ボビー・ムーアにインタビューしたのは82年ワールドカップの直後だった。イングランド代表の主将として地元開催の66年大会で祖国を初優勝に導いた英雄は、このとき香港のクラブチームの監督として日本遠征にきていた。
そのなかでこんな話が出た。彼の現役時代と80年代のサッカーの比較だ。
「60年代にはサッカーはあくまでもスポーツだった。世界的な名声や熱狂的なファンなどもあったが、いったんフィールドに出れば、選手たちはスポーツマン対スポーツマンとして競うことができた」
「しかし現在、サッカーはビッグビジネスになってしまった。ばく大なカネがすべてを支配し、大きなプッシャーを生んだ。選手も監督も、そのプレッシャー下で自分が本当にやりたいことができないんだ」
地元で66年ワールドカップの決勝を戦ったときにも、プレッシャーなどまったく感じなかったという。幸せだとは思ったが、勝敗に対する恐怖などどこにもなかった。82年大会では多くの選手が「負けたら大きなものを失う」という思いでプレーしているように見えたという。それがワールドカップから「喜び」を失わせつつあると。
この話から14年。大詰めにきた2002年ワールドカップの招致問題のニュースが連日メディアをにぎわしている。
韓国との共同開催案が浮上し、日本絶対有利説が支配的になり、それがどんでん返しで「大敗説」にとって代わられ、今度は「共同開催」を欧州サッカー連盟(UEFA)が提案するという。最終的に6月1日に国際サッカー連盟(FIFA)の特別理事会が招集され、投票が行われるかどうかも不確実な状況になってしまった。
2002年ワールドカップの開催国決定は、本来純粋に「スポーツ」の問題だった。21世紀最初のワールドカップをどこで開催するのがふさわしいか。FIFAアベランジェ会長の「アジアでやってもいい」という発言に励まされて日本が立候補を表明し、韓国が追随した。両国が「新しいワールドカップ像」を提案し、その比較によって決定するべきだった。
だがここに韓国がばく大な「カネ」をもちこんできたことで様相は大きく変わった。FIFAや世界のサッカー界に対する財政的支援の提案は、ワールドカップが「ビッグビジネス」であることをバックグラウンドにしたものだった。
それだけでは止まらなかった。韓国は「政治」までもちこんできたのだ。日韓の歴史的関係から「日本は韓国に譲べきだ」と主張したのを手始めに、「北朝鮮との共同開催で世界平和に貢献」などというおかど違いの話まで出してきた。同時に、「日本びいき」といわれるFIFA会長とUEFAとの対立関係を利用して欧州からの支持をとりつけようとしてきた。
「あと1週間」を切り、UEFAの「共同開催を提案」というニュースで明らかになったのは、韓国のこうした動きがUEFAによって完全に利用され、FIFAとの「政争」の道具にされてしまっているということだ。UEFAの老かいさの前には、日本も韓国もまるで子供扱いだ。
ボビー・ムーアは93年に51歳の若さで急逝した。彼は幸運だったかもしれない。彼が目にしたのは「ビッグビジネス」化の段階までだった。それに「政治」まで加わった醜悪な国際サッカーの姿を見ずにすんだからだ。
2002年ワールドカップの開催国決定がこんなドロ沼に陥ってしまったことは残念でならない。
(1996年5月27日)
そのなかでこんな話が出た。彼の現役時代と80年代のサッカーの比較だ。
「60年代にはサッカーはあくまでもスポーツだった。世界的な名声や熱狂的なファンなどもあったが、いったんフィールドに出れば、選手たちはスポーツマン対スポーツマンとして競うことができた」
「しかし現在、サッカーはビッグビジネスになってしまった。ばく大なカネがすべてを支配し、大きなプッシャーを生んだ。選手も監督も、そのプレッシャー下で自分が本当にやりたいことができないんだ」
