「32チーム、全64試合を日本と韓国で半分ずつ開催する。開幕戦は韓国、決勝戦は日本で行う」
2002年ワールドカップの概要が固まり始めた。5月で解散した「招致委員会」から来年に予定されている「組織委員会」設立までの、つなぎの仕事を担当する日本の「開催準備委員会」にとっては、もっとも厳しい決断のときだ。
93年1月、「招致委員会」は国内開催地に立候補した15の自治体を予定の12に絞りきることができず、結局15会場で大会を運営する方針を決めた。
その時点で24だった出場チーム数を、国際サッカー連盟(FIFA)が32に増やすことを決めたのは94年5月。これで15は無理のない会場数となった。だが「共同開催」で状況は大きく変わった。
FIFAと日韓両国の初めてのミーティングから帰国した長沼健・日本サッカー協会会長(準備委員会では実行委員長)は、「FIFAから6ないし10が妥当な会場数と言われた」と報告、93年にできなかった「絞り込み」をしなければならない状況になった。
長沼会長は「絞り込みではない。あくまで話し合いで決める」と言うが、いくつかの候補地がワールドカップを開催できなくなるという事実に変わりはない。
1自治体あたり2億数千万円の招致活動資金を分担し、努力を続けてきた候補地にとって、受け入れがたい結論を、準備委員会は下さなければならない。「共同開催」をのんだ時点で当然考えなければならなかったことを先送りしてきた結果とはいえ、大変な決断を迫られているのだ。
気になるのは、絞り込みが単なる「数合わせ」の様相を呈していることだ。
「6ないし10に」とFIFAから言われたことが、なぜ「10会場に決定」という話になるのか。それでは日本の「主体性」はどこにあるのか。
日本の招致委員会は、史上最高のワールドカップにしようと練りに練った「開催計画」をFIFAに提案した。それは15の舞台で32チームが64試合を戦う、楽しく美しい大会になるプランだった。
だがそれが16チーム、32試合になった。当然「開催計画」を根本から見直さなくてはならない。
「16チームのワールドカップ」をどう開催したら成功するか。会場をどのように日本全国に配置し、大会をどう運営するか。それこそ、早急に考えるべきことのはずだ。
だが現状ではそんなことは後回し。聞こえてくるのは、どうしたら5つ落とせるか、どこが落ちるかの議論ばかりだ。「最善の開催計画」では会場数が8になるかもしれない。そうなら7自治体を落とさなければならないのに。
90年、イタリアでは、24チームの大会に12会場が用意され、1グループ(4チーム)2都市で予選リーグを戦った。98年フランス大会では、32チーム、全8グループが全土の十会場を転々としながら試合をする。大会の運営プランは、それぞれの国が最善と思えるものをたてているのだ。
「数」からスタートするのは間違っている。それは最終的には、大会の運営に「ひずみ」を生む。日本協会と準備委員会が主体的に大会開催計画を練り、自ら責任をもって会場計画を決めなければならない。
どう決めても「痛み」は回避できない。ならばせめて、「すばらしい大会だった」と誰もが思える大会にしなければならない。それこそ、今回「ふるい落とされる」自治体に対する日本協会と準備委員会の最大の責任にほかならない。
(1996年11月25日)
2002年ワールドカップの概要が固まり始めた。5月で解散した「招致委員会」から来年に予定されている「組織委員会」設立までの、つなぎの仕事を担当する日本の「開催準備委員会」にとっては、もっとも厳しい決断のときだ。
93年1月、「招致委員会」は国内開催地に立候補した15の自治体を予定の12に絞りきることができず、結局15会場で大会を運営する方針を決めた。
その時点で24だった出場チーム数を、国際サッカー連盟(FIFA)が32に増やすことを決めたのは94年5月。これで15は無理のない会場数となった。だが「共同開催」で状況は大きく変わった。
FIFAと日韓両国の初めてのミーティングから帰国した長沼健・日本サッカー協会会長(準備委員会では実行委員長)は、「FIFAから6ないし10が妥当な会場数と言われた」と報告、93年にできなかった「絞り込み」をしなければならない状況になった。
長沼会長は「絞り込みではない。あくまで話し合いで決める」と言うが、いくつかの候補地がワールドカップを開催できなくなるという事実に変わりはない。
