夏休みに行われた少年の大会を見て、ユニホームがひと昔前とは大きく変わったことに気づいた。Jリーグなどプロとそっくりのものを着ているのだ。
Jリーグがスタートして以来、少年たちのあこがれは完全に日本の選手たちとなった。マラドーナに奪われていた「アイドル」の座を日本人の手に取り戻したのはカズであり、ラモス、福田、井原といったJリーグのスターたちだった。
当然、ユニホームだけでなく、少年たちはJリーグの選手たちのまねをしようとする。華麗なドリブル、激しいプレッシャー、意表をついたパス、コンビプレー、ガッツポーズ。
そう、少年たちは目を凝らしてJリーグを見、そのすべてをまねる。そして残念ながら、いいプレーやすばらしいチームスピリットだけでなく、悪い行為までもまねをするのだ。
Jリーグの選手は、どこまでそれを意識しているだろうか。
試合のなかで、勢いあまってファウルをしてしまうケース、勝ちたいという気持ちのあまり、きたないプレーになってしまう場合もあるだろう。その結果、黄色や赤のカードを受けるかもしれない。
それ自体は、ある意味で仕方のないことだ。なくす努力はしなければならないが、現代のサッカーでは、どんな選手でも警告や退場などの処罰を受ける危険性と隣合わせでプレーしなければならないからだ。
だが、ひとつだけ許しがたいことがある。Jリーグスタート以来たびたび指摘され、シーズン前にはいつも「根絶宣言」がなされながらまったく減らない行為「審判への異議」だ。
激しいぶつかり合いがある。審判の笛が鳴る。すると、必ずといっていいほど「どうして?」というポーズを見せる選手がいる。倒れた選手は「カードだ、カード!」と要求する。笛が鳴らなければ、転んだ選手が「なぜファウルじゃないんだ!」と声を上げる。
オフサイドの旗が上がれば、ラインズマンに向かって目を剥き、「どこを見てるんだ!」と怒鳴る。タッチ際できわどいプレーがあれば、「相手が最後に触ったじゃないか」とクレームをつける。
悪いことに、こうした行為の大半はテレビ中継ではアップになる。その結果、試合によっては、プレーが止まるたびに、このような醜悪な行為をいやというほど見せられてしまう。
本来なら、こうした行為は「イエローカード」に当たる。主審がもし何も気にせず規定どおりカードを出していたら、多分90分間を終えられない試合がいくつも出るだろう。1チームの選手が7人を切ったら、その時点で没収試合になってしまうからだ。
そうならないのは、審判たちが「がまん」をしているからにほかならない。選手たちは、それを理解しているのだろうか。
こうした行為をする選手はかなり決まっている。また、そうした選手が多いチームとそうでもないチームも、非常にはっきりとしている。それは、監督やクラブ、そして選手自身の考え方や姿勢次第で、どちらにもなるということだ。
Jリーグの選手諸君、試合前にほんの1分間だけでいいから、自分たちの試合を見つめている少年たちのことを考えてほしい。あなたがたは、少年たちにとって偉大なアイドルであり、サッカーに関するすべての「手本」なのだ。
審判がどんな判定を出そうと、ミスしようと、自分の感情をコントロールし、プレーに集中する美しさ、本当の「強さ」を見せてほしい。それこそ、本物のプロではないか。
(1995年8月29日)
Jリーグがスタートして以来、少年たちのあこがれは完全に日本の選手たちとなった。マラドーナに奪われていた「アイドル」の座を日本人の手に取り戻したのはカズであり、ラモス、福田、井原といったJリーグのスターたちだった。
当然、ユニホームだけでなく、少年たちはJリーグの選手たちのまねをしようとする。華麗なドリブル、激しいプレッシャー、意表をついたパス、コンビプレー、ガッツポーズ。
そう、少年たちは目を凝らしてJリーグを見、そのすべてをまねる。そして残念ながら、いいプレーやすばらしいチームスピリットだけでなく、悪い行為までもまねをするのだ。
Jリーグの選手は、どこまでそれを意識しているだろうか。
