サッカーの話をしよう

No.85 「ファイナリスト」の栄誉を胸に

 第74回天皇杯全日本選手権大会の決勝戦出場チームが決まった。元日、ベルマーレ平塚とセレッソ大阪が「全日本選手権」をかけて激突する。

 「母国」イングランドの例にならって、サッカーでは国内のタイトルを「リーグ」と「カップ」の2本立てにしている国が多い。
 実力の近い十数チームが集まり、年間を通じてホームアンドアウェー方式で総当たり戦を行うリーグ戦。順位は勝ち点数で決まる。カップ戦はたくさんのチームが参加し、勝ち抜きのトーナメント方式で最後まで勝ち抜いたチームが栄冠を勝ち取る。
 歴史的に見ると、イングランドのFA(イングランド・サッカー協会)カップは1871年にスタート、その17年後に「フットボール・リーグ」の最初のシーズンが開幕した。
 日本では「リーグ」ができたのが1965年。「カップ」にあたる天皇杯全日本選手権は大正10年、1921年に第1回大会が行われたという歴史をもつ。

 現在の天皇杯は、約2000チームが参加して都道府県大会から地域大会、そして決勝大会へと勝ち進む。その頂点に立つのが元日に国立競技場に登場するベルマーレとセレッソなのだ。
 天皇杯決勝は、日本のサッカーの1シーズンをしめくくる最後の試合。この日に、グラウンドに立つことは日本中のサッカー選手の大きな目標だ。年末も緊張感のある練習を積み、都内のホテルで年越しをして元旦に国立競技場に向かう。プロ選手たちにとっても、これは大きな夢だ。
 最初の「元日決勝」は、1969年のことだった。以来この試合は毎年NHKで全国生中継され、日本のサッカーの普及と発展に大きく寄与してきた。
 それまで1月中旬だった大会を元日に決勝ができるように日程変更したのは、日本サッカー協会の73年間の歴史のなかでも最高のヒットアイデアのひとつだった。

 しかし日本では、残念なことに「優勝」の二文字が何よりも大きく、重要視される。
 もちろん、この試合に勝って優勝することはすばらしい。しかし、両チームとも、この場に立ったことですでに大きな「勝利」を手に入れているはずだ。
 イングランドのFAカップの決勝は「ザ・ファイナル」と呼ばれ、毎年5月中旬にロンドンのウェンブレー競技場で行われる。シーズン最後の試合であり、両チームは胸のクラブエンブレムの下に小さく「××年FAカップ決勝」と誇らしげに刺しゅうしたユニホームを着て登場する。
 そして、勝者は「ウイナー」として大きな称賛を得るが、決勝戦に負けたチームはけっして「ルーザー」(敗者)ではなく「ファイナリスト」(決勝進出者)と呼ばれ、試合後も観衆から優勝チームと対等の敬意を払われる。
 試合が終わると両チームとも心から晴れやかな顔をして表彰式に臨む。「ザ・ファイナル」の名誉を汚さずにプレーできたことに、全員が心から満足しているからだ。

 FAカップ決勝がイングランドでどのようにとらえているかをよく示したのが1985年のケビン・モラン(マンチェスター・ユナイテッド)の退場事件だ。100回を超す決勝戦で、なんと、退場はモランが初めてだったのだ。
 ベルマーレとセレッソの選手たちには、天皇杯決勝に出ることの名誉と、元日の国立競技場で試合をすることの意味をよくかみしめてほしい。
 この試合こそ、日本サッカーの「ザ・ファイナル」なのだ。
 
(1994年12月27日)

No.84 サッカーの贈り物

 ことし読んだ本のなかで最も興味深かったのは、ウガンダ生まれの若い英国人サイモン・クーパーの「サッカー、そしてそれに敵対するもの」(Football Against the Ememy=英国オリオンブックス社刊)だった。世界のさまざまな国のサッカーを、政治や社会との関わりで描いたもので、興味を引く逸話がつぎつぎと出てくる。
 そのなかからクリスマスシーズン向きの話をひとつ紹介しよう。東西の冷戦時代に東ドイツ国民として四十年間を過ごした熱狂的なサッカーファンの話だ。

 ヘルムート・クロプフライシュ、1948年ベルリン生まれ。親の代からのサッカーファンであり、ベルリンの名門「ヘルタ」を心から愛していた。
 ヘルタは西ベルリンのクラブだったが、61年に東西ベルリンを隔てる「壁」ができる前は自由に観戦に行くことができた。
 だがある日突然壁がつくられた。当時のヘルタのスタジアムは壁のすぐ側にあった。試合の日、東側のヘルタ・サポーターは壁際に集まり、スタジアムの歓声に合わせて歓声を上げた。
 すぐに壁の番兵はこの集会を禁止し、ヘルタも壁から遠く離れた五輪スタジアムにホームを移した。

