出来事でしかない。
 だが世界は広い。南米には、1930年以来すべての大会を取材してきた記者がいるのだ。アルゼンチンの「クラリン」紙の特派員として今回も取材にやってくるディエゴ・ルセーロ。記者としてだけでなく、あらゆる分野で全大会を実際に見たにはこの人ひとり。64年間にわたるワールドカップの歴史の「生き証人」である。

 ディエゴ・ルセーロ、本名ルイス・シュットは1901年にウルグアイのモンテビデオで生まれた。両親は北イタリアからの移民で非常に貧しく、彼は小学校を3年でやめなければならなかった。12歳のときに電信会社に配達ボーイとして雇われ、タイプライターの使い方を覚える。
 生活のために必死に働きながらも、彼は生まれつきの頑丈な体を動かすことを好み、サッカーのとりこになった。ウルグアイのサッカーは草創期にあり、彼は自分でクラブをつくり、会長になって3部リーグでプレーした。左ウイングとして能力を発揮した彼は、やがて1部リーグのチームに移籍し、23歳のときには強豪中の強豪「ナシオナル」に引き抜かれた。
 勝ったら10ペソのプレミアムが出た。宿敵ペニャロールとの試合では100ペソも出た。彼はびっくりし、母に全部渡してしまった。

 だが、こうした日々は長くは続かなかった。その年のうちに彼はヒザを負傷してしまったのだ。半月板の損傷。今日なら簡単な手術で直すことができる。だが当時は半月板の存在さえあまりよく知られていなかった。無理してプレーを続けたが、3年後、28歳で引退を余儀なくされた。
 引退前から新聞にコラムをもっていたこともあり、彼は新聞記者になった。そうしてやってきたのが、地元で開かれた第1回のワールドカップだった。

 「それからは偶然の産物なんだ」と彼は語る。
 34年にはヘンリー・レガッタに出場したウルグアイのクルーの取材に英国へ特派されていた。そこからフランスオープン・テニスの取材に回り、ついでにイタリアまで足を伸ばしてワールドカップを取材した。38年にはスペイン内戦の特派員だった。休暇をとってフランスでの第3回大会を取材したのだ。
 そして第二次大戦後、彼はブエノスアイレスに移り住み、「ディエゴ・ルセーロ」というペンネームで記事を書きはじめたのだ。

 小説、彫刻など、多方面で才能を認められるルセーロ。新聞記者としても、ムッソリーニ、ピカソなど、幅広い人物のインタビュー記事などの業績がある。もちろんサッカーの記事も評価が高い。独特の切り口、温かみのある庶民的なスペイン語の使い手としてよく知られている。
 アラセリ夫人がいつも付き添っているが、足どりはまだまだ確かだ。記者席の急な階段も、自らの足で登る。そして「2002年には101歳だね。必ず日本に行くよ」と語る。
 きょう6月14日は彼の93回目の誕生日。アメリカでの再会が楽しみだ。


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(1994年6月14日=火)

No.56 くじ議論よりスポーツ政策の議論を

 スポーツ議員連盟による「スポーツ振興くじ」、いわゆるサッカーくじの法案大綱が発表され、同時に、「スポーツ振興政策案」も公表された。
 くじそのものにはPTA全国協議会などから「青少年に悪影響を与える」と反対意見が出ている。巨額が動くだけに、新たな権力構造ができはしないか、収益が本当にスポーツの振興だけに使われのかなど心配も多い。「なぜサッカーなのか」という声も聞かれる。
 だが、こうしたサッカーくじそのものの善悪や制度を論議する前に、もっと大事なことがあるのではないだろうか。それは、この国のスポーツを今後どうしていかなければならないか、ひとことでいえば「スポーツ政策」に関する議論だ。

 スポーツとは、本来非常にプライベートな性格のものだ。どのような考えでスポーツに取り組むか、あるいはスポーツにかかわるかかかわらないかは個人の自由であり、他人や、まして政府から強制されて行うものではない。とすれば、スポーツにかかる費用は参加する人自らが負担しなくてはならない。市民スポーツであろうと、国際的な競技に参加するトップスポーツであろうと、これが原則だと思う。
 だが実際には、スポーツを行うための施設を個人がもつことは不可能だ。トップアスリートといっても、プロフェッショナルとして成り立つのはごく限られているから、何らかの援助がなければ競技力を維持することはできない。原則としては「自前」で行わなければならないスポーツに行政がからんでくるのは、こうした現状があるからだ。

 これまでの日本のスポーツは、主として学校と企業に頼っていた。公共的な施設は非常に貧弱で、選手は原則として「学生」か「実業団」しかいなかった。これでは、「自由」にスポーツ活動を行うことはできない双方ともまず学校、企業の「理論」が優先されるからだ。
 これをスポーツ本来の姿に戻すには、誰もが手軽に利用できる施設や、スポーツそのものを目的にした組織を創設しなければならない。これがスポーツ政策における第1のテーマだ。
 そして第2には、トップアスリートが安心して競技を行うことのできる環境づくり、社会的なサポート態勢の完備が、大きなテーマとなる。ただし、この点に関しては、別の意見をもつ人もいるはずだ。

 こうしたスポーツ政策の柱を議論し、具体案を検討し、そしてそれにかかる費用を算出することが第1ではないか。そして現在予定されている財源との比較によって、はじめて「スポーツ振興資金をどうするか」という検討がなされ、サッカーくじの可能性、可否が論議されるのが順番ではないか。
 現在のサッカーくじをめぐる論議を見ていると、こうした政策論は無視され、サッカーくじの是非ばかりに目を奪われているような気がする。それとも、スポーツ政策自体は、すでに国民的なコンセンサスができているのだろうか。

 「スポーツ貧国」日本を21世紀に向けてどう変えていかなければならないのか、私たちの子供や子孫にどのような社会を残したいのか。そうしたバックグラウンドなしに資金づくりにばかり目を取られていると、産み落とされた資金は迷子になってしまう。
 冒頭に書いたように、スポーツ議員連盟はサッカーくじの法案大綱とともに、「スポーツ振興政策案」も出している。いまなすべきことは、この案をたたき台にスポーツ政策を徹底的に議論し、具体化していくことだと思う。

(1994年6月7日=火)

サッカーの話をしようについて

1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。

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