試合のなかで、勢いあまってファウルをしてしまうケース、勝ちたいという気持ちのあまり、きたないプレーになってしまう場合もあるだろう。その結果、黄色や赤のカードを受けるかもしれない。
それ自体は、ある意味で仕方のないことだ。なくす努力はしなければならないが、現代のサッカーでは、どんな選手でも警告や退場などの処罰を受ける危険性と隣合わせでプレーしなければならないからだ。
だが、ひとつだけ許しがたいことがある。Jリーグスタート以来たびたび指摘され、シーズン前にはいつも「根絶宣言」がなされながらまったく減らない行為「審判への異議」だ。
激しいぶつかり合いがある。審判の笛が鳴る。すると、必ずといっていいほど「どうして?」というポーズを見せる選手がいる。倒れた選手は「カードだ、カード!」と要求する。笛が鳴らなければ、転んだ選手が「なぜファウルじゃないんだ!」と声を上げる。
オフサイドの旗が上がれば、ラインズマンに向かって目を剥き、「どこを見てるんだ!」と怒鳴る。タッチ際できわどいプレーがあれば、「相手が最後に触ったじゃないか」とクレームをつける。
悪いことに、こうした行為の大半はテレビ中継ではアップになる。その結果、試合によっては、プレーが止まるたびに、このような醜悪な行為をいやというほど見せられてしまう。
本来なら、こうした行為は「イエローカード」に当たる。主審がもし何も気にせず規定どおりカードを出していたら、多分90分間を終えられない試合がいくつも出るだろう。1チームの選手が7人を切ったら、その時点で没収試合になってしまうからだ。
そうならないのは、審判たちが「がまん」をしているからにほかならない。選手たちは、それを理解しているのだろうか。
こうした行為をする選手はかなり決まっている。また、そうした選手が多いチームとそうでもないチームも、非常にはっきりとしている。それは、監督やクラブ、そして選手自身の考え方や姿勢次第で、どちらにもなるということだ。
Jリーグの選手諸君、試合前にほんの1分間だけでいいから、自分たちの試合を見つめている少年たちのことを考えてほしい。あなたがたは、少年たちにとって偉大なアイドルであり、サッカーに関するすべての「手本」なのだ。
審判がどんな判定を出そうと、ミスしようと、自分の感情をコントロールし、プレーに集中する美しさ、本当の「強さ」を見せてほしい。それこそ、本物のプロではないか。
(1995年8月29日)
「プロ選手とクラブとの契約が満了した後にも、クラブに保有権を認め、他のクラブと契約するには移籍金が必要だとするする慣習は違法だ」
ベルギーのプロ選手ジャンマルク・ボスマンが、ヨーロッパサッカー連盟とベルギーサッカー協会を相手にEU(欧州連合)の最高裁で起こした訴訟の波紋は大きく広がっている。
サッカー界は反発する。
「保有権を認めなければ選手を育てる者などいなくなってしまう」
アメリカや日本では、学校がプロへの主な選手供給源。だがヨーロッパでは、少年を育成するのは地域単位のスポーツクラブだ。
浦和レッズで活躍するブッフバルト(ドイツ)の例で見てみよう。
彼は8歳で地元のクラブにはいり、17歳で大都市シュツットガルトの「キッカーズ」に移籍。トップチームは全国リーグ2部に所属し、大半はプロというクラブだ。1年間ユースでプレーした後、実力を認められて18歳でプロ契約。そして4年後。同じ町の大クラブ「VfB」に移籍した。
成長し、力をつけるごとに大きなクラブに移籍していったブッフバルトの成功は、彼が所属した全クラブの喜びでもあった。プロ契約時に最初のクラブに「能力開発費用」が支払われ、プロとしての移籍には「移籍金」が伴ったからだ。
ドイツにはたくさんのクラブがあるが、トップリーグに参加できるのはひと握りの大クラブにすぎない。残りの大多数は選手を育てながらそれぞれのレベルのリーグで戦う。そして中小のクラブの存立は、移籍から得られる資金に負う部分が少なくない。こうした資金の流れは、次代の選手育成と同時にスポーツの大衆化にも貢献しているのだ。
