まさに、「またたく間」の出来事だった。
左タッチラインぎわでゆったりとボールをもった彼は、次の瞬間、マークする相手DFを置き去りにし、鮮やかに縦に抜け出していた。それが、私の初めての「クライフ体験」だった。
1974年6月、ワールドカップ西ドイツ大会。その春に大学を出て、サッカー専門誌を出す出版社に入社したばかりの私は、この大会を取材できるなどとは夢にも思っていなかった。実際のところ、就職にあたっての私の最大の目標は、4年後のアルゼンチン大会に行くことだったのだ。
だが、当時編集部のチーフをしていたH氏が会社にかけ合ってくれ、特別に2週間の休暇をもらえることになった。大会の前半だけ見たら帰ってきて、雑誌づくりに専念するという条件だった。まだ貯金などなかった私は父から借金して旅費を工面し、胸を躍らせて羽田空港から飛び立った。
初めての海外旅行。初めてのワールドカップ。何もかもが新鮮で、驚きの連続だった。そして大会1週間目の6月19日、ドルトムントでのオランダ×スウェーデン戦がやってきた。
この大会のスタジアムは大半が陸上競技との兼用だったが、ドルトムントはサッカー専用で、最高の雰囲気だった。ゴールのスタンドは1万人を超すオランダからのファンで埋まり、オレンジ色に染まっていた。だがフィールドのなかのサッカーはそれ以上に素晴らしく、私を圧倒した。
オランダはこの大会で注目のチームだった。初戦はスピードに乗った攻めでウルグアイを圧倒して2−0の勝利。FWで主将のヨハン・クライフを中心としたチームは、その1試合だけで「優勝候補の最右翼」の評価を固めていた。
この日の第2戦は、相手のスウェーデンも奮闘し、素晴らしい試合になった。だが、やはり驚きはオランダとクライフのプレーだった。そしてそのハイライトとなったのが、クライフの突破だった。
前半のなかば、クライフは相手陣内で左タッチ際に開いてパスを受けた。上体をすっと立て、右足の前にボールをもってフィールド全体を見回す。万全の態勢だから、マークの相手DFもうかつに当たることができない。クライフは左足を踏み出し、右足で逆サイドへパスを送ろうとする。それを妨害しようと懸命にタックルにはいるDF。
だがクライフは右足をボールの横で止め、足首を返してインサイドでボールを左足の後ろに通し、一気にスピードを上げて縦に抜け出す。そして右足アウトサイドの鋭いセンタリング。シュートはわずかに外れたものの、流れるようなクライフのプレーに、しばらくは拍手が止まなかった。
私が座っていたスタンドの目の前、ほんの15メートルほどの距離でのプレーだった。クライフの右足首が返ったとき、一瞬、私はキラっと光るものを見た気がした。それは彼のシューズの真っ白なクツ底だった。まるで、静かな湖面に、突然、銀鱗を光らせて魚が飛び跳ねたような印象だった。
オランダは決勝戦で西ドイツに負け、優勝はならなかった。しかし、現在もなお「あのオランダを上回るチームは出ていない」と言われるほどの、伝説のチームとなった。
そしてクライフのあのプレーも、「クライフ・ターン」と名付けられる伝説のプレーとなった。いまでも世界中の少年たちが、真似をしようと一生懸命に練習しているほどなのだ。
ワールドカップは伝説を生む。そしてその伝説がその後の世界のサッカーに想像力と夢を与え、発展の原動力になっていくのだ。
(1998年4月27日)
1994年7月17日、ワールドカップ・アメリカ大会決勝の日。ロサンゼルス郊外パサデナのローズボウル・スタジアムの周りの広大な敷地には、世界中からのファンが「最終決戦」に胸をときめかせながら歩いていた。
サンバのリズムを轟かせて、ブラジルのサポーターがやってくる。先頭はカーニバルのような派手なかっこうをした女性ダンサーたちだ。情熱的な踊りを披露する周囲にはカメラマンが群がっている。
そうした喧騒の一角に、小さな人だかりがあった。近づいて見ると、思いがけない「再会」があった。
彼らに初めて会ったのは四年前、イタリアのトリノのスタジアム前だった。鉄パイプを組み合わせた海水浴場の監視塔のようなものがある。よく見ると、それは高さ3メートルもの巨大な2人乗り自転車だった。その前に、誇らしげな顔をした彼らがいた。
