97年の実質的な「日本チャンピオン」を決めるJリーグのチャンピオンシップ。その勝負をつけたのが「ゴン」中山雅史(ジュビロ磐田)のゴールだったのは、この波乱に富んだ1年を見事に象徴していた。
ワールドカップ予選以降の中山のプレーには、鬼気迫るものが感じられた。1−5で完敗したナビスコ杯決勝でも、冷静さを失ったジュビロ選手たちのなか、中山だけは最後の1分まで集中し、役割を100パーセント果たした。
この試合のジュビロの1点は、左サイドを突破した中山のパスを若い清水が決めたものだった。そのときのドリブル突破と冷静なパスは、技術、判断力などサッカープレーヤーとしての能力のすべてを、中山が短期間のうちにこれまでにないレベルに高めたことを表していた。
Jリーグチャンピオンシップの2試合でも、中山はすべての動き、すべてのプレーに自分の「刻印」を押し続けた。3つのゴールだけでなく、ピッチにはいってから更衣室に引っ込むまですべての瞬間に、「ゴンがいる」ことを示した。それは、サッカープレーヤーとしてひとつの「理想像」のように見えた。
チームゲームでしかありえないサッカー。ひとりの天才選手も、11人の団結には太刀打ちはできないのがサッカーだ。
しかしそれは、選手たちに「ロボット」になることを強いるわけではない。監督やコーチのプログラムどおりに動くだけでは、「いい選手」にはなれても、けっして「素晴らしい選手」と呼ばれることはない。
なぜか。それは、サッカーというチームゲームが、同時に、「自己表現」を強く要求しているからだ。
サッカーが世界中でこれほど多くの少年たちの心をとらえているのは、おそらく、それが自分の情熱を表現する最高の手段だからに違いない。ゲームのなかで自分をさらけ出し、表現することを求められているのがサッカーなのだ。
そして、自己をフルに表現することによって仲間を勇気づけ、チームを勝利に導く能力をもった者だけが「素晴らしい選手」と称賛される。
自分をさらけ出す以上、サッカーは「全人格」を問われるスポーツと言わねばならない。人間として成長し、自らの壁を乗り越え続けていくことが、選手としての成長につながる。だからこそ、中山のように「理想像」に近づいた選手たちのプレーが、あれほど感動的なのだ。
97年の日本代表には、中山のほかに何人もの「素晴らしい選手」がいた。
ディフェンダーとして新境地を開いた秋田豊(鹿島アントラーズ)。自らのキャプテン像をつくり上げた井原正巳(横浜マリノス)。短時間に自己を表現し尽くした北沢豪(ヴェルディ川崎)。そしてすべての責任を引き受けて相手に毅然と立ち向かい、けっして逃げることのなかった三浦知良(ヴェルディ川崎)。
どの選手も、自らの情熱を余すところなくプレーに投影させた。チームプレーに徹するなかで、見事に自己を表現してみせた。
1997年は、ワールドカップ出場を決定し、日本サッカーにとって喜びに満ちた年となった。
しかしそれ以上にうれしかったのは、中田英寿(ベルマーレ平塚)という若いタレントが大きく力をつけたこと、そして、何人もの日本代表選手がピッチの上で素晴らしい人間性を表現し、選手の「理想像」に近づいたことだった。
Jリーグにとっては苦痛に満ちた年だった。しかし日本サッカーにとっては豊かな実りの年だった。
(1997年12月22日)
ワールドカップ決勝大会の組分けが決まった。
「アルゼンチンとクロアチアは同レベルのチーム。日本のグループリーグ突破は簡単ではない」
私はこう考えている。
だが、どんな相手とやるにしても、日本チーム自体の準備が万全でなければ成功はおぼつかない。その点で非常に気がかりなことがある。矛盾をかかえる「強化委員会」のあり方だ。
日本サッカー協会の組織のなかで、代表チームの活動の支援などをするのが強化委員会だ。代表チームが最大限に力を発揮できるようサポートすると同時に、チームと協会の橋渡し役を負わされている。
だが、10月の加茂前監督更迭以来、強化委員会と代表チームの関係は必ずしもいい形ではない。というより、「危機的状況」にあると言ったほうがいい。
あのとき、「監督交代」の記者会見に出席した大仁邦彌強化委員長は、3月の「オマーン・ラウンド」からの加茂前監督の采配に対する「評価」をメディアの前で語った。この瞬間に、強化委員会と代表チームの関係は大きく変わった。少なくとも、代表チーム側はそう受け取ったはずだ。
96年4月にスタートした「大仁強化委員会」は、代表チームに対しては常にサポートする立場であることを標榜してきた。この強化委員会の仕事をないがしろにする面が、加茂前監督にあったのは事実だ。だがそれでも、代表チームにとって強化委員会は「味方」のはずだった。
ところが10月4日のアルマトイで、強化委員会が監督の仕事を「査定」しているという印象が強まった。選手やスタッフが、それを「裏切り」と見たとしても不思議ではない。
予選を終えてフランスで日本を率いる監督を決めるときにも、大仁委員長は岡田監督に対する「評価」をメディアに語った。
