「前園問題」はいつ決着がつくのだろうか。
横浜フリューゲルスと契約更改交渉が決裂した前園真聖選手(23)に対し、ヴェルディ川崎が獲得の意思を示しているが、「移籍金」がネックになって交渉は難航している。
日本サッカー協会(Jリーグではない)は「選手移籍規程」に基づき「移籍金算定基準」を定めている。規程の文言は非常にわかりにくいので、少し「翻訳」して紹介しよう。
「所属クラブとの契約が満了したプロ選手が、プロ選手として他のクラブに移籍するとき、契約満了後30カ月以内の移籍なら、移籍元のチームは移籍先チームに『算出基準』で算出される金額を上限とする移籍金を請求できる」(選手移籍規程第九条第四項)
「22歳以上25歳未満の選手の移籍金は、年俸の6倍である」(移籍金算出基準第三条第一項)
フリューゲルスが4億5000万円と伝えられる移籍金を要求するのは、これらの規程を根拠としている。ところがヴェルディは「出せても3億円程度」と、話がまとまらない。
Jリーグ誕生以前は、移籍は自由だった。1つの会社を辞職して同業他社に就職するようなものだったからだ。だから柱谷哲二選手(日産からヴェルディ)など大物の移籍もあった。
そのままでプロにしたら大混乱になると、移籍規程が整備されたのが92年。「算出基準」も、そのときに定められたものだ。
Jリーグ開幕の前年に作られた規程である。プロとして成功するかどうかまったく未知数の年。当然、年俸が現在のように高騰するとは、誰にも予想できなかった。だから六倍などという係数が生まれたのだ。
だがJリーグは1年目から成功を収め、年俸の伸びも予想を大きく上回った。当然、移籍金も莫大な額となり、以来、積極的な移籍はひとつもなかった。
ジェフ市原の城彰二選手の横浜マリノスへの移籍が決まるなど、時代は急速に変わりつつある。だが積極的な移籍を行おうと考えたとき、現行の基準は大きなネックとなっている。「前園事件」は、まさにその事例なのだ。
ところで、移籍金は通常どう決まるのだろうか。
ひとつは選手の「能力開発」にかけた費用の回収である。国際サッカー連盟も「移籍金」の正当性の根拠をここに置いている。
もうひとつの要素が「市場価格」だ。プロのサッカーが成熟したヨーロッパでは、選手の市場価格は妥当な範囲で決まっている。だがこれまで日本には「マーケット」がなかった。
契約更改交渉の経過で前園選手とフリューゲルスの間で大きなすれ違いがあったのは確かだ。どちらかの誠意が欠けていたのか、慣れないための不手際だったのか、あるいは誰かの「悪意」があったのか、それは定かではない。
しかしここまできたら、フリューゲルスはビジネスに徹し、移籍(商売)を成立させることに全力を注ぐべきだ。これまで前園選手にかけてきた費用、彼がチームになしてきた貢献、そして23歳のドメスティックなスター選手の適正な市場価格を、冷静に判断しなければならない。考えるべきことは、この移籍で得る資金をクラブの将来、チームの強化のためにどう役立てるかであるはずだ。
同時に、前園選手は、この移籍で移籍先のクラブに対してこれまで以上の大きな責任が生まれることを自覚しなければならない。
こうしてクラブや選手が移籍を積極的に考え、行動することは、日本のプロサッカーの成熟に大きなプラスになるはずだ。
(1997年1月27日)
正月の高校選手権を見て我が目を疑った。
笛の後、ボールが自分の足元にあっても、相手ボールだったら知らん顔をするなど当たり前。ファウルをすれば「ボールに行っている」と叫び、相手FKではボールからわずか3メートルのところに平気な顔をして壁をつくる。レフェリーに呼ばれて注意されれば「うるせーな」というようなゼスチャー。相手のタックルが当たってもいないのに大げさに吹っ飛んでPKを狙う選手もいる。
少年時代から磨き抜いた見事なテクニック、見事に訓練されたチームプレー、そして何よりも若々しく意欲的でひたむきなプレー。高校サッカーの良さ自体が失われたわけではない。だがその一方で、フェアプレー精神のかけらもない行為がはびこっているのだ。
「プロの真似だ。プロが悪いから、影響が高校サッカーにまで及んでいる」
その通り、その通り。
Jリーグにあこがれる少年たちは、そのすべてを真似しようとする。アンフェアな行為のすべてが、Jリーグの選手の真似と言っても過言ではない。だが、この正月に強く感じたのは、「それだけではない」ということだった。