今回ボスマンが勝訴したら、中小のクラブの多くが経営困難に陥ると予想されている。だが大クラブが楽になるわけでもない。これまでの移籍金が「契約金」として選手の口座にはいることになるだけだからだ。
現行の日本協会の移籍規定では、アマチュアが移籍してプロになる場合は「トレーニング費用」、プロがプロとして移籍する場合は「移籍金」が発生する。ただし請求できるのは「営利法人」だけ。学校を卒業した場合は移籍にはならず、学校や企業のサッカー部自体は「営利法人」ではないから、実際に請求できるのはJリーグ内の移籍だけということになる。
92年秋、Jリーグの開幕間近に改正されたこの規定は、資金力のあるクラブがむやみに有力選手を集めてリーグ戦の興味をそぐことがないようにという配慮が反映されたものだ。
だが現在では、その細則に定められた「移籍金算出基準」があまりにも高いため(20歳の選手の場合、年俸の7.5倍)、ほとんど移籍できない状況だ。
「ボスマン事件」は来年のはじめにも判決が下されるはずだ。その拘束力はあくまでもEU内に留まる。だが、その影響はすぐに世界に及ぶだろう。
日本のサッカーも、今後10年間に本格的な「クラブ時代」に進んでいくはず。となれば、「対岸の火事」どころではない。
まず第一に、移籍とは何か、日本サッカーの発展にどのような意味をもっているのか、考え方をしっかりと整理する必要がある。同時に、トラブルなく移籍をコントロールするためのシステムづくりが急務だ。
ドイツのように移籍を通じて選手を育成しながら、多くの人がサッカーを楽しむ環境をどう整えるかも、重要なテーマとなる。
ベルギーの一選手が日本のサッカー界につきつけた問題は小さくはない。
(1995年8月22日)
ベルギーのプロ選手ジャンマルク・ボスマンが、ヨーロッパサッカー連盟とベルギーサッカー協会を相手にEU(欧州連合)の最高裁で起こした訴訟の波紋は大きく広がっている。
サッカー界は反発する。
「保有権を認めなければ選手を育てる者などいなくなってしまう」
アメリカや日本では、学校がプロへの主な選手供給源。だがヨーロッパでは、少年を育成するのは地域単位のスポーツクラブだ。
浦和レッズで活躍するブッフバルト(ドイツ)の例で見てみよう。
彼は8歳で地元のクラブにはいり、17歳で大都市シュツットガルトの「キッカーズ」に移籍。トップチームは全国リーグ2部に所属し、大半はプロというクラブだ。1年間ユースでプレーした後、実力を認められて18歳でプロ契約。そして4年後。同じ町の大クラブ「VfB」に移籍した。
成長し、力をつけるごとに大きなクラブに移籍していったブッフバルトの成功は、彼が所属した全クラブの喜びでもあった。プロ契約時に最初のクラブに「能力開発費用」が支払われ、プロとしての移籍には「移籍金」が伴ったからだ。
ドイツにはたくさんのクラブがあるが、トップリーグに参加できるのはひと握りの大クラブにすぎない。残りの大多数は選手を育てながらそれぞれのレベルのリーグで戦う。そして中小のクラブの存立は、移籍から得られる資金に負う部分が少なくない。こうした資金の流れは、次代の選手育成と同時にスポーツの大衆化にも貢献しているのだ。
今回ボスマンが勝訴したら、中小のクラブの多くが経営困難に陥ると予想されている。だが大クラブが楽になるわけでもない。これまでの移籍金が「契約金」として選手の口座にはいることになるだけだからだ。
現行の日本協会の移籍規定では、アマチュアが移籍してプロになる場合は「トレーニング費用」、プロがプロとして移籍する場合は「移籍金」が発生する。ただし請求できるのは「営利法人」だけ。学校を卒業した場合は移籍にはならず、学校や企業のサッカー部自体は「営利法人」ではないから、実際に請求できるのはJリーグ内の移籍だけということになる。
92年秋、Jリーグの開幕間近に改正されたこの規定は、資金力のあるクラブがむやみに有力選手を集めてリーグ戦の興味をそぐことがないようにという配慮が反映されたものだ。
だが現在では、その細則に定められた「移籍金算出基準」があまりにも高いため(20歳の選手の場合、年俸の7.5倍)、ほとんど移籍できない状況だ。
