Jリーグはことしも「フェアプレー賞」の該当者がいない。すでに全クラブが規定のポイントをはるかにオーバーしているからだ。
川淵三郎チェアマンは日ごろから「フェアプレーなくして何のサッカーか」と強調している。しかし各クラブにとっては、高円宮杯と賞金500万円になど何の魅力もないらしい。それよりも、優勝、あるいは1勝のほうが「価値」があると判断しているのだろう。
しかし、警告や退場をポイント制で計算して決定する「フェアプレー賞」の該当者がないことは、ルールの解釈や適用の大変動期にある現在では、仕方のないことではないかと思う。それよりも問題なのは、退場や警告、あるいは反則にさえならないアンフェアーな行為が、相変わらず横行していることだ。
フリーキックのときにとりあえず近くに立って相手の素早いリスタートを妨害するのは、もはや「基本戦術的行為」。相手側のスローインとわかったときにあらぬ方向や上に高く投げる選手を見ない試合もない。
そして試合が終わった瞬間にフィールド上で目立つのは勝者が抱き合う姿ばかり。なによりもまず互いに健闘をたたえ合う姿など、見ることはない。
審判員に対する態度のひどさも相変わらずだ。不利な笛を吹かれたと思ったときには、力いっぱい怖い顔でにらみつけ、大声をあげる。ペナルティーキックをとるための「演技」も、減る様子はない。これが審判に対する重大な侮辱であることを、選手たちはどこまで理解しているのか。
入場者数が落ちるのは当然のこと。こんな不愉快きわまりない「アンフェアプレー」のオンパレードを、だれが高い入場料を払って見にくるというのだ。
こうした行為の原因が、「勝利至上主義」にあることは明らかだ。「どんなことをしようと勝つことが絶対の正義」というのが、現在のJリーグを支配する基本思想なのだ。
審判の目を盗んで手でボールをコントロールし、決勝点につなげた選手は、試合後のコメントの不用意さを非難されることはあっても、行為そのものは「技術のうち」とされ、勝利のヒーローのままだ。
「勝てば官軍」。この言葉ほど、現在のJリーグを象徴するものはない。
では、その勝利至上主義はどこからきたのか。
何よりも、選手たちを育成してきた過程が問題だ。小学生のときから、「勝つため」にしかサッカーをさせてこなかったことが、これほどまでに選手をゆがめてしまったのだ。
リーグ戦では本来不要な「サドンデス」方式の採用に代表される、Jリーグの運営にも問題がある。
観客にとってはたしかにスリリング。だがこれは、「九十分間に全力を出し尽くす」という本質を忘れさせ、サッカーをゲームでなく、オールオアナッシングの「ギャンブル」にしてしまった。その結果、選手ばかりでなくファンも、敗戦からは何も満足を得られなくなってしまった。
Jリーグは日本のスポーツ文化をより豊かなものにすることを目指しているという。だが勝利至上主義に毒された現状は、文化と呼ぶにはあまりに貧しい。
ルールに従って正直にプレーするのは、愚かなことだろうか。フェアプレーには、勝利やタイトル以上の価値は、本当にないというのだろうか。
各クラブの役員、スタッフ、選手のひとりひとりがそれを真剣に考え、フェアプレー精神あふれるリーグをつくり出さない限り、Jリーグが二十一世紀の豊かなスポーツ文化の担い手となることはない。
(1995年10月31日)
川淵三郎チェアマンは日ごろから「フェアプレーなくして何のサッカーか」と強調している。しかし各クラブにとっては、高円宮杯と賞金500万円になど何の魅力もないらしい。それよりも、優勝、あるいは1勝のほうが「価値」があると判断しているのだろう。
しかし、警告や退場をポイント制で計算して決定する「フェアプレー賞」の該当者がないことは、ルールの解釈や適用の大変動期にある現在では、仕方のないことではないかと思う。それよりも問題なのは、退場や警告、あるいは反則にさえならないアンフェアーな行為が、相変わらず横行していることだ。