高校の指導者たちは、いったい何を教えているのだろうか。選手たちがアンフェアな行為をしたときにどんな注意を与えてきたのだろうか。「Jリーグにも、真似していいことと悪いことがある」と、教えることは不可能だというのか。
指導者がしっかりとした理念をもち、こうした行為に断固たる態度をとっていれば、Jリーグの真似だろうとワールドカップだろうと、高校年代のサッカーからアンフェアな行為をなくすことは不可能ではない。プロに責任を押しつけるだけでいいはずがないのだ。
高校を含めた現在の青少年への指導の最も大きな欠陥、それは、フェアプレーの徹底を含め、「サッカーの本質」を教えていないことではないか。サッカーは「チームゲーム」である。その意味がしっかりと教えられているのだろうか。
「チーム」から切り離された「選手」は存在しえない。そしてまた、「相手チーム」のない「チーム」もありえない。「試合」が成り立たないからだ。サッカーの大事なことは、すべて「チームゲーム」であることからスタートする。
「相手」がなければ「試合」ができないのだから、ルールを守り、危険がないように、そしてまた互いに「サッカー仲間」として敬意を払い、気持ち良く試合をするためにフェアにプレーしなければならない。
同時に、「チーム」がなければ「選手」でもありえないのだから、個人記録や個人タイトルがいかに些細で意味のないものであるかを知るべきだ。
サッカーの歴史上、チームのためにプレーしない者が「名選手」と称賛されたことはない。「いい選手」とは、徹頭徹尾チームのためにプレーできる選手だけを指す。理由は簡単。サッカーが「チームゲーム」だからだ。
技術を教え、戦術トレーニングを施して判断力を高め、体力面を強化し、強い精神力を養うことは、サッカーの指導において欠くことのできない要素である。だが「サッカーとは何か」という「本質」を伝えられなければ、少年たちをサッカー選手として健全に発育させることはできない。
「自分の好きなポジションで好きなプレーができないのなら、チームが勝ってもうれしくない」
そんな発言をして恥じない若手選手が増えている。それが高校選手権のアンフェアな行為の横行と重なり合ってに見えるのは、私だけだろうか。
(1997年1月20日)
少年たちは一プレーごとに歓声を上げ、無邪気に喜んだ。年配者たちはじっと押し黙り、かみしめるように、そして「あの時代」を思い出すように、画面に見入った。ふだんはサッカーなど見ようとしない女性たちも、この日ばかりはテレビの前に座っていた。
昨年の12月25日、静かなクリスマスの午後。ハンガリー国民は国営放送MTVにクギ付けになっていた。53年にハンガリーがロンドンでイングランドを6−3で破った試合が、この日初めてフルタイム放映されたのだ。
1953年11月25日水曜日。前年のヘルシンキ・オリンピック優勝のハンガリーがロンドンのウェンブリー競技場でイングランドと対戦した。迎えるイングランドは、初めて出場した50年のワールドカップでアメリカに屈辱的な敗戦を喫したものの、いまだに「世界の帝王」だった。ウェンブリーでの国際試合での不敗記録は、もう30年間も続いていた。
だがハンガリーは立ち上がりから見事な攻撃を見せた。開始わずか1分でFWヒデクティが先制ゴール。イングランドも反撃し、15分に同点に追いつく。だがこの時点ですでにハンガリーとイングランドの力の差は歴然としていた。
ハンガリーはボールの魔術師の集まりだった。スピードとテクニックと強烈なシュート力を備えた選手が並び、しかもその選手たちが見事なチームプレーで結びつけられていたのだ。
前半のうちに4−2と差が開く。3点目は、天才FWプスカシュが右からのボールを右ポスト前で受け、目のくらむようなテクニックでイングランドのDFビリー・ライトを破り、左足でニアポスト側の天井にけり上げたものだった。
後半、15分までにハンガリーはさらに2点を追加し、その後の30分間は無理をせずテクニックの披露に費やした。ホームチームはPKで1点を返すのがやっと。スタンドを埋めた10万人のイングランド・ファンまでが、ハンガリーのプレーに感嘆し、最後には拍手を送った。
初めてウェンブリーでイングランドを倒したことだけではない。スコアだけでもない。流れるようなサッカーのすばらしさが、「マジック・マジャール(ハンガリー民族)」と絶賛されたのだ。
だが翌年のワールドカップ(54年スイス大会)では決勝戦で不運な敗戦(4年ぶりの敗戦だった)を喫し、さらに、56年にはソ連軍の侵攻によって選手たちはばらばらとなった。ハンガリーがふたたび「マジック」と呼ばれるチームをもつことはなかった。
