酷暑のなか、1日おきに3試合というハードスケジュールだったワールドカップ・アジア予選オマーン・ラウンド。日本はほとんど選手を代えずに戦ったが、最後までプレスが効き、動きが落ちなかった。
日本代表は3月8日に成田を発ち、シンガポール、タイで調整して16日にマスカットにはいった。バンコクではタイ代表に1−3で敗れるなど疲労の極にあったが、マスカット入りしてから日に日に調子が上がり、初戦、対オマーンの前日にはすばらしいコンディションに仕上がっていた。
「フラビオ・コーチのおかげです」
初戦の前日の練習が終わった後、加茂周監督は選手たちに動きの良さをこう話した。
加茂監督就任以来「フィジカルコーチ」としてコディショニングを担当しているルイス・フラビオ・コーチ(47)こそ、マスカットの3試合を万全のコンディションで乗り切ることができた最大の功労者であり、フランス・ワールドカップに向けて重要な役割を担うキーマンなのだ。
日本のサッカーでは、チームの体力面の準備をするのはコーチの役割というのが10年ほど前までの常識だった。だがブラジルを中心とした南米では、早くから「フィジカルコーチ」が技術や戦術の練習を担当する「コーチ」とは別の専門職となっていた。そして89年、オスカーが日産の監督に就任してきたときにブラジルからマフェイという専門家を呼んだのが、日本の「フィジカルコーチ」の始まりだった。
ブラジルは58年、62年とワールドカップで連覇を遂げた。その原動力は、ペレ、ガリンシャといった「ボールの芸術家」たちのきらめくようなテクニックだった。だが66年大会はグループリーグで敗退。敗因をパワーをはじめとした体力不足であると分析したブラジル協会は、徹底した体力トレーニングで代表チームを鍛えることにした。
「やり始めたら徹底的」がブラジル流。あるいは、「世界のサッカー王国」の自負だったのだろうか。サッカーではなくトレーニングの専門家をアメリカに派遣し、NASAの宇宙飛行士養成プログラムまで導入して、サッカー用のフィジカルトレーニングプランをつくったのだ。
その効果はすばらしかった。70年大会、ブラジルは6戦全勝で文句なく「世界チャンピオン」に返り咲いた。ペレらの技巧が、卓越したフィジカル・コンディションに支えられ、「理想のチーム」と称賛される優勝だった。
フラビオ・コーチはそうした流れをくむブラジルの超一流のフィジカルコーチである。91年に読売クラブに呼ばれて来日、読売を日本リーグ最終シーズン優勝に導き、その後の「ヴェルディ黄金時代」の影の支え役となった。そして95年からは、加茂監督にとってなくてはならない存在になっているのだ。
昨年2月、日本代表のオーストラリア合宿を見た。合宿の目的は攻撃戦術の練習だった。だが初日は加茂監督は何もせず、すべてのプログラムをフラビオ・コーチが指揮した。ボールを使いながら、あるいはゲーム的要素を入れながら、実際にはハードな体力トレーニングを進めていく手腕には、思わず拍手を送りたくなった。
だが驚くのは早かった。翌日、加茂監督が指揮する練習が始まると、前日のトレーニングで要求された身のこなし、走り方などがすべて生かされていることがわかるのだ。
「これがプロの仕事か」と、感嘆せずにはいられなかった。
オマーン戦の前夜、散歩しているフラビオ・コーチに出会った。選手のコンディションを聞くと、自信にあふれた表情と、やや高めのハスキーな声で日本語の答が返ってきた。
「ひゃくパーセント」
このとき私は、3試合の勝利を確信した。
(1997年3月31日)
3月8日、鳥栖スタジアムからのニュースが映し出したのは、ピンクのシャツを着たサポーターたちの元気な姿だった。ナビスコ杯開幕戦で浦和レッズを迎えた「サガン鳥栖」は、彼らの声援に支えられ、強豪レッズと0−0の引き分けに持ち込んだ。
「サポーターがとまどっているんですよ」
鳥栖に取材にいってきた友人からこんな話を聞いたのは、2月のおわりごろのことだった。