1自治体あたり2億数千万円の招致活動資金を分担し、努力を続けてきた候補地にとって、受け入れがたい結論を、準備委員会は下さなければならない。「共同開催」をのんだ時点で当然考えなければならなかったことを先送りしてきた結果とはいえ、大変な決断を迫られているのだ。
気になるのは、絞り込みが単なる「数合わせ」の様相を呈していることだ。
「6ないし10に」とFIFAから言われたことが、なぜ「10会場に決定」という話になるのか。それでは日本の「主体性」はどこにあるのか。
日本の招致委員会は、史上最高のワールドカップにしようと練りに練った「開催計画」をFIFAに提案した。それは15の舞台で32チームが64試合を戦う、楽しく美しい大会になるプランだった。
だがそれが16チーム、32試合になった。当然「開催計画」を根本から見直さなくてはならない。
「16チームのワールドカップ」をどう開催したら成功するか。会場をどのように日本全国に配置し、大会をどう運営するか。それこそ、早急に考えるべきことのはずだ。
だが現状ではそんなことは後回し。聞こえてくるのは、どうしたら5つ落とせるか、どこが落ちるかの議論ばかりだ。「最善の開催計画」では会場数が8になるかもしれない。そうなら7自治体を落とさなければならないのに。
90年、イタリアでは、24チームの大会に12会場が用意され、1グループ(4チーム)2都市で予選リーグを戦った。98年フランス大会では、32チーム、全8グループが全土の十会場を転々としながら試合をする。大会の運営プランは、それぞれの国が最善と思えるものをたてているのだ。
「数」からスタートするのは間違っている。それは最終的には、大会の運営に「ひずみ」を生む。日本協会と準備委員会が主体的に大会開催計画を練り、自ら責任をもって会場計画を決めなければならない。
どう決めても「痛み」は回避できない。ならばせめて、「すばらしい大会だった」と誰もが思える大会にしなければならない。それこそ、今回「ふるい落とされる」自治体に対する日本協会と準備委員会の最大の責任にほかならない。
(1996年11月25日)
96年のJリーグは相変わらずの「審判トラブル」続きだった。
11月13日に行われた「ポストシーズン・トーナメント」(間違っても「真の王者決定戦」ではない)のサントリーカップ準決勝では、清水エスパルスと名古屋グランパスの対戦でエスパルスのアルディレス監督がベルナール・ソール主審への執拗な抗議で退席処分となった。そのあげく、エスパルスはソール主審が不当にPK戦で自チームのサポーター側のゴールを使わなかったと強い不満を訴えているという。「レフェリーに対する不信感ここに極まれり」という観だ。
こうして監督やチーム、そして彼らの影響を強く受けるサポーターと、レフェリーたちの間に不信感があふれていることは、Jリーグのみならず日本のサッカー全体にとって大きな不幸と言わねばならない。
両者にはそれぞれの言い分があるに違いない。
レフェリーたちは、監督や選手たちのマナーがあまりに悪く、人格的に問題があり、フェアプレー精神などかけらもないと指摘するだろう。一方、監督や選手たちは、レフェリーたちの技術の低さや、あまりに権威をふりかざし、カードを乱発して、しばしば「問答無用」といった態度をとることに強い不満をもっているに違いない。
このままでは互いの信頼関係など築かれるわけはない。それは、サッカーがますます不愉快なものになることを意味している。
Jリーグでは、毎年シーズン前に全クラブの監督を集めてミーティングを行っている。そこではほぼ一方的に、Jリーグから「フェアプレーを守るように」という内容の通達が行われているという。
レフェリーたちに強い不満をもっている人びとに、こんなことをして何の意味があるのだろうか。それより、せっかく全チームの監督が集まる場を、もっと建設的なものに生かせないものだろうか。
たとえば、そのミーティングにJリーグの担当全審判員にも来てもらい、監督たちとディスカッションを行うのだ。感情をぶつけ合うのではなく、どうしたらスムーズに試合が進められるか意見を交換するのは不可能ではないだろう。
Jリーグには豊かな経験をもった外国人監督も多数いる。レフェリーたちは、そうした人びとから有用なアドバイスや、レフェリング技術のヒントを得ることができるかもしれない。