「ボスマン事件」は来年のはじめにも判決が下されるはずだ。その拘束力はあくまでもEU内に留まる。だが、その影響はすぐに世界に及ぶだろう。
日本のサッカーも、今後10年間に本格的な「クラブ時代」に進んでいくはず。となれば、「対岸の火事」どころではない。
まず第一に、移籍とは何か、日本サッカーの発展にどのような意味をもっているのか、考え方をしっかりと整理する必要がある。同時に、トラブルなく移籍をコントロールするためのシステムづくりが急務だ。
ドイツのように移籍を通じて選手を育成しながら、多くの人がサッカーを楽しむ環境をどう整えるかも、重要なテーマとなる。
ベルギーの一選手が日本のサッカー界につきつけた問題は小さくはない。
(1995年8月22日)
ヨーロッパのほぼ中心に位置する小国ルクセンブルク。いまそこで120年のプロサッカーの歴史を揺るがす「革命」が起きようとしている。サッカーの世界では常識といっていい「移籍金」が、法的な有効性を問われているのだ。今週と来週の2回にわたって、この問題を考えてみたい。
ことし6月20日、ルクセンブルクに置かれたEC(欧州共同体)の最高裁にひとりの男がやってきた。ベルギー人のプロサッカー選手ジャンマルク・ボスマン(30)。現在所属クラブなし。彼はこの日、欧州サッカー連盟(UEFA)とベルギーサッカー協会を相手に約8000万円の損害賠償を求める訴訟を起こした。大きな波紋を呼んだのは、その理由だった。
「契約満了後も選手を拘束するサッカー界のルールが、プロ選手としての活動を妨害し、損害を与えた」
契約期間が満了しても、プロサッカー選手は次に契約するクラブを自由に選ぶことはできない。クラブは選手の「保有権」をもっており、契約を延長することも、他のクラブから「移籍金」をとって「売り払う」こともできるのだ。
事件の発端は5年前だった。1990年夏、ボスマンはベルギー・リーグのFCリエージュとの契約を満了し、フランス・リーグ2部のダンケルクに移籍しようとした。だが移籍金が折り合わなかったことで、クラブは移籍を拒否した。
ボスマンはすぐ訴訟を起こした。これに対しベルギー協会は彼を資格停止処分にした。ボスマンは訴訟を取り下げ、別のフランス・クラブに移籍した。だがその後の選手生活はうまくいかず、ついに5年後のことしになって、UEFAとベルギー協会の定める「移籍規定」が違法であるとの訴訟を起こしたのだ。
イングランドで近代スポーツとしてのサッカーが誕生した当時はすべてアマチュア選手で、移籍にかかわるトラブルなどなかった。だがプロ選手が生まれ、それを中心とした「リーグ」が始まると、大きな都市の人気クラブがいい報酬を用意して次々と選手を引き抜いてしまった。当時のプロ選手は、普通の労働者と同様、契約期間が満了すれば自由に別のクラブと契約することができたからだ。
これでは小さな町のクラブは弱体化する一方。そこでイングランド協会は選手から移籍の自由を奪い、クラブに「保有権」を与えて力の均衡化、すなわちリーグの人気維持を狙った。1893年のことだった。
そして、その状況は基本的に現在も変わりはない。国際サッカー連盟(FIFA)の規約は、プロ選手として移籍する場合、移籍元のクラブは移籍先のクラブに当該選手の「トレーニングおよび能力開発費用」を請求することができるとしている。この規約が「保有権・移籍金」の習慣を追認する形となっている。
プロサッカー選手はクラブと対等の立場で契約をかわす「労働者」ではなく、クラブの「資産」であり、「商品」である。「移籍市場」は「人身売買」の場にほかならない。
その「違法性」は早くから指摘されていた。とくにECは、その域内での労働の自由の問題(外国人の労働者を制限するのは違法)と関連して、UEFAと激しく対立してきた。
今回ボスマンが起こした訴訟は、ECにとっては待ちに待った快挙なのだ。多くの専門家は、ボスマンの勝訴は確実と見ている。