運営会社の解散で「鳥栖フューチャーズ」は消滅したが、地元佐賀県協会の熱意と日本サッカー協会やJリーグの理解でJFLの地位を引き継いだ「サガン鳥栖」。だが、「超法規的措置」で参加が決まったナビスコ杯のチケットは、1試合平均1000枚しか売れていなかった。
「地元のサポーターたちが望んだのは、あくまで鳥栖フューチャーズの存続。応援の旗も、レプリカのユニホームも、ピンクのフューチャーズのものしかもっていない。しかしフューチャーズはなくなり、サガンという新しいチームができた。選手の大半が変わり、クラブカラーもまったく違う。はいそうですかと、新しいチームを応援するとはいいにくいんですよ」
友人は、鳥栖のサポーターたちの心情をそう説明してくれた。
セレッソの楚輪博前監督が、ドイツ留学の予定をキャンセルして監督を引き受け、選手も一応そろってシーズンにはいる態勢ができた。Jリーグからも応援の役員がかけつけ、地元企業の温かな支援も出てきた。だが、肝心の市民はなかなか熱くならなかった。それは、友人が取材してきたサポーターたちの心情を、新クラブが察することができなかったことも一因になっていたはずだ。
だが、3月8日の鳥栖スタジアムには7021人がはいり、大いに盛り上がった。最後の一週間で、ファンも気持ちに整理をつけたのだ。サポーターがピンクのユニホームのままで「サガン」の応援をしたところに、それが現れていた。
この出来事は、Jリーグの全クラブに貴重な示唆を与えている。「ファンやサポーターの気持ちを理解した運営」が、いかに大事かということだ。
昨年から観客減、チケット販売の不振が顕著になったJリーグ。各クラブは今季に向けて多種多様なアイデアを出してきた。
だが、その根底に「ファンやサポーターの心情」への理解はあるだろうか。どうしたらチケットを買ってもらえるか、どうしたらスタジアムに来てもらえるかを考えるとき、彼らが本当は何を望んでいるかという点からスタートしただろうか。
運営本部に居すわるのではなく、観客席に座って、あるいはサポータースタンドに立って、試合を見たことはあるだろうか。
(1997年3月24日)
「何年かたったら、かならず記録というのは失われます。最初からアニュアルレポートはつくっていかなければならない。そしてきちっと残していくことが大事ですよ」
1965年、日本サッカーリーグ(JSL)の最初のシーズン。初代総務主事(Jリーグでいえばチェアマン)の西村章一さんを相手にこう力説したのは、当時読売新聞の記者だった牛木素吉郎さんである。
この助言を受けて、JSLは翌年から「年鑑」を発行する。前年の記録を網羅し、新しいシーズンの顔ぶれを掲載する。世界のどこにもある「イヤーブック」のJSL版だった。
以来、日本サッカーのトップリーグの記録は、公式の出版物としてきちんと残されてきた。それが、このプロの時代になって切れるとは、想像を絶する出来事ではないか。
Jリーグは公式スポンサーになっていた大手出版社に「オフィシャルガイドブック」出版の権利を与え、Jリーグ自身で監修にあたっている。その出版社はシーズン後には「ガイド」とは別に「公式記録集」を発行し、全試合の記録と、チームごとに集計した出場リストなどを掲載してきた。
だが、96年Jリーグの「公式記録集」はついに出ずじまいだった。こうした地味な本は大量には売れない。採算がとれないからつくらない。商業出版社の当然の姿勢である。出版社とJリーグは、97年のガイドブックに公式記録を入れることにしたのだ。
ところが、今月上旬に発行された「ガイドブック」では、「記録」の部分はチーム別出場リストを中心としたもの。最も基本的な試合ごとの「記録」が、どこにも載っていないのだ。
もちろん、対戦チームの出場リストを合わせればある程度「試合記録」を組み立てることはできる。だが一昨年までの「記録集」にあった個々の選手のシュート数、チームごとのゴールキック、CK、FK数、そして副審名などは探すことはできない。