地元で66年ワールドカップの決勝を戦ったときにも、プレッシャーなどまったく感じなかったという。幸せだとは思ったが、勝敗に対する恐怖などどこにもなかった。82年大会では多くの選手が「負けたら大きなものを失う」という思いでプレーしているように見えたという。それがワールドカップから「喜び」を失わせつつあると。
この話から14年。大詰めにきた2002年ワールドカップの招致問題のニュースが連日メディアをにぎわしている。
韓国との共同開催案が浮上し、日本絶対有利説が支配的になり、それがどんでん返しで「大敗説」にとって代わられ、今度は「共同開催」を欧州サッカー連盟(UEFA)が提案するという。最終的に6月1日に国際サッカー連盟(FIFA)の特別理事会が招集され、投票が行われるかどうかも不確実な状況になってしまった。
2002年ワールドカップの開催国決定は、本来純粋に「スポーツ」の問題だった。21世紀最初のワールドカップをどこで開催するのがふさわしいか。FIFAアベランジェ会長の「アジアでやってもいい」という発言に励まされて日本が立候補を表明し、韓国が追随した。両国が「新しいワールドカップ像」を提案し、その比較によって決定するべきだった。
だがここに韓国がばく大な「カネ」をもちこんできたことで様相は大きく変わった。FIFAや世界のサッカー界に対する財政的支援の提案は、ワールドカップが「ビッグビジネス」であることをバックグラウンドにしたものだった。
それだけでは止まらなかった。韓国は「政治」までもちこんできたのだ。日韓の歴史的関係から「日本は韓国に譲べきだ」と主張したのを手始めに、「北朝鮮との共同開催で世界平和に貢献」などというおかど違いの話まで出してきた。同時に、「日本びいき」といわれるFIFA会長とUEFAとの対立関係を利用して欧州からの支持をとりつけようとしてきた。
「あと1週間」を切り、UEFAの「共同開催を提案」というニュースで明らかになったのは、韓国のこうした動きがUEFAによって完全に利用され、FIFAとの「政争」の道具にされてしまっているということだ。UEFAの老かいさの前には、日本も韓国もまるで子供扱いだ。
ボビー・ムーアは93年に51歳の若さで急逝した。彼は幸運だったかもしれない。彼が目にしたのは「ビッグビジネス」化の段階までだった。それに「政治」まで加わった醜悪な国際サッカーの姿を見ずにすんだからだ。
2002年ワールドカップの開催国決定がこんなドロ沼に陥ってしまったことは残念でならない。
(1996年5月27日)
ハンブルクに住む友人からファクスがはいったのは4月末のことだった。
「オランダとドイツの犬猿の仲は有名な話です。サッカーの場でもたびたびサポーター同士の衝突が起きてきました。その両国が先日ロッテルダムで対戦しましたが、試合前のセレモニーにとても感激しました」
「通常ならチームごとに分かれて整列します。しかしこの日は両チームは互い違いに並んだのです。そしてドイツ国歌をオランダ人の女性歌手が、オランダ国歌をドイツ人のテノール歌手が歌って両国の親善をアピールしたのです」
国際試合に限らず、試合前は両チームが分かれて並ぶのがスポーツの常識だ。「死闘」に向けての集中力を妨げるようなことをチームが嫌うからだ。国歌も、単なるセレモニーというより、選手たちの「愛国心」を高揚させるために使われる。九二年欧州選手権の決勝戦では、当初開催国スウェーデンの歌手が予定されていたが、デンマークとドイツ両国の要求で、それぞれの国の歌手が歌った。
そうした「常識」や「慣例」を敢えて打破したオランダとドイツのサッカー協会のセンスに敬服する。
いったんキックオフの笛が鳴れば、両チームの選手は文字どおり「敵味方」に分かれ、死力を尽くして戦う。しかし試合が終われば「ノーサイド」(チームの区分がなくなる)であることは、ラグビーに限らず、あらゆるスポーツの、共通する原点である。