監督たちも、最新のレフェリングに関する知識を得たりレフェリーたちからの要望を聞くことで、自分たちの思い違いや過ちに気づくかもしれない。
それ以上に大事なのは、監督とレフェリーたちが互いをよりよく知り合うということだ。これには、ディスカッションとともに「懇親会」のようなものが役立つだろう。それを通じて、実際にはどういう人物かを互いに知り合うことができる。名前を知り、スタジアムの緊張感のなかで見るのとはまったく別の「素顔」を知ることで、相互関係が変わらないわけがない。
「互いを知る」ことこそ「信頼関係」の第一歩にほかならない。そしてそれがなければ、けっしていい試合は生まれないし、フェアプレーにあふれたリーグにはならない。
なぜか。
答えは簡単だ。
監督や選手、すなわち対戦する両チームと4人のレフェリーたちは、ひとつの試合をつくる「仲間」にほかならないからだ。全員がいい仕事をしなければ、けっして「いい試合」は生まれない。力を合わせて仕事をするには、「信頼関係」が必要不可欠なのだ。
(1996年11月18日)
11月13日に行われた「ポストシーズン・トーナメント」(間違っても「真の王者決定戦」ではない)のサントリーカップ準決勝では、清水エスパルスと名古屋グランパスの対戦でエスパルスのアルディレス監督がベルナール・ソール主審への執拗な抗議で退席処分となった。そのあげく、エスパルスはソール主審が不当にPK戦で自チームのサポーター側のゴールを使わなかったと強い不満を訴えているという。「レフェリーに対する不信感ここに極まれり」という観だ。
こうして監督やチーム、そして彼らの影響を強く受けるサポーターと、レフェリーたちの間に不信感があふれていることは、Jリーグのみならず日本のサッカー全体にとって大きな不幸と言わねばならない。
両者にはそれぞれの言い分があるに違いない。
レフェリーたちは、監督や選手たちのマナーがあまりに悪く、人格的に問題があり、フェアプレー精神などかけらもないと指摘するだろう。一方、監督や選手たちは、レフェリーたちの技術の低さや、あまりに権威をふりかざし、カードを乱発して、しばしば「問答無用」といった態度をとることに強い不満をもっているに違いない。
このままでは互いの信頼関係など築かれるわけはない。それは、サッカーがますます不愉快なものになることを意味している。
Jリーグでは、毎年シーズン前に全クラブの監督を集めてミーティングを行っている。そこではほぼ一方的に、Jリーグから「フェアプレーを守るように」という内容の通達が行われているという。
レフェリーたちに強い不満をもっている人びとに、こんなことをして何の意味があるのだろうか。それより、せっかく全チームの監督が集まる場を、もっと建設的なものに生かせないものだろうか。
たとえば、そのミーティングにJリーグの担当全審判員にも来てもらい、監督たちとディスカッションを行うのだ。感情をぶつけ合うのではなく、どうしたらスムーズに試合が進められるか意見を交換するのは不可能ではないだろう。
Jリーグには豊かな経験をもった外国人監督も多数いる。レフェリーたちは、そうした人びとから有用なアドバイスや、レフェリング技術のヒントを得ることができるかもしれない。
監督たちも、最新のレフェリングに関する知識を得たりレフェリーたちからの要望を聞くことで、自分たちの思い違いや過ちに気づくかもしれない。
それ以上に大事なのは、監督とレフェリーたちが互いをよりよく知り合うということだ。これには、ディスカッションとともに「懇親会」のようなものが役立つだろう。それを通じて、実際にはどういう人物かを互いに知り合うことができる。名前を知り、スタジアムの緊張感のなかで見るのとはまったく別の「素顔」を知ることで、相互関係が変わらないわけがない。
「互いを知る」ことこそ「信頼関係」の第一歩にほかならない。そしてそれがなければ、けっしていい試合は生まれないし、フェアプレーにあふれたリーグにはならない。
なぜか。
答えは簡単だ。
監督や選手、すなわち対戦する両チームと4人のレフェリーたちは、ひとつの試合をつくる「仲間」にほかならないからだ。全員がいい仕事をしなければ、けっして「いい試合」は生まれない。力を合わせて仕事をするには、「信頼関係」が必要不可欠なのだ。
(1996年11月18日)