だが「保有権」と「移籍金」は、サッカー界にとっては死活問題。これが禁止されると、選手を育てる者などいなくなってしまう恐れがあるからだ。(続く)
(1995年8月15日)
ことし6月20日、ルクセンブルクに置かれたEC(欧州共同体)の最高裁にひとりの男がやってきた。ベルギー人のプロサッカー選手ジャンマルク・ボスマン(30)。現在所属クラブなし。彼はこの日、欧州サッカー連盟(UEFA)とベルギーサッカー協会を相手に約8000万円の損害賠償を求める訴訟を起こした。大きな波紋を呼んだのは、その理由だった。
「契約満了後も選手を拘束するサッカー界のルールが、プロ選手としての活動を妨害し、損害を与えた」
契約期間が満了しても、プロサッカー選手は次に契約するクラブを自由に選ぶことはできない。クラブは選手の「保有権」をもっており、契約を延長することも、他のクラブから「移籍金」をとって「売り払う」こともできるのだ。
事件の発端は5年前だった。1990年夏、ボスマンはベルギー・リーグのFCリエージュとの契約を満了し、フランス・リーグ2部のダンケルクに移籍しようとした。だが移籍金が折り合わなかったことで、クラブは移籍を拒否した。
ボスマンはすぐ訴訟を起こした。これに対しベルギー協会は彼を資格停止処分にした。ボスマンは訴訟を取り下げ、別のフランス・クラブに移籍した。だがその後の選手生活はうまくいかず、ついに5年後のことしになって、UEFAとベルギー協会の定める「移籍規定」が違法であるとの訴訟を起こしたのだ。
イングランドで近代スポーツとしてのサッカーが誕生した当時はすべてアマチュア選手で、移籍にかかわるトラブルなどなかった。だがプロ選手が生まれ、それを中心とした「リーグ」が始まると、大きな都市の人気クラブがいい報酬を用意して次々と選手を引き抜いてしまった。当時のプロ選手は、普通の労働者と同様、契約期間が満了すれば自由に別のクラブと契約することができたからだ。
これでは小さな町のクラブは弱体化する一方。そこでイングランド協会は選手から移籍の自由を奪い、クラブに「保有権」を与えて力の均衡化、すなわちリーグの人気維持を狙った。1893年のことだった。
そして、その状況は基本的に現在も変わりはない。国際サッカー連盟(FIFA)の規約は、プロ選手として移籍する場合、移籍元のクラブは移籍先のクラブに当該選手の「トレーニングおよび能力開発費用」を請求することができるとしている。この規約が「保有権・移籍金」の習慣を追認する形となっている。
プロサッカー選手はクラブと対等の立場で契約をかわす「労働者」ではなく、クラブの「資産」であり、「商品」である。「移籍市場」は「人身売買」の場にほかならない。
その「違法性」は早くから指摘されていた。とくにECは、その域内での労働の自由の問題(外国人の労働者を制限するのは違法)と関連して、UEFAと激しく対立してきた。
今回ボスマンが起こした訴訟は、ECにとっては待ちに待った快挙なのだ。多くの専門家は、ボスマンの勝訴は確実と見ている。
だが「保有権」と「移籍金」は、サッカー界にとっては死活問題。これが禁止されると、選手を育てる者などいなくなってしまう恐れがあるからだ。(続く)
(1995年8月15日)
7月30日の日曜日、元横浜マリノス木村和司の引退記念試合、マリノス×ヴェルディ戦が行われた。三ツ沢球技場は満員の観衆で埋まり、日本リーグからJリーグ時代への橋渡し役を演じた大選手の最後のプレーを楽しんだ。
移籍したばかりのGK松永成立をはじめ、何人ものマリノス「OB」が参加した。ヴェルディでも、かつての「ミスター読売」ジョージ与那城、前監督の松木安太郎、木村と同様昨季限りで引退した加藤久がハッスルプレーを見せた。
驚いたのは、前夜Jリーグオールスターで90分間奮闘したラモスが出場し、45分間だけとはいえ、力いっぱいのプレーを見せたことだ。ラモスのひとつひとつのプレーは、「カズシ」に対する友情の、このうえない表現だった。
木村和司は明大時代に日本代表入りし、80年代にはエースとして活躍した。若いころはウイングだったが、やがてMFに転身、背番号10をつけて攻撃のリーダーとなった。