オランダ・サッカー協会はそれを「試合前」にまで広げることを提案し、ドイツ協会も快く同意した。
「スポーツの場では、私たちはともにサッカーを愛し、ひとつのゲームをいっしょにエンジョイする仲間だ。協会も、選手も、そしてサポーターも」
そんなメッセージが、ライバル同士の試合前のセレモニーから伝わってくる。
ハンブルクの友人の心配は、オランダ×ドイツ以上に過熱ぎみの「日韓」のライバル関係だ。最終局面を迎えた2002年ワールドカップの招致合戦の熱気が、遠く離れていても伝わってくるという。
どんなに大きな「経済効果」や「社会的影響」があろうと、ワールドカップはあくまでサッカーというひとつのスポーツの大会にすぎない。それがなくても、誰かが飢え死にするような問題ではない。
スポーツの問題なら、勝負はある意味で「時の運」ということもできる。どちらが勝とうと、後にしこりを残したり両者の関係が険悪になることなど、ありえないはずし、あってはならないことだ。
6月1日、FIFA決定が発表されたら、日韓両国のサッカー協会と政府は、どちらが勝とうと相手を祝福し、アジアに迎える初めてのワールドカップの成功のために力を合わせることを宣言するべきだ。激しく争ってきたが、もう試合終了のホイッスルが吹かれ、「ノーサイド」になったことを両国国民と世界に示さねければならない。
友人のファクスは、ひとつの「提案」でしめくくられる。
「6月1日以後できるだけ早く、日本と韓国が親善試合を行うべきです。そしてオランダ×ドイツ方式のセレモニーで両国サッカーの友情をアピールしたらいいと思います」
2002年ワールドカップの開催国決定まで残すところわずか12日間。両国政府と協会の見識ある行動で、その日から、サッカーにおける新しい日韓関係、「友情あふれるライバル」としての関係をスタートさせなければならない。それが21世紀に残す「招致活動」の最後の仕事だ。
(1996年5月20日)
「オランダとドイツの犬猿の仲は有名な話です。サッカーの場でもたびたびサポーター同士の衝突が起きてきました。その両国が先日ロッテルダムで対戦しましたが、試合前のセレモニーにとても感激しました」
「通常ならチームごとに分かれて整列します。しかしこの日は両チームは互い違いに並んだのです。そしてドイツ国歌をオランダ人の女性歌手が、オランダ国歌をドイツ人のテノール歌手が歌って両国の親善をアピールしたのです」
国際試合に限らず、試合前は両チームが分かれて並ぶのがスポーツの常識だ。「死闘」に向けての集中力を妨げるようなことをチームが嫌うからだ。国歌も、単なるセレモニーというより、選手たちの「愛国心」を高揚させるために使われる。九二年欧州選手権の決勝戦では、当初開催国スウェーデンの歌手が予定されていたが、デンマークとドイツ両国の要求で、それぞれの国の歌手が歌った。
そうした「常識」や「慣例」を敢えて打破したオランダとドイツのサッカー協会のセンスに敬服する。
いったんキックオフの笛が鳴れば、両チームの選手は文字どおり「敵味方」に分かれ、死力を尽くして戦う。しかし試合が終われば「ノーサイド」(チームの区分がなくなる)であることは、ラグビーに限らず、あらゆるスポーツの、共通する原点である。
オランダ・サッカー協会はそれを「試合前」にまで広げることを提案し、ドイツ協会も快く同意した。
「スポーツの場では、私たちはともにサッカーを愛し、ひとつのゲームをいっしょにエンジョイする仲間だ。協会も、選手も、そしてサポーターも」
そんなメッセージが、ライバル同士の試合前のセレモニーから伝わってくる。
ハンブルクの友人の心配は、オランダ×ドイツ以上に過熱ぎみの「日韓」のライバル関係だ。最終局面を迎えた2002年ワールドカップの招致合戦の熱気が、遠く離れていても伝わってくるという。
