ジャマイカが1月早々からブラジルでの長期合宿にはいった。韓国も1月5日に合宿を開始、4月には3週間のヨーロッパ遠征をする予定だという。
それに対し、日本は2月8日までチームとしての活動はなく、それから約1カ月間の活動後に解散、4月1日の韓国戦(ソウル)をはさんで次に集まるのは5月10日過ぎ、ワールドカップ開幕の1カ月前となる。
この計画に、「初出場なのに、これでいいのか」という声が上がっている。
「ワールドカップを甘く見ているんじゃないか。こんな準備では、勝ち点どころか、大敗を喫するぞ」
そう言う人も多い。
何事につけ、「準備」は成功への最大のカギだ。いい準備をした者だけが、成功をつかむことができる。ましてワールドカップである。日本チームが最善の準備をしても勝てるという保証はない。
しかし、現在の日本サッカーでは、ジャマイカや韓国のような強化スケジュールを組むことはできない。Jリーグがあり、選手たちはそこで生計を立てているからだ。
「クラブと代表」の争いは、サッカー界では古くて新しい問題だ。1930年に行われた第1回ワールドカップに、多くのヨーロッパの国が参加を見合わせたのは、選手の所属クラブがそんなに長期間、しかも大西洋のかなたに選手を出すのを渋ったからだった。
そして昨年の暮れには、サウジアラビアで行われたコンフェデレーションズカップ(各大陸のチャンピオンによる大会)にブラジル代表選手を供出しなければならなかったスペインやイタリアのクラブから大きな不満が出て問題になった。
世界のサッカーの基盤は「クラブ」にある。サッカー選手たちはそこで育ち、そこでプレーし、そこで生きている。代表チームというのは、あくまでも臨時の選抜チームにすぎない。
もちろん、代表チームの活躍が国内のサッカーを活気づかせ、クラブに恩恵を与えることもある。しかし代表チームがなくてもサッカーは続き、サッカー選手はプロとしてやっていくことができるが、クラブがなければ選手たちは生活の場を失い、代表チームを組織することもできなくなるのだ。どちらが「ベース」であるかは明白だ。
求められるのは、成熟した「バランス」である。クラブが選手をフルに使ってしっかりと活動でき、しかも代表チームもチームづくりを進めるトレーニングや試合をこなすことができる年間スケジュールを、代表チームを組織するサッカー協会と、クラブを統括するリーグ組織が、しっかり調整しなければならない。
97年後半のJリーグは国際サッカー連盟がアジア最終予選の方式を理不尽に変更したため大きな打撃を受けた。日本代表選手たちがワールドカップ予選突破という快挙を成し遂げながら所属クラブで年俸のダウンを受け入れなければならなかったのは、それが少なからず影響している。
いい準備をするために、理想をいえばきりがない。しかしワールドカップの準備のためにクラブにこれ以上の犠牲を強いることはできない。ぎりぎりのところの判断が、今回の準備日程だったのだと思う。
「現状の日本サッカーのなかで戦っていく以外に道はない。Jリーグの経営状態など、総合的に考えて、協会の強化部門が代表の日程を決めたはずだ。そのなかで結果を出すのが私の仕事だと思う」
メンバー発表の記者会見でそう語った岡田監督のプロフェッショナルな決意の意味を、私たちは理解しなければならない。
(1998年1月26日)
賀川浩さんは、私たちサッカージャーナリストにとって、「あこがれ」の大先輩のひとりだ。
1924年生まれ73歳。大阪サンケイスポーツでスポーツ記者として活動しながら、サッカー専門誌などに記事を書いてきた。社会や文化的な背景を盛り込んだ世界各国のサッカーの紹介記事、サッカーへの温かみあふれる文章に触発されて、サッカー記者を目指した人も少なくない。
学徒動員で特攻隊となりながら出撃直前に終戦を迎え、奇跡的に帰国した賀川さんが、とんでもない災難に見舞われたのは、3年前、1995年の1月17日未明のことだった。芦屋市の仕事場で、徹夜の原稿書きの手を休めたとき、あの大地震が襲ってきたのだ。
まさに「九死に一生」だった。この仕事場は、膨大な資料を整理しようと、書庫兼事務所として借りたマンションだったが、一瞬にして建物が崩壊し、資料の山が崩れた。5分前と同じように机に向かっていたら危なかっただろう。
その賀川さんが、「震災3周年」の先週土曜にインターネットのホームページ「KAGAWAサッカーライブラリー」を開いた。