こうした事態が起こるのは、「歴史意識」の欠如にほかならない。当事者がそのときどきできちんと記録を残していくことによってのみ、正確な「歴史」がつくられる。どこかでその仕事を省略してしまったら、その間の出来事は永遠に失われてしまうのだ。
毎日毎日処理しなければならない問題が山積している。それを片づけることで手一杯だ。Jリーグのスタッフはそう言うかもしれない。それには同情する。しかし、こうした仕事にたずさわっている者が「歴史意識」を忘れるなら、現在の仕事の判断基準も怪しいものとなる。
このままでは、10年後、あるいは50年後、だれかが1996年のある試合の内容を知ろうとしても、信頼に足る公式の記録は存在しないことになる。
「Jリーグ・データセンターから全記録を取り出すことができる」と言うかもしれない。だがそれは有料サービスで、しかも本一冊とは比較にならない対価を必要とする。けっして「一般に開かれた情報」とはいえない。
「Jリーグは自己の存在を否定してしまった」
あるジャーナリストは、今回の「記録喪失」をそう断言する。きつい表現ではあるが、私はそれに反論することはできない。
1965年から30余年にわたって続けられてきた日本のトップリーグの記録の出版。それをここで切るという積極的な意図でないのなら、いまから制作にかかっても遅くはない。読者は目先のファンだけではない。「歴史」という気長な相手だからだ。
(1997年3月24日)
長い戦いが始まる。
98年フランス・ワールドカップを目指すアジア予選。その「一次予選」で日本が属する第4組が、次の日曜、23日にオマーンで始まる。最終予選終了は11月8日。場合によっては11月末までかかる8カ月間のロングランだ。
加茂周監督率いる日本代表チームは、すでに8日に日本をたち、シンガポールとタイで暑さに慣れるトレーニングと試合を重ねながら昨日オマーン入りした。23日に対オマーン、25日に対マカオ、そして27日に対ネパールと続く「オマーン・ラウンド」3連戦。6月の「日本ラウンド」との通算成績で10月に予定されている「最終予選」への出場一チームを決定する。フランスへの「第一関門」だ。
昨年のアジアカップ準々決勝敗退以来、日本代表の準備状況を心配する声が高い。カウンターアタックに対する守備ラインの不安、中盤でプレスをかけるディフェンスへの不信、攻撃パターンの少なさ、バックアップ選手の層の薄さ。数えきれないほどの「弱点」が挙げられている。
だが、4年前を思い出すと、似たような状況だったことがわかる。イタリアでの合宿はまったくリズムが出なかった。準備試合のキリンカップでも攻撃に切れがなかった。そして迎えた一次予選では、初戦のタイに大苦戦したが、次第に調子を上げ、強敵UAE戦には最高の試合で勝利を飾ることができた。
4年前と最も違うのは、「周囲の熱気」にほかならない。
93年3月、日本のサッカーは「Jリーグ前夜」の熱気に包まれていた。テレビや雑誌など、メディアというメディアがすべてサッカーに大きな関心を示し、膨大な情報を視聴者や読者に提供した。「国民的」といっていい関心のなか、ハンス・オフト監督の日本代表は予選を迎えたのだ。
4年後のいま、サッカーの周囲には熱気はない。視聴率の低さ、空席が目立つJリーグのスタジアム。そして日本代表の報道をするメディアのシニカルな姿勢がそれを助長する。
だが、4年前と比べて、果して日本は弱くなっているのだろうか。そうではない、と私は思う。現在の日本代表は、技術、戦術、体力、選手層、経験と、あらゆる面で4年前のチームを上回る実力を備えている。当然、ライバルたちの実力も上がっているが、日本ほどではない。
4年前、日本は「ワールドカップ出場」の座に完全に手を届かせながら、最後の瞬間につかみ損ねた。だがそれは選手や監督の「失敗」ではなかった。日本サッカーの国際舞台での経験のなさが原因だったのだ。
そして今回、その「ドーハの悲劇」の経験こそ、日本代表の最大の「財産」にほかならない。あのときチームにいた選手たちだけでなく、日本サッカー全体が得た貴重な「経験」だったからだ。