どんなに大きな「経済効果」や「社会的影響」があろうと、ワールドカップはあくまでサッカーというひとつのスポーツの大会にすぎない。それがなくても、誰かが飢え死にするような問題ではない。
スポーツの問題なら、勝負はある意味で「時の運」ということもできる。どちらが勝とうと、後にしこりを残したり両者の関係が険悪になることなど、ありえないはずし、あってはならないことだ。
6月1日、FIFA決定が発表されたら、日韓両国のサッカー協会と政府は、どちらが勝とうと相手を祝福し、アジアに迎える初めてのワールドカップの成功のために力を合わせることを宣言するべきだ。激しく争ってきたが、もう試合終了のホイッスルが吹かれ、「ノーサイド」になったことを両国国民と世界に示さねければならない。
友人のファクスは、ひとつの「提案」でしめくくられる。
「6月1日以後できるだけ早く、日本と韓国が親善試合を行うべきです。そしてオランダ×ドイツ方式のセレモニーで両国サッカーの友情をアピールしたらいいと思います」
2002年ワールドカップの開催国決定まで残すところわずか12日間。両国政府と協会の見識ある行動で、その日から、サッカーにおける新しい日韓関係、「友情あふれるライバル」としての関係をスタートさせなければならない。それが21世紀に残す「招致活動」の最後の仕事だ。
(1996年5月20日)
ヴェルディ川崎の新時代がスタートした。ラモスが去り、レオン新監督が着任して新しい規律や練習スケジュールが持ち込まれている。「強いヴェルディ」の復活は近い。
その大変化の「引き金」が、ネルシーニョ前監督の辞任だった。
外国のプロサッカーではシーズン序盤の監督交代は珍しいことではない。数試合でクビになる監督が、どの国にも毎年必ずいる。だが今回のネルシーニョの辞任はあまりに突然で、周囲の人びとを驚かせた。
4月13日に今季初めてヴェルディの試合(対レッズ)を見て、「活気」がないのに気づいた。
昨年までは相手の厚い守りに攻めあぐねることはあっても、最後には技術と試合運びのうまさを発揮して勝利をつかんでいた。それを支えたのは、チーム内の激しいポジション争いであり、サッカーを知り尽くしたプロ集団の「プライド」のようなものだった。
だが今季のヴェルディには、相手を萎縮させるような力はなかった。激しい闘志がスタンドにまで伝わってくることもなかった。
そのときに思ったのは、「監督を代えるしかない」ということだった。
ネルシーニョの能力がないというのではない。一昨年に指揮をとりはじめて以来、プロらしい冷徹なチームづくりでヴェルディを勝利に導いてきた手腕に疑いをはさむ余地はない。
「対ヴェルディ」で最高のモチベーションの下ぶつかってくる相手に対し、勝利を積み重ねていくことは容易なことではない。試合中のシステム変更などで見せた高度な指揮ぶりは「さすがブラジル屈指の若手監督」と思わせた。
だがそれでも、「監督が代わるしかない」と考えざるをえなかった。
ネルシーニョが実質的にチームを指揮するようになって約2年。監督は全選手の能力を把握し、選手たちも監督の戦い方を覚えた。その結果、ベテランも若手も競争意識が薄れ、意欲を失いかけている。いわば、チームの「硬化」が始まっていたのだ。
ネルシーニョもそう感じたに違いない。しかし自分で冷静にそう分析できる監督はけっして多くない。それを自主的に実行に移すことができる監督も、世界に何人もいないだろう。
「ヴェルディは優勝を争う力のあるチームのはず。いまならまだ間に合う。私がやめることによって、空気を入れ換えるのがベストの道だと思う」
逃げでも、言い訳でもない。本心からの言葉だと思う。自我を殺し、ヴェルディというチームにとって最善の方法だけを考え抜いた末の、「監督としての最後の仕事」だった。
今季前、私自身ヴェルディを有力な優勝候補にあげていた。選手の能力、選手層の暑さ、そしてそれをチームとしてまとめ上げていくネルシーニョの手腕を考慮してのものだった。