フリーキックのときにとりあえず近くに立って相手の素早いリスタートを妨害するのは、もはや「基本戦術的行為」。相手側のスローインとわかったときにあらぬ方向や上に高く投げる選手を見ない試合もない。
そして試合が終わった瞬間にフィールド上で目立つのは勝者が抱き合う姿ばかり。なによりもまず互いに健闘をたたえ合う姿など、見ることはない。
審判員に対する態度のひどさも相変わらずだ。不利な笛を吹かれたと思ったときには、力いっぱい怖い顔でにらみつけ、大声をあげる。ペナルティーキックをとるための「演技」も、減る様子はない。これが審判に対する重大な侮辱であることを、選手たちはどこまで理解しているのか。
入場者数が落ちるのは当然のこと。こんな不愉快きわまりない「アンフェアプレー」のオンパレードを、だれが高い入場料を払って見にくるというのだ。
こうした行為の原因が、「勝利至上主義」にあることは明らかだ。「どんなことをしようと勝つことが絶対の正義」というのが、現在のJリーグを支配する基本思想なのだ。
審判の目を盗んで手でボールをコントロールし、決勝点につなげた選手は、試合後のコメントの不用意さを非難されることはあっても、行為そのものは「技術のうち」とされ、勝利のヒーローのままだ。
「勝てば官軍」。この言葉ほど、現在のJリーグを象徴するものはない。
では、その勝利至上主義はどこからきたのか。
何よりも、選手たちを育成してきた過程が問題だ。小学生のときから、「勝つため」にしかサッカーをさせてこなかったことが、これほどまでに選手をゆがめてしまったのだ。
リーグ戦では本来不要な「サドンデス」方式の採用に代表される、Jリーグの運営にも問題がある。
観客にとってはたしかにスリリング。だがこれは、「九十分間に全力を出し尽くす」という本質を忘れさせ、サッカーをゲームでなく、オールオアナッシングの「ギャンブル」にしてしまった。その結果、選手ばかりでなくファンも、敗戦からは何も満足を得られなくなってしまった。
Jリーグは日本のスポーツ文化をより豊かなものにすることを目指しているという。だが勝利至上主義に毒された現状は、文化と呼ぶにはあまりに貧しい。
ルールに従って正直にプレーするのは、愚かなことだろうか。フェアプレーには、勝利やタイトル以上の価値は、本当にないというのだろうか。
各クラブの役員、スタッフ、選手のひとりひとりがそれを真剣に考え、フェアプレー精神あふれるリーグをつくり出さない限り、Jリーグが二十一世紀の豊かなスポーツ文化の担い手となることはない。
(1995年10月31日)
9月下旬から吹き荒れた「サポーター騒動」に、Jリーグの川淵三郎チェアマンは10月5日に緊急記者会見を開いて対応策を発表した。その後、事態は一応鎮静化したように見える。
一連の事件と関連して審判問題を取り上げるマスコミも少なくない。しかしサポーター問題と審判問題は本質的に無関係だ。日本リーグ時代にもまずいレフェリングはいくらもあった。だがそれが原因で観客が暴れたことはなかった。
血気盛んな若者が、サッカーの勝負を自分のことのようにのめりこんで応援するのが、現代のサッカーにおける「サポーター」だ。この現実を踏まえれば、ただサポーターの良識に訴えるだけでは不十分なことは理解できるはずだ。
Jリーグのサポーター問題の根源は、責任の所在が定まらないことにある。
スタジアム内の管理責任は試合をするホームクラブにあるとJリーグは言う。ではその外のサポーターの行動は、誰が、どこまで責任をもつのか。スタジアムの敷地内はクラブか。最寄駅からスタジアムまではクラブか、それとも警察なのか。集団でバスや電車に乗っている間は?