加茂監督が就任して2年余り。「智将」は周到な計画のもと準備を積み重ね、20人の精鋭を引き連れて「戦いの地」マスカットに乗り込んだ。すでに「賽は投げられた」のだ。
11月までの戦いを視野に入れつつも、日本代表はいま、初戦の対オマーンを最高のコンディションで戦うべく最終調整を続けているはずだ。それが「一次予選の50%」といっていい重要な試合だからだ。
自分たちのサッカーを信じ、やり抜くこと。「チャレンジャー」の気持ちを忘れないこと。
それ以外に言うことはない。いまはただ、「がんばれ!」と、心から応援するだけだ。
(1997年3月17日)
2月中旬、日本代表取材でバンコクにいたときに、ワールドカップ・ヨーロッパ予選「イングランド×イタリア」のテレビ中継を見た。98年フランス大会を目指す予選のなかでも、最も注目されるカードだ。
試合はイタリアが前半にあげたゴールを守りきり、1−0で勝利を収めた。後半、イングランドが猛攻をかけ、押されっぱなしの展開になったが、イタリアの選手たちは最後まで冷静さを失わず、タフな神経で戦い抜いた。壮絶な戦いは、「予選」の厳しさをまざまざと見せつけた。
だが何より印象的だったのは、この「生か死か」というような試合が、非常にクリーンでフェアだったことだ。94年ワールドカップ決勝主審プール氏(ハンガリー)は、この夜のウェンブリー・スタジアムで、一枚のカードも出す必要がなかった。見る者に心からの感動を与えた最大の理由は、そこにあった。
3月を迎え、日本のサッカーシーズンが開幕する。Jリーグでは、今季は「大物」と呼べる外国人選手の補強はない。だがそれだけに、チームのために全力で戦う本物のプロフェッショナルばかりと期待したい。そして何よりも、日本の若い選手たちが力を伸ばし、リーグを盛り上げる活躍を見せてほしいと思う。
だが今季のJリーグに最も期待したいのは、「激しくて、しかもフェアな」ゲームだ。
Jリーグのテレビ視聴率は一昨年から大きく落ちている。その落ちた分には、Jリーグの「きたない」プレーに嫌気がさした人が少なくないはずだ。とくに最近になって初めてサッカーという競技を見た人では、その率が高いだろう。
ずっとサッカーを見てきた人には何でもない行為、あるいはサッカーをやっている人が「戦術的行為」とさえ思っているプレーが、このような人にはひどくきたないと映っているのだ。
一対一で負けそうになったときに相手のシャツやパンツをつかむ。FKのときに規程の距離まで離れようとしない。相手のFKやスローインになったときになかなかボールを渡さない。FKやPKをもらおうと、当たられてもいないのに派手に吹き飛んで見せる。何よりも、主審や副審の判定に異議を唱える。
どんなに高いテクニックとチームプレーでスピードあふれる試合を見せても、どんなに見事なゴールシーンがあっても、その間にこんな行為を見せられたら、心ある人が嫌気がさすのは当然だ。
観客数が大きく落ち込んだJリーグの各クラブは、今季、まさに「あの手この手」で入場券を買ってもらおうと努力している。だがスタンドにファンを呼び、テレビ中継の視聴者を増やすの何よりも肝心なのは、「ゲームで感動を与える」ことだ。それには「フェアプレー」が欠くことのできない要素なのだ。
フェアプレーを実現するのは、選手たちの自覚と、それを引き出すチームの姿勢にほかならない。それはサンフレッチェ広島の例を見れば明白だ。
S・バクスター監督が率いた94年まで、サンフレッチェは他を大きく引き離してイエローカードの少ないチームだった。だが95年に監督が代わると、他のチームとまったく変わらない数字になった。一方、バクスター監督を迎えたヴィッセル神戸は、昨年JFLで「J昇格」をかけた激戦を続けながらイエローカードの最少記録をつくった。
激しさを忘れてはならない。だがその上にフェアなプレーで本物の感動を与えることができるか。今季だけでなく、Jリーグの未来がそこにかかっている。
(1997年3月3日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。