85年、日本代表はアジア予選を快調に勝ち進んでワールドカップ出場まであと一歩のところに迫った。この快進撃を支えたのが、守備の加藤久、そして攻撃の木村だった。スルーパスで攻めを組み立てながら、木村は果敢に攻め上がり、自らゴールを決めた。
最終予選の相手は韓国。10月26日、日本は国立競技場で前半2点を先行された。沈み込んだ空気をうち破り、チームとファンを奮い立たせたのは、木村の「十八番」FKだった。
ゴール正面30メートル。世界の名手でもめったに決められない距離。しかも「木村のFK」は韓国でも有名だった。だが木村は決めた。右足から放たれたシュートは、韓国ゴール左上すみに吸い込まれた。
ワールドカップ出場はならなかったが、この試合とこのFKは日本サッカーの大きな記念碑となった。翌86年、木村は日本国内でプレーする選手としては初のプロとなる。だがプロの名にふさわしい環境が整うのは、それから7年もたってからのことだった。
「引退記念試合」はヴェルディの勝利で終わった。だが観衆は誰ひとり席を立とうとはしなかった。誰もが木村に「ありがとう」を言いたかったのだ。選手たちの思いも同じだった。場内を一周する木村に、マリノスの全選手と都並をはじめとした何人ものヴェルディの選手が従った。
選手たちとファンの反応に、木村がいかに「愛された」選手だったか、再認識させられた。ではなぜ、彼は愛されたのだろうか。
すばらしいテクニシャンだった。創造的なパスの能力と得点力を備え、チームが必要とするときにそれを見事に発揮してくれた。
と同時に、彼はどんなファウルをされてもけっして報復することはなかった。警告処分を受けることなど滅多にない選手だった。
木村を日産(マリノス)に引っぱり、木村とともにチームを成長させて三冠をもたらした加茂周・日本代表監督は、かつて一言で木村をこう表現した。
「サッカー小僧」。
木村は心からサッカーを愛した。「戦い」としてではなく、最高に面白い「遊び」として、いつも、どんな試合でも楽しんだ。
だからこそ、仲間の選手たちはもちろん、監督やライバル、そしてファンも、彼を愛し、彼のプレーを楽しんだのだ。
いまJリーグに、ここまで「愛される」選手が何人いるだろうか。これから何人出てくるだろうか。それが数十人、数百人となったとき、初めて日本のプロは本当にファンの心をつかむことができるはずだ。
(1995年8月8日)
移籍したばかりのGK松永成立をはじめ、何人ものマリノス「OB」が参加した。ヴェルディでも、かつての「ミスター読売」ジョージ与那城、前監督の松木安太郎、木村と同様昨季限りで引退した加藤久がハッスルプレーを見せた。
驚いたのは、前夜Jリーグオールスターで90分間奮闘したラモスが出場し、45分間だけとはいえ、力いっぱいのプレーを見せたことだ。ラモスのひとつひとつのプレーは、「カズシ」に対する友情の、このうえない表現だった。
木村和司は明大時代に日本代表入りし、80年代にはエースとして活躍した。若いころはウイングだったが、やがてMFに転身、背番号10をつけて攻撃のリーダーとなった。
85年、日本代表はアジア予選を快調に勝ち進んでワールドカップ出場まであと一歩のところに迫った。この快進撃を支えたのが、守備の加藤久、そして攻撃の木村だった。スルーパスで攻めを組み立てながら、木村は果敢に攻め上がり、自らゴールを決めた。
最終予選の相手は韓国。10月26日、日本は国立競技場で前半2点を先行された。沈み込んだ空気をうち破り、チームとファンを奮い立たせたのは、木村の「十八番」FKだった。
ゴール正面30メートル。世界の名手でもめったに決められない距離。しかも「木村のFK」は韓国でも有名だった。だが木村は決めた。右足から放たれたシュートは、韓国ゴール左上すみに吸い込まれた。
ワールドカップ出場はならなかったが、この試合とこのFKは日本サッカーの大きな記念碑となった。翌86年、木村は日本国内でプレーする選手としては初のプロとなる。だがプロの名にふさわしい環境が整うのは、それから7年もたってからのことだった。