多くのサポーターに支えられて試合をしているJリーグのクラブ。サポーターの行動についての社会的な責任は、クラブ自体が負わなければならない。そしてその責任は、試合に向け集団化した時点に生じる。
アウェーゲームでも同じだ。試合自体の管理責任はホームクラブにあっても、自クラブのサポーターの行動は、それぞれのクラブが責任をもつようにしなければならない。
責任の所在をこのように明らかにすることが、「サポーター問題」に取り組む原則的な態度となる。
この原則を確認したうえで、「サポーター問題」を根本的に解決するためにふたつの提案をしたい。
第一は各クラブが「セキュリティーオフィサー」を任命し、サポーターに関する統括責任者とすること。そして第二は、ホーム、アウェーに関係なく、サポーター用チケットをクラブが直接自分たちのサポーターに販売することだ。
「セキュリティー」(安全管理)の問題は、今後のJリーグにとって非常に大きな課題となる。その際必要なのは、この問題に関する事項をすべて把握した専門家の存在だ。プロサッカーのセキュリティー管理の最大のテーマがサポーター問題であるのなら、サポーターの主要メンバーや動向をつかみ、トラブルを未然に防ぐ仕事をする「セキュリティーオフィサー」は必要不可欠のはずだ。
サポーター用の入場券は格安にして、クラブが直接それぞれのサポーターに販売する。それによって初めて自分たちのサポーターを完全に把握できる。
アウェーサポーターの入場券は、全クラブが協力して、スタジアムの収容数や施設に応じた割当て数を決める。アウェークラブはそれをサポーターに直接販売し、必要ならセキュリティーオフィサーがサポーターに帯同してアウェーのスタジアムにはいる。
この制度によって、初めてゲームに来る全サポーターの情報を事前に把握することができるし、アウェーのサポーターに関する責任をアウェークラブが負うことが可能となる。
今回の騒動が鎮静化したのはサポーターの「反省」と「自粛」によるところが大きい。それに甘えてクラブが根本的な問題解決を先送りするようなら、近い将来に必ず悲劇が起こる。
Jリーグと所属クラブのプロフェッショナルな対処が、いまほど望まれているときはない。
(1995年10月17日)
一連の事件と関連して審判問題を取り上げるマスコミも少なくない。しかしサポーター問題と審判問題は本質的に無関係だ。日本リーグ時代にもまずいレフェリングはいくらもあった。だがそれが原因で観客が暴れたことはなかった。
血気盛んな若者が、サッカーの勝負を自分のことのようにのめりこんで応援するのが、現代のサッカーにおける「サポーター」だ。この現実を踏まえれば、ただサポーターの良識に訴えるだけでは不十分なことは理解できるはずだ。
Jリーグのサポーター問題の根源は、責任の所在が定まらないことにある。
スタジアム内の管理責任は試合をするホームクラブにあるとJリーグは言う。ではその外のサポーターの行動は、誰が、どこまで責任をもつのか。スタジアムの敷地内はクラブか。最寄駅からスタジアムまではクラブか、それとも警察なのか。集団でバスや電車に乗っている間は?