ヨーロッパのサッカー史において、96年は「テレビの年」として記憶されるようになるだろう。
ここ数年で「欧州チャンピオンズリーグ」に大変貌をもたらしたテレビマネーは、今季から主要国国内リーグへの参入を開始した。イタリアやイングランドでは「ペイパービュー」(番組ごとに視聴料を払う)でどれでも見たい試合が見られるサービスが始まり、莫大な放映権料がサッカー界に流れ込んでいる。
さらに国際サッカー連盟(FIFA)が、2002年と2006年のワールドカップの放映権をこれまでの10倍以上の金額で売り渡したことが、大きな衝撃を与えた。1998年大会まで約100億円だった放映権料が、2002年には1000億円を超すことになったのだ。
このような状況で、ドイツの民間放送会社の首脳たちがFIFAに大きな改革の提案をしたのは、当然の成り行きだった。
「試合をアイスホッケーのように3ピリオド制にして、10分間ずつの休憩を入れる。またはアメリカンフットボールのような4クォーター制を採用する」
狙いはもちろん、CMの時間を確保することだ。
日本では、多くの民放はゲーム進行中に平気でCMを入れるが、ヨーロッパではそんなことはできない。試合前後とハーフタイムに入れるほかはないのだ。
BS放送やケーブルテレビの急速な発達によってヨーロッパでもチャンネルが爆発的に増えた。そのなかで多くの局がサッカーの放映権を求めている。「売り手市場」で、放映権料は莫大な額になった。
だが、サッカーは45分間もCMを入れることができない。非常に「非民放的」なゲームといえる。放映権料に見合うCMを入れるには、試合方法そのものの改革以外にないというのが、ドイツ民放の見解なのだ。そうでないと、「ペイパービュー」以外ではサッカーを見られなくなってしまうと主張する。
これに対し、元ドイツ代表監督のベッケンバウアーは「今世紀最大のナンセンス」と非難する。「そんなことをしたらサッカーのスピーディーな魅力が殺されてしまう」というのだ。
FIFAのブラッター事務総長も、提案を完全に否定するとともに、FIFA自身が数年前から実験していた「タイムアウト」(前後半にいちどずつ、両チームの監督がとることができる)も、当面、正式採用の予定はないと語る。
図式としては、「スポーツ」が「テレビの横暴」をはね返した形だ。だが私は割り切れないものを感じざるをえない。ベッケンバウアーもブラッターも、「提案」そのものへの評価しか語らず、根本的な問題にはまったく触れていない。それは、「放映権料が高すぎる」ということだ。
「相手にとっても適切な額」を考えず、駆け引きだけで放映権料をつり上げた結果が、「通常のテレビ放映の危機」をもたらしている。現在の放映権料では、日本でいえばNHKにあたる「公共放送」はとっくに手が出せない額になっている。このままでは民放も早晩撤退し、チャンネンルをひねっただけではサッカーを見ることのできない時代になるのは必然なのだ。
日本では、サッカーはいまのところ視聴率が悪く、テレビからのプレッシャーはそれほどでもない。
だが、ドイツの今回の騒ぎは、大きな教訓を与えている。それは、「欲張りすぎてはいけない」ということだ。「ギブ・アンド・テイク」の世の中、高額の放映権料をもらえば、それだけたくさんのものを要求され、スポーツの主体性は危機にさらされていくのだ。
(1996年11月11日)
ここ数年で「欧州チャンピオンズリーグ」に大変貌をもたらしたテレビマネーは、今季から主要国国内リーグへの参入を開始した。イタリアやイングランドでは「ペイパービュー」(番組ごとに視聴料を払う)でどれでも見たい試合が見られるサービスが始まり、莫大な放映権料がサッカー界に流れ込んでいる。
さらに国際サッカー連盟(FIFA)が、2002年と2006年のワールドカップの放映権をこれまでの10倍以上の金額で売り渡したことが、大きな衝撃を与えた。1998年大会まで約100億円だった放映権料が、2002年には1000億円を超すことになったのだ。
このような状況で、ドイツの民間放送会社の首脳たちがFIFAに大きな改革の提案をしたのは、当然の成り行きだった。
「試合をアイスホッケーのように3ピリオド制にして、10分間ずつの休憩を入れる。またはアメリカンフットボールのような4クォーター制を採用する」
狙いはもちろん、CMの時間を確保することだ。