「引退記念試合」はヴェルディの勝利で終わった。だが観衆は誰ひとり席を立とうとはしなかった。誰もが木村に「ありがとう」を言いたかったのだ。選手たちの思いも同じだった。場内を一周する木村に、マリノスの全選手と都並をはじめとした何人ものヴェルディの選手が従った。
選手たちとファンの反応に、木村がいかに「愛された」選手だったか、再認識させられた。ではなぜ、彼は愛されたのだろうか。
すばらしいテクニシャンだった。創造的なパスの能力と得点力を備え、チームが必要とするときにそれを見事に発揮してくれた。
と同時に、彼はどんなファウルをされてもけっして報復することはなかった。警告処分を受けることなど滅多にない選手だった。
木村を日産(マリノス)に引っぱり、木村とともにチームを成長させて三冠をもたらした加茂周・日本代表監督は、かつて一言で木村をこう表現した。
「サッカー小僧」。
木村は心からサッカーを愛した。「戦い」としてではなく、最高に面白い「遊び」として、いつも、どんな試合でも楽しんだ。
だからこそ、仲間の選手たちはもちろん、監督やライバル、そしてファンも、彼を愛し、彼のプレーを楽しんだのだ。
いまJリーグに、ここまで「愛される」選手が何人いるだろうか。これから何人出てくるだろうか。それが数十人、数百人となったとき、初めて日本のプロは本当にファンの心をつかむことができるはずだ。
(1995年8月8日)
高校生のとき、いちどだけ「自殺点」をしたことがある。
私のポジションはMFだった。相手チームが左サイドを突破する。ゴール前を見ると相手のエースがフリーだ。「危ない!」と感じて必死のダッシュでマークに戻ったところに、ちょうどシュートのような強いセンタリングがきた。ボールは私の体に当たり、ゴールキーパーの逆をとってゴールにはいった。
日本協会では「自殺点」という言葉のイメージがスポーツ的ではないということで、昨年から「オウンゴール」という用語をに変えた。だが、どんな名称を使おうと、「自分の守るべきゴールに入れてしまう」というのは、おもしろくない経験だ。
Jリーグでは、まだ「自殺点」だった93年第1ステージでの井原(横浜マリノス)のものが印象的だった。右から強く入れられたボールを、頭からとびついてゴールライン外にクリアしようとしたのだが、角度が悪く、きれいなゴールになってしまったのだ。
Jリーグの「自殺点第1号」。テレビでも大きく取り上げられ、「珍プレー」などの番組になんども取り上げられた。
しかし不思議なことに、公式記録には井原の名前はない。得点経過を簡単に記する欄にも、「相手DF」という表記しかない。Jリーグだけでなく、日本サッカー協会の記録にも、オウンゴールをした選手の名前は登場しない。
これは「自殺点は不名誉である」という考え方からきているもののようだ。恥ずべきことを記録して末代まで残すのは気の毒だという感性だ。だが「自殺点」は本当に不名誉なことなのだろうか。
あのとき井原がボールの方向を変えていなければ、GKがボールをとったかもしれない。だが直接ゴールを割る、あるいはゴール前にフリーの相手がいた可能性もある。いずれにしろ、井原は最大の努力を払ってクリアしようとしたのだ。そのプレーは、「美しい」と言っていいほどだった。結果として自分のゴールにはいったが、恥じるようなプレーではなかった。
オウンゴールには、ひどいミスや情けないプレーによるものもある。だがそれも、チームにとってみれば決定的なチャンスにシュートミスをするFW(実例はいくらでもある)と大差がない。
不名誉なこと、恥ずべきことではないのだから、明確に記録に残すべきだ。試合の記録というのが「どんな試合だったか」を残すものであるなら、「得点者」の名は必要不可欠。だがチームゲームである以上、それは「ゴールが決まったときに最後にボールに触れた者」以上の意味はない。その意味でも、「オウンゴール」を記録することをためらう理由はない。実際のところ、記録に残さないのは日本だけなのだ。