多くのサポーターに支えられて試合をしているJリーグのクラブ。サポーターの行動についての社会的な責任は、クラブ自体が負わなければならない。そしてその責任は、試合に向け集団化した時点に生じる。
アウェーゲームでも同じだ。試合自体の管理責任はホームクラブにあっても、自クラブのサポーターの行動は、それぞれのクラブが責任をもつようにしなければならない。
責任の所在をこのように明らかにすることが、「サポーター問題」に取り組む原則的な態度となる。
この原則を確認したうえで、「サポーター問題」を根本的に解決するためにふたつの提案をしたい。
第一は各クラブが「セキュリティーオフィサー」を任命し、サポーターに関する統括責任者とすること。そして第二は、ホーム、アウェーに関係なく、サポーター用チケットをクラブが直接自分たちのサポーターに販売することだ。
「セキュリティー」(安全管理)の問題は、今後のJリーグにとって非常に大きな課題となる。その際必要なのは、この問題に関する事項をすべて把握した専門家の存在だ。プロサッカーのセキュリティー管理の最大のテーマがサポーター問題であるのなら、サポーターの主要メンバーや動向をつかみ、トラブルを未然に防ぐ仕事をする「セキュリティーオフィサー」は必要不可欠のはずだ。
サポーター用の入場券は格安にして、クラブが直接それぞれのサポーターに販売する。それによって初めて自分たちのサポーターを完全に把握できる。
アウェーサポーターの入場券は、全クラブが協力して、スタジアムの収容数や施設に応じた割当て数を決める。アウェークラブはそれをサポーターに直接販売し、必要ならセキュリティーオフィサーがサポーターに帯同してアウェーのスタジアムにはいる。
この制度によって、初めてゲームに来る全サポーターの情報を事前に把握することができるし、アウェーのサポーターに関する責任をアウェークラブが負うことが可能となる。
今回の騒動が鎮静化したのはサポーターの「反省」と「自粛」によるところが大きい。それに甘えてクラブが根本的な問題解決を先送りするようなら、近い将来に必ず悲劇が起こる。
Jリーグと所属クラブのプロフェッショナルな対処が、いまほど望まれているときはない。
(1995年10月17日)
浦和レッズの田口禎則選手が競技場外でサポーターに暴力をふるった事件(先月23日)は、悲しむべきものだった。
田口選手に直接取材したわけではないが、マスコミの論調に見られる「思い上がっている」というのは少し見当違いだと思う。むしろ、プレッシャーに対する「弱さ」を感じる。
プロサッカー選手にとっての「プレッシャー」は試合中だけのものではない。試合を離れても、マスコミやファンが選手の生活にかかわってくるのを避けることはできない。そのプレッシャーに負けて才能を生かしきれなかった選手は、数限りなくいる。
プレーだけでなく世間の関心の高さでも世界一といわれるイタリアの「セリエA」で、もう20年間近くもトップスターの座にあるフランコ・バレージ(ACミラン)から、こんな話を聞いたことがある。
「もちろん、プレッシャーはある。でも、このレベルに達した者は、自分の役割を認識しなければならない。プレスやファンに対する責任を果たすから、有名人でいられるんだ。自分自身をコントロールし、他人の役割を守るよう、僕は努力しているよ」
田口選手のケースは、この「セルフコントロール」を失ったものだったが、その危険性はすべてのJリーグ選手にある。この事件がいい教訓となることを期待したい。
ところで、この件で不可解なことがある。
浦和レッズは、田口選手に自宅謹慎を命じ、それとともに「現契約期間内(来年1月末まで)の試合出場停止」処分を決めた。契約満了後の出場停止処分などクラブにはできないから、当然のことといえる。
不可解なのは、田口選手から事情を聞き、浦和レッズから報告を受けたJリーグ規律委員会の考えだ。レッズの「処分案を適切なものと判断」し、追認して上部機構の日本サッカー協会に伝えたというのだ。(協会の規律・フェアプレー委員会は決定を保留)。
試合外のことだから、クラブ自身が処分すれば済むことというのが、Jリーグの考え方のようだ。
これは、Jリーグの責任回避である。
Jリーグのメンバーは14の加盟クラブだが、クラブの支配下にある選手も、Jリーグはその規約で拘束しており、選手の監督責任はクラブとともにJリーグにも存在する。とすれば、今回のような選手の行為に対して、Jリーグは、クラブの処分とは無関係に、主体的に処分を下さなければならない。それが、リーグ自身の「責任の取り方」にほかならない。