そのネルシーニョが自らチームを去り、「管理主義者」といわれるレオンが新監督に就任した。
横浜フリューゲルスの好調ぶりが光ったJリーグの前期。しかしまだ予断は許さない。いくつもの波乱が起こり、終盤まで優勝争いがもつれる予感がする。そして、そのなかにヴェルディがはいってくる可能性は十分あると思う。
そのとき、多くの人がネルシーニョの「決断」がどんな意味をもつものであったかを知るだろう。
ネルシーニョのような智将を日本のサッカーが失ったことは残念だ。だが、彼が残した「教訓」は、日本のサッカーが「大人」になるうえで大きな意味をもつものになるに違いない。
(1996年5月13日)
その大変化の「引き金」が、ネルシーニョ前監督の辞任だった。
外国のプロサッカーではシーズン序盤の監督交代は珍しいことではない。数試合でクビになる監督が、どの国にも毎年必ずいる。だが今回のネルシーニョの辞任はあまりに突然で、周囲の人びとを驚かせた。
4月13日に今季初めてヴェルディの試合(対レッズ)を見て、「活気」がないのに気づいた。
昨年までは相手の厚い守りに攻めあぐねることはあっても、最後には技術と試合運びのうまさを発揮して勝利をつかんでいた。それを支えたのは、チーム内の激しいポジション争いであり、サッカーを知り尽くしたプロ集団の「プライド」のようなものだった。
だが今季のヴェルディには、相手を萎縮させるような力はなかった。激しい闘志がスタンドにまで伝わってくることもなかった。
そのときに思ったのは、「監督を代えるしかない」ということだった。
ネルシーニョの能力がないというのではない。一昨年に指揮をとりはじめて以来、プロらしい冷徹なチームづくりでヴェルディを勝利に導いてきた手腕に疑いをはさむ余地はない。
「対ヴェルディ」で最高のモチベーションの下ぶつかってくる相手に対し、勝利を積み重ねていくことは容易なことではない。試合中のシステム変更などで見せた高度な指揮ぶりは「さすがブラジル屈指の若手監督」と思わせた。
だがそれでも、「監督が代わるしかない」と考えざるをえなかった。
ネルシーニョが実質的にチームを指揮するようになって約2年。監督は全選手の能力を把握し、選手たちも監督の戦い方を覚えた。その結果、ベテランも若手も競争意識が薄れ、意欲を失いかけている。いわば、チームの「硬化」が始まっていたのだ。
ネルシーニョもそう感じたに違いない。しかし自分で冷静にそう分析できる監督はけっして多くない。それを自主的に実行に移すことができる監督も、世界に何人もいないだろう。
「ヴェルディは優勝を争う力のあるチームのはず。いまならまだ間に合う。私がやめることによって、空気を入れ換えるのがベストの道だと思う」
逃げでも、言い訳でもない。本心からの言葉だと思う。自我を殺し、ヴェルディというチームにとって最善の方法だけを考え抜いた末の、「監督としての最後の仕事」だった。
今季前、私自身ヴェルディを有力な優勝候補にあげていた。選手の能力、選手層の暑さ、そしてそれをチームとしてまとめ上げていくネルシーニョの手腕を考慮してのものだった。
そのネルシーニョが自らチームを去り、「管理主義者」といわれるレオンが新監督に就任した。
横浜フリューゲルスの好調ぶりが光ったJリーグの前期。しかしまだ予断は許さない。いくつもの波乱が起こり、終盤まで優勝争いがもつれる予感がする。そして、そのなかにヴェルディがはいってくる可能性は十分あると思う。
そのとき、多くの人がネルシーニョの「決断」がどんな意味をもつものであったかを知るだろう。
ネルシーニョのような智将を日本のサッカーが失ったことは残念だ。だが、彼が残した「教訓」は、日本のサッカーが「大人」になるうえで大きな意味をもつものになるに違いない。
(1996年5月13日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。