本当は、コレクションや資料を集めた「ミュージアム」をつくろうと考えていた。次の世代が知的資産として自由に使えるものを残しておこうと思ったのだ。だが大震災がその貴重な資料の3分の2と、賀川さんの計画を奪った。
しかしその後、関西の有志で「サッカーボーイ」というホームページを運営する若者たちと出会った。いつものようにサッカー談義に花を咲かせているうちに「賀川さんのホームページをつくろう」という話になった。そこで賀川さんが思いついたのが、これまであちこちの雑誌に書いた記事を「ライブラリー」としてまとめることだった。
書籍やコレクションなど、物を手にとって見ることのできる「ミュージアム」ではなかった。だが賀川さんが丹念に資料をあたって書き続けてきた各国のサッカー史やその社会的な背景などを、必要に応じて読んでもらうことができる。
インターネットが大きな話題になったのは2年前。だがいまでは「ブーム」の時期を過ぎ、しっかりと日常生活に根づいている。そして、世界中の情報をいち早く取ることができる、誰でも自分の考えを自由に発表できるなどの利点をもつインターネットは、国際的な広がりをもつサッカーではとくに利用価値のあるメディアとなった。
FIFA(国際サッカー連盟)のホームページで、それまで一部の人しか読むことができなかったFIFAの資料に直接はいっていくことができるようになった。それは、「開かれた組織」としてのFIFAの活動への理解を深めるのに大きな働きをしている。
実は私も、「サッカークリック」というインターネットの番組に自分のコーナーをもっている。昨年のワールドカップ最終予選時には、月間の「ヒット」数が340万にもなった。
だが賀川さんの「ライブラリー」はひと味もふた味も違う。ただ情報を生産して流し続けるのではなく、賀川さんが原稿用紙に向かって心血を注いできた心豊かな「サッカー国」の旅を、サッカーに関心をもつ人すべてが、雑誌の発行時期に縛られることなく楽しむことができるのだ。それはたしかに、賀川さんの後ろを歩く世代、そしてこれからくる世代に、立派な「知的資産」となるだろう。
賀川さんは、ことし6月には7回目のワールドカップ取材に出かける。73歳。もちろん、現役のサッカー記者だ。
(1998年1月19日)
首位はアメリカのバルボアで123。スビサレッタ(スペイン)が121で続き、3位はカリギュリ(アメリカ)で114。そして第4位に日本のキャプテン井原正巳、110。
6月10日に開幕するワールドカップに出場予定選手の、「国際Aマッチ」出場試合数ランキングだ。ワールドカップでは4位のチームまでメダルが出るから、井原は「堂々銅メダル」ということになる。
「国際Aマッチ」とは、ナショナルチーム同士の公式国際試合。FIFA(国際サッカー連盟)に届けを出し、主催協会は収益の2%を納めなければならない。ワールドカップ予選のような試合だけでなく、親善試合も含まれる。ただし、日本代表チームの試合でも、昨年8月に行われた「JOMOカップ」のような試合や、クラブチームを相手にする場合は、「国際Aマッチ」とはならない。
この「Aマッチ」の出場総数が100を超えるのはなかなか大変だ。サッカー史上初の国際試合は1872年のスコットランド×イングランドだったが、以後125年の間に、100試合出場を達成したのは三十数人にしかならない。井原は、日本人初の100試合出場を昨年6月25日のネパール戦で達成した。
ところで、イングランドでは、この「国際Aマッチ出場数」を「キャップ」と呼んでいる。「野球帽型の帽子」のことだ。国際試合に出場するたびに、記念の帽子をひとつずつ与える慣習があるからだ。
そもそもは、17世紀にチーム分けのために帽子が用いられたのが始まりだった。その後、帽子はユニホームの一部となり、カラフルになったが、19世紀のなかばに近代的なスポーツとしてサッカーが成立したころには、試合中はかぶられなくなっていた。
国際試合出場の名誉を記念するものとして帽子を授与しようという提案は、イングランド協会のN・ジャクソン氏によって1886年に行われ、ただちに採用された。「白い絹の帽子に赤いバラの刺しゅう」というジャクソン氏の提案は、「ロイヤルブルーのビロード帽」になったが、出場した試合の対戦相手名がはいった。以来、「キャップ」という言葉には、「国際試合への出場」という意味がつけ加えられた。
現在FIFAが認定している「最多キャップ」は、80年代に「砂漠のペレ」と呼ばれたサウジアラビアのマジェド・アブドラー。なんと147もの試合に出場している。