昨年、ワールドカップでのオウンゴールで決勝点を許してしまったコロンビアのエスコバルが帰国後射殺されるというショッキングな事件が起きた。だがそれは、オウンゴールへではなく予選リーグでのコロンビア敗退の「八つ当たり」的な殺人事件だった。
高校時代、「自殺点」を決めてしまったときの私の心境はどうだったか。
「オレがここまで戻ってこなければ、当然1点をくらう場面だった」。私はそう思った。
それよりも、中盤でのつまらないミスパスから相手にボールを奪われ、逆襲を許して失点につながったときのほうが、恥ずかしい思い、チームメートにすまないという気持ちを強くもったものだった。
(1995年8月1日)
私のポジションはMFだった。相手チームが左サイドを突破する。ゴール前を見ると相手のエースがフリーだ。「危ない!」と感じて必死のダッシュでマークに戻ったところに、ちょうどシュートのような強いセンタリングがきた。ボールは私の体に当たり、ゴールキーパーの逆をとってゴールにはいった。
日本協会では「自殺点」という言葉のイメージがスポーツ的ではないということで、昨年から「オウンゴール」という用語をに変えた。だが、どんな名称を使おうと、「自分の守るべきゴールに入れてしまう」というのは、おもしろくない経験だ。
Jリーグでは、まだ「自殺点」だった93年第1ステージでの井原(横浜マリノス)のものが印象的だった。右から強く入れられたボールを、頭からとびついてゴールライン外にクリアしようとしたのだが、角度が悪く、きれいなゴールになってしまったのだ。
Jリーグの「自殺点第1号」。テレビでも大きく取り上げられ、「珍プレー」などの番組になんども取り上げられた。
しかし不思議なことに、公式記録には井原の名前はない。得点経過を簡単に記する欄にも、「相手DF」という表記しかない。Jリーグだけでなく、日本サッカー協会の記録にも、オウンゴールをした選手の名前は登場しない。
これは「自殺点は不名誉である」という考え方からきているもののようだ。恥ずべきことを記録して末代まで残すのは気の毒だという感性だ。だが「自殺点」は本当に不名誉なことなのだろうか。
あのとき井原がボールの方向を変えていなければ、GKがボールをとったかもしれない。だが直接ゴールを割る、あるいはゴール前にフリーの相手がいた可能性もある。いずれにしろ、井原は最大の努力を払ってクリアしようとしたのだ。そのプレーは、「美しい」と言っていいほどだった。結果として自分のゴールにはいったが、恥じるようなプレーではなかった。
オウンゴールには、ひどいミスや情けないプレーによるものもある。だがそれも、チームにとってみれば決定的なチャンスにシュートミスをするFW(実例はいくらでもある)と大差がない。
不名誉なこと、恥ずべきことではないのだから、明確に記録に残すべきだ。試合の記録というのが「どんな試合だったか」を残すものであるなら、「得点者」の名は必要不可欠。だがチームゲームである以上、それは「ゴールが決まったときに最後にボールに触れた者」以上の意味はない。その意味でも、「オウンゴール」を記録することをためらう理由はない。実際のところ、記録に残さないのは日本だけなのだ。
昨年、ワールドカップでのオウンゴールで決勝点を許してしまったコロンビアのエスコバルが帰国後射殺されるというショッキングな事件が起きた。だがそれは、オウンゴールへではなく予選リーグでのコロンビア敗退の「八つ当たり」的な殺人事件だった。
高校時代、「自殺点」を決めてしまったときの私の心境はどうだったか。
「オレがここまで戻ってこなければ、当然1点をくらう場面だった」。私はそう思った。
それよりも、中盤でのつまらないミスパスから相手にボールを奪われ、逆襲を許して失点につながったときのほうが、恥ずかしい思い、チームメートにすまないという気持ちを強くもったものだった。
(1995年8月1日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。