 サポーターは「地下」に潜った。「ビンゴクラブ」と称して月に1回秘密の集会を開いたのだ。
 驚くことに、その集会には、ヘルタの監督が毎回姿を現した。選手がいっしょにくることもあった。そして数時間、サポーターは愛するヘルタの情報を彼らから直接聞いた。
 ヘルムートの最大の喜びは、郊外の質素な別荘で周囲はばかることなく西側のサッカー中継を見ることだった。西側のサッカーのすばらしさは、東側とは比べものにならなかった。そして西側のチームを直接見るために東欧中を旅行した。

 当然こうした行為は秘密警察の目に止まった。専門の監視役がつき、膨大なファイルも作られた。3度にわたって逮捕もされた。
 3度目の逮捕のとき、ヘルムートは取り調べ官をこう脅した。
 「家に帰らせてくれ。さもないと、友人のフランツを呼ぶぞ!」
 彼はそれまで何度もフランツ・ベッケンバウアーと握手したり、いっしょに写真を撮っていた。秘密警察はそれを知っていたから、もしかすると本当に友達なのではないかと疑った。
 ベッケンバウアーのような有名人を巻き込むと面倒なことになる。彼は即刻解放された。
 ヘルムートの息子、ラルフも、熱心なサッカーファンだった。そして彼も、9歳にして「体制の敵」という烙印を押されていた。学校で「あこがれはバイエルン・ミュンヘン(西側の人気チーム)のカールハインツ・ルンメニゲ」と言ってしまったからだ。

 その数年後、ヘルムートの家にノックがあった。ドアを開けると、そこには優しそうな笑顔をした紳士がいた。なんとバイエルン・ミュンヘンの会長フリッツ・シェーラーだった。
 上がり込んだシェーラーは、ラルフを呼ぶといきなり服を脱ぎはじめた。ヘルムートは「気が変なんじゃないか」といぶかった。
 だが、シェーラーは得意満面だった。
 「ラルフ、きみにプレゼントだ」
 服の下には、サンタクロースのような真っ赤なシャツがあった。ルンメニゲの背番号11がついたバイエルンのユニホームだった。税関の目をごまかすために、シェーラーはわざわざ着込んできたのだった。
 クリスマス・シーズン、世界中のサッカーファンに幸運を!

(1994年12月20日=火)

No.83 「会社」ではなく「クラブ」と呼ぼう

 Jリーグ各クラブの人びとと話していて、いつもひっかかることがある。
 「会社に帰ります」
 「×時に出社する」
 「社長と話した」
 こうした会話が頻繁に出てくるのだ。
 Jリーグのクラブはすべて「株式会社」になっている。規約にも、そうでなければならないと明記されている。だから「会社」であり、「社長」なのだ。

 かつての日本リーグからJリーグへの移行の最大のポイントは、チームの「独立法人化」だった。
 日本リーグ時代には大半のチームが企業に所属していた。スター選手をもち、試合がテレビで全国中継されてスポーツ紙の一面を飾っても、チームは社員の福利厚生のための運動部のひとつにすぎなかった。
 これでは「地域」に根ざした活動はできない。自治体や住民から本当に「自分たちのチーム」と思われるような、プロサッカークラブの理想の姿を実現することはできない。だから「独立した法人でなければならない」と決め、具体的には株式会社にしなければならないことにしたのだ。

 川淵三郎チェアマンによると、企業にこれを理解させるのが、Jリーグの発足にあたっていちばん難しい仕事だったという。
 だが、いったんその体制ができ上がり、すばらしい人気のもとスタートを切ると、そうした「理想の姿」はすっかり忘れ去られた。
 「親会社」から出向してきた「社員」がJリーグのクラブをせっせと日本型の会社組織に「整備」し、あっという間に普通の企業と同じにしてしまったのだ。そうしたなかで冒頭のような会話が出てくるのは、当然といえばあまりに当然のことだった。

 こうした状況を見かねたJリーグは、昨年「球団」でなく「クラブ」と呼ぶように通達し、メディアにも協力を求めた。だがその真意はまったく理解されず、うやむやのままに「球団事務所」で「入団発表」が行われている。
 「会社」より「球団」のほうがずいぶんましだが、Jリーグの理念はあくまで「地域に根ざした総合スポーツクラブの創設」。サッカーの国際性からも「クラブ」を徹底させるべきだ。「帰社する」のではなく、「クラブ事務所に戻って」ほしい。
 役職名は、会社をクラブと呼ぶほど簡単ではないかもしれない。役職名は単なる呼び名ではなく、組織のあり方自体を表現するものでもあるからだ。
 だが、Jリーグのクラブにはどう考えても「社長」はふさわしくない。