日本では、多くの民放はゲーム進行中に平気でCMを入れるが、ヨーロッパではそんなことはできない。試合前後とハーフタイムに入れるほかはないのだ。
BS放送やケーブルテレビの急速な発達によってヨーロッパでもチャンネルが爆発的に増えた。そのなかで多くの局がサッカーの放映権を求めている。「売り手市場」で、放映権料は莫大な額になった。
だが、サッカーは45分間もCMを入れることができない。非常に「非民放的」なゲームといえる。放映権料に見合うCMを入れるには、試合方法そのものの改革以外にないというのが、ドイツ民放の見解なのだ。そうでないと、「ペイパービュー」以外ではサッカーを見られなくなってしまうと主張する。
これに対し、元ドイツ代表監督のベッケンバウアーは「今世紀最大のナンセンス」と非難する。「そんなことをしたらサッカーのスピーディーな魅力が殺されてしまう」というのだ。
FIFAのブラッター事務総長も、提案を完全に否定するとともに、FIFA自身が数年前から実験していた「タイムアウト」(前後半にいちどずつ、両チームの監督がとることができる)も、当面、正式採用の予定はないと語る。
図式としては、「スポーツ」が「テレビの横暴」をはね返した形だ。だが私は割り切れないものを感じざるをえない。ベッケンバウアーもブラッターも、「提案」そのものへの評価しか語らず、根本的な問題にはまったく触れていない。それは、「放映権料が高すぎる」ということだ。
「相手にとっても適切な額」を考えず、駆け引きだけで放映権料をつり上げた結果が、「通常のテレビ放映の危機」をもたらしている。現在の放映権料では、日本でいえばNHKにあたる「公共放送」はとっくに手が出せない額になっている。このままでは民放も早晩撤退し、チャンネンルをひねっただけではサッカーを見ることのできない時代になるのは必然なのだ。
日本では、サッカーはいまのところ視聴率が悪く、テレビからのプレッシャーはそれほどでもない。
だが、ドイツの今回の騒ぎは、大きな教訓を与えている。それは、「欲張りすぎてはいけない」ということだ。「ギブ・アンド・テイク」の世の中、高額の放映権料をもらえば、それだけたくさんのものを要求され、スポーツの主体性は危機にさらされていくのだ。
(1996年11月11日)
「黄色い階段」に最初に気づいたのは、92年にスウェーデンで開催された欧州選手権のときだった。
双眼鏡でバックスタンドのサポーター席を見ていると、「黄色い階段」が目についた。スタンドは色とりどりのシャツで埋まっている。そのなかに、階段が色鮮やかな黄色で浮き上がっていたのだ。
よく見ると、黄色いのは階段でだけではない。スタンドの通路も、全部同じ黄色に塗られている。
最初に気がついたのはエーテボリのスタジアムだったが、他の会場でもまったく同じだった。
「あれはね、ここでは観戦してはいけないという印なんですよ」
そう教えてくれたのは、大会のホスト国であるスウェーデンのオルソン専務理事だった。
「ヨーロッパでは、多くの国でこういう階段と通路のペインティングを採用していて、安全な試合運営にとても役立っています」
「重要なのは、どこの国でも同じ基準で、同じ色で塗ることです。国際試合や大会では、これはとくに重要なことなのです」
どこでも同じ「黄色い階段・通路」なら、言葉で注意を書かなくても、どういう場所かがわかる。観客は自分では気づかないうちにその「規制」を意識するようになる。
それだけではない。ヨーロッパのスタジアムでは、通常スタンドの最上部に設けられた場内監視ステーションが設けられている。階段と通路をはっきりと塗り分けておけば、そこからひと目で状況を確認できるという大きな利点がある。
10月16日に中米のグアテマラで起こった観客の圧死事故は、「スタジアムの安全性」について、改めて世界に問題を提起した。
どんなことがあってもサッカーの試合観戦のために80人を超す犠牲者など出してはならない。こうした事故を防ぐために、できるだけのことをしなければならないのだ。
日本では安全基準が厳しく、スタジアムでは通路や出入口は比較的広くとられている。だが、そうしてとられた「安全のためのスペース」が、規則どおりに使われているだろうか。
通路の手すりにもたれて観戦している人は少なくない。東京の国立競技場では入場者が4万5000人を超すと最後列の後ろの通路にぎっしりと人が並ぶ。