犯した行為の内容はまったく違うが、4月の中西永輔選手(ジェフ市原)のハンド事件のときにも、Jリーグは「出場停止1試合プラス罰金」というクラブの課した処分を適切とし、独自には何の処分もしなかった。その結果、中西選手は公式にはただ1試合出場しなかったということだけになった。
クラブの処分案を「追認する」とはどういうことなのか。田口選手の場合も中西選手のときと同じになるとすれば、Jリーグはその監督下にあるプロ選手の行為について、社会に対して何の責任もとらないということになる。
「ただ罰すればいいというのではなく、選手の更生の道を考える」というJリーグの方針は高く評価できる。4カ月の出場停止が甘いか辛いかということも問題ではない。
しかし主体的な処分を行わず、クラブと協会に責任を押しつけるかっこうになったJリーグの態度は、すばやい行動を怠った浦和レッズの対処と同様に、失望させるものだった。
(1995年10月3日)
田口選手に直接取材したわけではないが、マスコミの論調に見られる「思い上がっている」というのは少し見当違いだと思う。むしろ、プレッシャーに対する「弱さ」を感じる。
プロサッカー選手にとっての「プレッシャー」は試合中だけのものではない。試合を離れても、マスコミやファンが選手の生活にかかわってくるのを避けることはできない。そのプレッシャーに負けて才能を生かしきれなかった選手は、数限りなくいる。
プレーだけでなく世間の関心の高さでも世界一といわれるイタリアの「セリエA」で、もう20年間近くもトップスターの座にあるフランコ・バレージ(ACミラン)から、こんな話を聞いたことがある。
「もちろん、プレッシャーはある。でも、このレベルに達した者は、自分の役割を認識しなければならない。プレスやファンに対する責任を果たすから、有名人でいられるんだ。自分自身をコントロールし、他人の役割を守るよう、僕は努力しているよ」
田口選手のケースは、この「セルフコントロール」を失ったものだったが、その危険性はすべてのJリーグ選手にある。この事件がいい教訓となることを期待したい。
ところで、この件で不可解なことがある。
浦和レッズは、田口選手に自宅謹慎を命じ、それとともに「現契約期間内(来年1月末まで)の試合出場停止」処分を決めた。契約満了後の出場停止処分などクラブにはできないから、当然のことといえる。
不可解なのは、田口選手から事情を聞き、浦和レッズから報告を受けたJリーグ規律委員会の考えだ。レッズの「処分案を適切なものと判断」し、追認して上部機構の日本サッカー協会に伝えたというのだ。(協会の規律・フェアプレー委員会は決定を保留)。
試合外のことだから、クラブ自身が処分すれば済むことというのが、Jリーグの考え方のようだ。
これは、Jリーグの責任回避である。
Jリーグのメンバーは14の加盟クラブだが、クラブの支配下にある選手も、Jリーグはその規約で拘束しており、選手の監督責任はクラブとともにJリーグにも存在する。とすれば、今回のような選手の行為に対して、Jリーグは、クラブの処分とは無関係に、主体的に処分を下さなければならない。それが、リーグ自身の「責任の取り方」にほかならない。
犯した行為の内容はまったく違うが、4月の中西永輔選手(ジェフ市原)のハンド事件のときにも、Jリーグは「出場停止1試合プラス罰金」というクラブの課した処分を適切とし、独自には何の処分もしなかった。その結果、中西選手は公式にはただ1試合出場しなかったということだけになった。
クラブの処分案を「追認する」とはどういうことなのか。田口選手の場合も中西選手のときと同じになるとすれば、Jリーグはその監督下にあるプロ選手の行為について、社会に対して何の責任もとらないということになる。
「ただ罰すればいいというのではなく、選手の更生の道を考える」というJリーグの方針は高く評価できる。4カ月の出場停止が甘いか辛いかということも問題ではない。
しかし主体的な処分を行わず、クラブと協会に責任を押しつけるかっこうになったJリーグの態度は、すばやい行動を怠った浦和レッズの対処と同様に、失望させるものだった。
(1995年10月3日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。