近年、国際試合の数は増加傾向にあるが、それでも年間10試合を超すのは特別なケース。16歳でデビューして30歳で引退するまで14年間もブラジル代表で活躍したペレでさえ、93試合にしかならなかった。ランキングの上位に長期間のプレーが可能なGKが多いのは当然だ。
さらに日本は、ほんの7年ほど前までヨーロッパや南米の代表チームと対戦してもらえず、プロとの対戦経験を積むためにクラブチームを相手にすることが多かった。235もの日本代表ゲームに出場した釜本邦茂も、Aマッチは75にしかならなかった。
井原は89年1月のUAE戦で日本代表にデビューし、その年内に22試合も日本代表として出場したが、うちAマッチはわずかに4。日本代表の試合相手がアジアであろうとヨーロッパであろうと代表チーム中心になったのは、92年からのことだ。
デビュー10年でキャップ数が110となり、ワールドカップへの出場も決めた井原。積み重ねてきた年月と経験は、フランスで日本の大きな力となるだろう。
(1998年1月12日)
元日、色とりどりの年賀状にまじって、ヨーロッパサッカー連盟(UEFA)からの月間レポートが届いていた。そのなかに、「フェアプレーコンペティション(競争)」の新提案が、理事会で承認されたというニュースがあった。
UEFAは93年にこの競争をスタートした。クラブやナショナルチームなどUEFA主催の全試合を対象に「フェアプレー度」を採点する。その年平均で国の順位を決める。そして上位3カ国には「UEFAカップ」への出場枠を1つずつ追加してきた。
UEFAカップはヨーロッパの3つの「クラブカップ」のひとつ。通常はリーグ戦の上位のチームに出場権が与えられる。国によっては3位、4位まで出場できる。この大会への出場はクラブ収入の大幅な増大をもたらす。
これまで、フェアプレー競争による追加出場枠は自動的にその国の「次点」チームに与えられてきた。リーグ4位まで出場できる国なら5位のチームというわけだ。しかし99年から、リーグ戦での順位に関係なく、国内での「フェアプレー競争」で1位になったチームに与えられることになった。これが今回の決定の最大のポイントだ。
日本でいえば、「フェアプレー賞」を受賞したヴィッセル神戸を99年の「2部」落ち候補から外し、無条件で「1部」の座を保証するようなものだ。
さらに条件がある。国内の試合を対象にUEFAと同じ採点基準のフェアプレー競争がなければ、追加出場の対象にはならない。見事なまでの徹底ぶりだ。
UEFAの「採点基準」は、警告と退場をマイナスポイントでカウントするだけの日本とは大きく違う。UEFAのフェアプレー委員が試合ごとに以下の6つの要素で採点し、最終的にに10点満点でポイントを出す。(ちなみに、FIFA=国際サッカー連盟も同様の基準を置いている)。
1 警告と退場
2 積極的なプレー(最後まで得点を目指してプレーし、守備偏重戦術や時間かせぎがなかったか)
3 相手選手への敬意
4 審判への敬意
5 役員の行動
6 ファンの行動
98年の幕開け、元日の天皇杯決勝で、鹿島アントラーズはすばらしいプレーを見せた。個々の力、コンビネーション、そして90分間途切れることのなかったファイティングスピリットなど、「百点満点」といっていいプレーだった。
だが「フェアプレー」の観点ではどうか。たしかにイエローカードは出なかった。だが選手ばかりでなくベンチを含めての執拗な審判への抗議、反則を受けていないのにFKを取ろうとする「ダイビング」、そしてサポーターによる相手チームやレフェリーへの無節操な悪意など、目に余る行為にあふれていた。
それは、すばらしかったプレー自体の感動を帳消しにした。
「フェアプレーで喰っていくことはできない」
まるでそう言っているような勝利。それでいいはずがない。
日本サッカー協会もJリーグも、フェアプレーキャンペーンを展開している。だが大きな成果が上がっているようには見えない。
第一に、フェアプレーの要素が警告や退場だけではないことをはっきりと示さなければならない。そのうえで、フェアプレーが割に合う(アンフェアーな行為は割に合わない)ことを、制度として確立しなければならない。
98年、ワールドカップ初出場の年。本当の「フェアプレー元年」にするにふさわさしい年ではないか。
(1998年1月5日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。