他のスタジアムでも、通路に立ったり階段に座っている観客を見る。「サポーター席」では、通路さえ見えなくなるほど、ぎっしりと立っている例もある。
ニカラグアでは、大量に発行された偽造チケットが最大の原因になった。定員を1万5000人も上回る6万人のファンがスタジアムに詰めかけ、狭い通路に殺到して起きた事故だった。
こんなことがなくても、火災や地震はいつでも起こりうる。そういうときにパニックを起こさずに観客を誘導することができるかどうかは、避難の通路をどれだけ確保できているかにかかっている。
「黄色い階段と通路」がそのために役に立たないだろうか。
スタジアムのすべての階段と通路を黄色く塗り、さらにそれを定期的に塗り直し、いつも色鮮やかにしておくのに、少しは経費が必要となるだろう。だが、ほんのわずかなことでスタジアムの「安全性」は大きく上がる。それは「ハードウェア」(スタジアム施設)というより、「ソフトウェア」(試合運営)に近い問題のように思う。
ヨーロッパのスタジアムの階段はなぜ黄色なのか。その理由に、「安全なスタジアム」へのひとつのカギが隠されている。
双眼鏡でバックスタンドのサポーター席を見ていると、「黄色い階段」が目についた。スタンドは色とりどりのシャツで埋まっている。そのなかに、階段が色鮮やかな黄色で浮き上がっていたのだ。
よく見ると、黄色いのは階段でだけではない。スタンドの通路も、全部同じ黄色に塗られている。
最初に気がついたのはエーテボリのスタジアムだったが、他の会場でもまったく同じだった。
「あれはね、ここでは観戦してはいけないという印なんですよ」
そう教えてくれたのは、大会のホスト国であるスウェーデンのオルソン専務理事だった。
「ヨーロッパでは、多くの国でこういう階段と通路のペインティングを採用していて、安全な試合運営にとても役立っています」
「重要なのは、どこの国でも同じ基準で、同じ色で塗ることです。国際試合や大会では、これはとくに重要なことなのです」
どこでも同じ「黄色い階段・通路」なら、言葉で注意を書かなくても、どういう場所かがわかる。観客は自分では気づかないうちにその「規制」を意識するようになる。
それだけではない。ヨーロッパのスタジアムでは、通常スタンドの最上部に設けられた場内監視ステーションが設けられている。階段と通路をはっきりと塗り分けておけば、そこからひと目で状況を確認できるという大きな利点がある。
10月16日に中米のグアテマラで起こった観客の圧死事故は、「スタジアムの安全性」について、改めて世界に問題を提起した。
どんなことがあってもサッカーの試合観戦のために80人を超す犠牲者など出してはならない。こうした事故を防ぐために、できるだけのことをしなければならないのだ。
日本では安全基準が厳しく、スタジアムでは通路や出入口は比較的広くとられている。だが、そうしてとられた「安全のためのスペース」が、規則どおりに使われているだろうか。
通路の手すりにもたれて観戦している人は少なくない。東京の国立競技場では入場者が4万5000人を超すと最後列の後ろの通路にぎっしりと人が並ぶ。
他のスタジアムでも、通路に立ったり階段に座っている観客を見る。「サポーター席」では、通路さえ見えなくなるほど、ぎっしりと立っている例もある。
ニカラグアでは、大量に発行された偽造チケットが最大の原因になった。定員を1万5000人も上回る6万人のファンがスタジアムに詰めかけ、狭い通路に殺到して起きた事故だった。
こんなことがなくても、火災や地震はいつでも起こりうる。そういうときにパニックを起こさずに観客を誘導することができるかどうかは、避難の通路をどれだけ確保できているかにかかっている。
「黄色い階段と通路」がそのために役に立たないだろうか。
スタジアムのすべての階段と通路を黄色く塗り、さらにそれを定期的に塗り直し、いつも色鮮やかにしておくのに、少しは経費が必要となるだろう。だが、ほんのわずかなことでスタジアムの「安全性」は大きく上がる。それは「ハードウェア」(スタジアム施設)というより、「ソフトウェア」(試合運営)に近い問題のように思う。
ヨーロッパのスタジアムの階段はなぜ黄色なのか。その理由に、「安全なスタジアム」へのひとつのカギが隠されている。
(1996年11月5日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。