加茂前監督に対する「査定」も、岡田監督に対する「評価」も、根本は変わらない。強化委員会が「サポート役」であるだけでなく「採点役」であるという点だ。このふたつは、本来並び立つことのできないもののはずだ。
その矛盾は、中学教師のジレンマに似ている。
教師は生徒にとって指導者であり、味方のはずだ。道を教え、正しい方向に導く人物である。しかし一方で、内申書という形で第三者にその生徒の評価を伝えなければならない。それが教師と生徒の信頼関係に大きな影を落としている。
この問題の別の側面、そして非常に重要なポイントが、長沼健・日本サッカー協会会長にある。代表監督の人事は理事会とその長である会長の権限であり、責任でもある。だが会長は、その責任をあいまいにし、「独断ではない」ことを強調するために大仁委員長をメディアの前に引き出し、語らせてきたからだ。
だが、とにかく、現在の強化委員会が構造的にもつ矛盾が明らかになり、代表チームと強化委員会の間に大きな溝ができてしまったのは確かだ。
半年後に迫ったワールドカップ。最善の準備をして臨まなければ、元も子もないことになる。そうならないために、代表チームへの「サポート態勢」を万全にしなければならない。
会長、理事会に判断材料を提供するために代表チームや監督の「評価」をする仕事が必要であれば、それは「強化委員会」からは切り離すべきだ。委員会の役割を明確にし、代表チームに示して、「味方」であることを納得させることができなければ、日本代表は孤立無援の思いでフランスでの戦いに挑まなければならなくなる。
(1997年12月8日)
そのとき、写真家の今井恭司さん(51)は川口の背中、イランが攻めてくるゴール裏にいた。岡野の「ワールドカップ決定ゴール」を撮ったのは、若いスタッフカメラマンだった。
「延長にはいるとき、どう転んでもいいようにと、2人で分かれて撮ることにした。ずっと勝てなかったから、どこかに負けグセがついていたんですかね」
苦笑いしながら、今井さんは残念そうに語る。
「ずっと勝てなかった」。今回の最終予選のことではない。今井さんが日本のサッカーとともに過ごした四半世紀のことだ。
今井さんが初めてサッカーを撮ったのは72年、あのペレが初めて日本の芝を踏んだときだった。「サッカーマガジン」の編集者だった橋本文夫さんに「人手が足りないから手伝って」と頼まれたのだ。
東京写真大学を出て広告写真家の内弟子となり、スタジオカメラマンを目指していた今井さんは、軽い気持ちで引き受けた。
だが今井さんの人柄と丁寧な仕事ぶりを認めた橋本さんは、次々と仕事を依頼し、数年後には「カメラマン兼記者」として単身外国に送り出す。中東や東南アジアに日本のチームを追って写真を撮り、記事を書いて航空貨物で送るハードな仕事だった。
76年6月に日本ユース代表が初めてヨーロッパに遠征、今井さんは日本から唯一の同行記者だった。そのチームに、初選出、19歳の岡田武史がいた。
目立たないがしっかりと自分を持ち、誰にも迎合しない岡田に、今井さんは何度も感心したという。
だがサッカーの取材で日本中、世界中を飛び回っても、それだけで家族を養うことはできなかった。日本サッカーの「冬」の時代。雑誌も部数が伸びず、予算は限られていた。
自然に、今井さんの「仕事」の中心は別の方面に移っていった。自分でスタジオをもち、会社組織にしていろいろな写真を撮った。80年代にはサッカーは仕事のほんの一部となった。だが、サッカーから離れることはできなかった。
日本リーグの試合日に、「どうせ売れっこないんだから」と休んだことがあった。しかし試合の時間が近づくと、そわそわして、かえって疲れた。見かねた妻の三千代さんから、「そんなだったら、行けばいいのに」と言われた。
そうして、今井さんは盛り上がらない日本サッカーと、「勝てない」日本代表チームを撮り続けた。サッカー協会から無理な注文を受けても、何も言わずいつもの笑顔で引き受けた。
20年間近くのサッカーとのつきあいが突然収入に結びついたのは90年代になってから。Jリーグの誕生とともに「サッカーの写真なら今井さん」という評価が固まり、サッカーに忙殺される毎日となった。
だが、「今度こそ」と期待したドーハで、日本はまたも苦杯をなめた。
肩を落とす若い記者たちを、今井さんはこう声をかけながら慰めた。
「僕なんか20年以上も負けるのを見続けてきたんだから」
取材を始めてから25年、今井さんはついに日本が勝つのを見た。
歴史的な岡野のゴールを撮り逃がした「消化不良」の気持ちを抱きつつ、脳裏によぎったのは、負け続けた日本代表、ガラガラのスタジアムでも懸命にプレーしていた日本リーグの選手たちのことだった。
自分のファインダーの中を駆け抜けていった無数の選手たち。彼らの情熱が自分をここまで引っぱってきたことを思ったとき、今井さんは胸が熱くなるのを抑えることができなかった。
(1997年12月1日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。