「20世紀最高の試合」と呼ばれた53年のイングンド戦は、ハンガリー国民にとって大きな誇りにほかならなかった。だが、奇妙なことだが、国民の大多数は、この試合をフルで見たことはなかったのだ。
当時、イングランドではテレビ放送が始まっていたが、ハンガリーはラジオだけの時代だった。試合の数日後に20分間ほどのダイジェストが全国の映画館で放映され熱狂を呼んだが、それだけだった。今回のフルタイム放送は、この試合のテープの権利をもつ英国のBBC放送と、イングランド・サッカー協会の好意で実現したものだった。
43年も前のひとつの親善試合。その試合は国民の間で「伝説」のように語り継がれた。それがキックオフから終了までカットなしの映像としてテレビで国民に伝えられたとき、「伝説」は「国宝」となった。
ハンガリー国民は、英国政府からのどんな経済援助よりも、この粋な「クリスマス・プレゼント」に感謝したに違いない。
(1997年1月13日)
キャプテンの腕章を巻いたカズ(三浦知良)が高々とカップを掲げ、大きく顔をほころばせた。すばらしい笑顔だった。
毎年元日に行われる天皇杯決勝。しかしそれは「年始の試合」というより、1シーズンの「しめくくり」の試合である。そしてまさに、ふさわしい男の手にカップは握られていた。
「カズの96年」は苦しいシーズンだった。
Jリーグ開幕とともに襲ったヴェルディの不振。5月のキリンカップでは右ヒザを負傷し、その痛みがずっとカズを苦しめた。強いキックができず、シュートのタイミングを逃したことも何度もあった。
7月、オリンピック代表がブラジルを破る歴史的な快挙。マスコミは若い世代の台頭に沸き、カズらベテランの影は薄くなった。
だがJリーグの終盤、ヴェルディ優勝の可能性がゼロになったとき、逆にカズの闘志は燃え上がった。割り切って「ゴール」に集中し、四試合で7得点をマーク。大逆転で得点王の座を獲得したのだ。
12月、カズはアラブ首長国連邦のオアシスの町、アルアインにいた。アジアカップを防衛するためだった。だが結局日本代表は準々決勝で敗退。カズもヘディングによる1得点に止まった。チーム全体の出来が悪く、サポートが遅かったため、カズは相手の乱暴なタックルにさらされた。
「気持ちで負けてしまったのが悔しい」
カズは厳しい口調でそう語って日本に戻った。
そして天皇杯。ヴェルディは見事に復活し、レベルの高いチームプレーで優勝を飾った。驚いたのは、カズの献身的な動きだった。攻撃のときの労を惜しまぬ動きはこれまでどおりだった。しかしこの大会では、相手ボールになったときに一瞬も休むことなく守備のポジションにはいり、激しく相手を追い詰めるカズが見られた。その動きが若いヴェルディを一体化させ、優勝に導いたのだ。
その日、カズは気負うところなくこう話した。
「アジアカップでは、自分自身も何か足りないと感じた。それをグラウンドで表現したいと思って天皇杯に臨んだんです」
「FWでも、追いかけ、スライディングし、不格好でもヘディングでくらいつき、『ケツを汚して』サッカーしなければならない。アラブに気持ちで負けた。激しさで負けた。けど次にやるときには負けないようにしようでは絶対にダメ。日本でも、練習やJリーグなど日常からそういうプレーをしていかなければ、急にはできないんです」
カズはことし2月に30歳の誕生日を迎える。だが不安はないと言う。
「プレースタイルは変わっていくかもしれない。でも精神的にしっかりしていれば、これからも伸びていけると思います」
実は、カズの右ヒザは、普通だったら何カ月も試合を休まなければならないほどの負傷だった。だがカズは「プレーしながら治す」と出場し続け、ヴェルディでも日本代表でもチームの先頭に立って体を張ったプレーを見せてきた。
96年は「苦しいシーズン」だった。それだけに、私はカズの本当の価値を見た気がした。
カズはがんばった。努力を続け、戦い抜いた。えらいぞ、カズ!
ヴェルディの天皇杯優勝は、サッカーの神様がそんなカズのがんばりをしっかりと見ていてくれたようでうれしかった。
九七年、カズの最大の目標であり、日本の全サッカーファンの夢であるワールドカップ出場を目指す戦いの年。カズのがんばりが、きっと「フランス」に導いてくれるに違いない。
(1997年1月6日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。