 大半のJリーグ・クラブは自治体の所有するスタジアムを最優先で使わせてもらっている。つまり地域の人びとの税金でつくった公共施設を、形のうえからは「一私企業」が独占的に使っているのだ。
 しかも、その「私企業」は地域の人びとからの入場料収入と、スタジアムが満員になってくれるからこそのスポンサー収入で運営されているのだ。
 とすれば、クラブは組織が「株式会社」だといっても、通常の企業とは違うのだということを意識しなければならない。より公共性の高い組織であうことを自覚しなければならない。
 簡単にいえば、Jリーグのクラブはホームタウンの地域の人びと全体のものということなのだ。
 だからこそ、「会社」ではなく「クラブ」であり、「社長」ではなく「会長」と呼ぶべきであるはずだ。
 自分たちのやっている事業が地域の人びとのためのものであることを、Jリーグ各クラブの役員とスタッフはもういちどよく考え直す必要がある。

(1994年12月13日=火)

No.82 けちらずに拍手しようよ

 「優秀な運営を国際サッカー連盟(FIFA)の理事たちに見てもらうことができ、ワールドカップ招致推進に大きく役立った」
 日本サッカー協会の役員が手放しで喜んだトヨタカップ。しかしこの日スタンドで見ていて、「日本でワールドカップをやるのは無理ではないか」という思いにとらわれた。観客の「拍手」がまったくといっていいほどなかったからだ。

 長く日本のサッカーを見てきた者にとって、ここ2年間の最大の驚きは「サポーター」の登場だった。
 応援団長のリードに合わせての「応援」は日本にもあった。しかしファンが自発的に歌い、それがスタンドの「点」ではなく「面」となって広がっていくという「サポート」は、日本では無理だと思っていた。
 しかし「プロリーグ」の誕生とともに、それはいとも簡単に生まれ、成長していった。サポーターたちの歌声は、いまやJリーグの試合になくてはならないものになっている。

 外国チーム同士の対戦であるトヨタカップには、当然のことながら、サポーターが非常に少なかった。その結果際だってしまったのが、「拍手がまったくない」ことだった。
 鋭い縦パスが出る。FWが走る。DFも必死にもどる。通常だったらタッチラインにけり出してしまうところを、DFは鮮やかなフェイントでFWをいなし、ターンして前を向いて前線に好パスを配給する。
 エキサイティングな攻撃プレーではないが、サッカーの醍醐味のひとつ。サッカーをよく知る観客なら、スタンドは割れんばかりの拍手に包まれるはずだ。
 だが日本では、こういうプレーに拍手が沸くことはまずない。
 激しい衝突で選手が倒れる。笛は吹かれず、ボールは生きている。味方選手は試合を止めるためにタッチラインにけり出す。治療が終わると、相手側選手はスローインを自軍ではなく相手チームの選手に向かって投げる。
 サッカーの美しい習慣のひとつだ。外国のスタジアムだったら、全観客が盛大な拍手を送る。
 だが日本では、まばらな拍手があるだけだ。

 興奮させるような攻撃のプレーには誰もが自然に声を上げ、スタンドも沸く。しかしサッカーのすばらしさはそれだけではない。最高級の守備技術、フェアプー精神あふれる行為など、一流の試合には称賛すべきものがたくさんころがっている。
 そのようなプレーや行為にふさわしいのは、スタンド全体からの、盛大で長く続く拍手以外にない。しかしこの点に関しては、日本の観客は信じがたいほどの「しみったれ」だ。声を張り上げ、力いっぱい旗は振っても、拍手はない。

 昨年、本紙運動面にこのようなことを書いた。
 「大きな声での応援は選手たちの闘争心をかきたてる。だが盛大な拍手は選手たちの自尊心を刺激し、それによってさらに好プレーが生まれる」
 ヨーロッパや南米のサッカーのレベルが高いのは、もしかしたら、いいプレーに対しては観客が大きな拍手を送ってくれるからかもしれない。日本の観客は、拍手に関してしみったれであることによって、いいプレーやハイレベルのサッカーを見そこなっているのかもしれない。
 以前ファーストフードのCMに「笑顔は無料です」というのがあった。
 拍手にも、元手はいらない。それを出し惜しみしているあいだは、けっして一流の観客にはなれない。そして一流の観客がいない国には、ワールドカップ開催はふさわしくない。

(1994年12月6日=火)

サッカーの話をしようについて

1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。

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