聞くと、メキシコから新婚旅行を兼ねてやってきたカップルだった。4年前、86年のワールドカップ・メキシコ大会でブラジルの試合を見にいったときに知り合ったという。4年間の交際が実ってゴールイン。新婚旅行は、当然、ふたりの「縁結び」となったワールドカップにしようということになった。
しかし、ただツアーで行くのは面白くない。思い出に残る新婚旅行にしようと知恵を絞った。その結果、巨大な自転車をつくり、それに乗ってイタリア中を回りながら観戦しようということになったのだ。
ふたりは若々しく、新婦はまだ少女のようだった。彼らのあまりに楽しい「新婚旅行計画」を聞いて、私は思わず顔がほころぶのを覚えた。
その彼らに、4年後また会えるとは思ってもいなかった。ふたりの背後には、色は塗り替えられたものの間違いなく4年前と同じ自転車があった。
ふたりとも確実に4つ年をとり、初々しさはなくなっていた。だがそれだけではなかった。足元には、おもちゃの自動車に乗って無邪気に遊ぶ少年がいた。彼らが大好きなブラジル代表チームのユニホームを着た少年は、もちろん、ふたりの子供だった。
裕福な家庭のぼんぼんとお嬢さんではないことは明白だった。ふたりはインスタントカメラで「名物自転車の前に立つファン」を撮り、その写真を買ってもらって旅費の足しにしていたのだ。だがその表情は、苦労などひとかけらもないほど明るかった。
86年メキシコ大会で出会った少年と少女は、4年後に結婚してハネムーンの場所として90年イタリア大会を選び、94年には3人の家族となってアメリカ大会にやってきた。見事なまでの「ワールドカップ人生」ではないか。
4年にいちどのワールドカップ。それを楽しみに生きているファンが世界中に無数にいる。4年間を「1ワールドカップ年」と数えて、その単位で人生を送っている人も少なくない。
日本も例外ではない。若い勤め人だと2週間の休暇など許可してもらえないから、4年ごとに職を変える過激な人も、珍しくはないほどだ。
ワールドカップの何が、人びとをそれほど引きつけるのだろうか。簡単に応えられる問題ではない。だがこれだけは言える。
「こうした世界中のファンの思いの上に、ワールドカップがある。ワールドカップを価値あるものにしているのは、こうした無数のファンの情熱なのだ」
ことしもフランスのどこかで、あの自転車と、7歳を頭に何人かの子供を連れたふたりに会えるだろう。
1990年 イタリア・ワールドカップにて
1994年 アメリカ・ワールドカップにて
1998年 フランス・ワールドカップにて
(1998年4月20日)
最も印象的に残っているのは、メキシコ市のアステカ・スタジアムでの86年大会決勝戦だ。
優勝したアルゼンチンの選手たちを中心に、役員やカメラマン、そしてどうはいってきたのか、数百人のファンがフィールドの中央に集まっている。そしてその中央に、肩車されたマラドーナがいる。
右手につかんだカップを高々と掲げるマラドーナ。正午キックオフだったからまだ午後2時を回ったばかり。すり鉢の底のようなアステカ・スタジアムのピッチには強烈な日差しが降り注いでいた。その中心で、黄金のワールドカップがきらきらと輝いていた。
「ワールドカップ」というが、「杯(さかずき)」の部分はない。二人の選手が背中合わせに両腕を差し上げて地球を支えているデザインは、イタリア人の彫刻家シルビオ・ガッツァニガによるものだ。
18金製、高さ36センチ、重さは4970グラム。1.5リットルのペットボトルをひと回り大きくし、3倍の重さがあると思えばいい。
1930年の第1回大会からの「初代」のカップには、「3回優勝したチームが永久に保持できる」という決まりがあった。70年メキシコ大会でブラジルが3回目の優勝を達成、無事引退した。その後継者となったのが、この「FIFAワールドカップ」だ。
このカップには初代のような決まりはない。今後ずっと使われる。基底部には17枚の小さな銘板を入れるスペースがあり、ここに優勝チームの名が刻まれる。74年大会から17回だから、2038年の第26回大会までの分ということになる。
初代は「ジュール・リメ杯」と呼ばれた。1921年から54年までFIFA会長を務め、「ワールドカップの父」といわれるフランス人の功績をたたえて、1946年に正式にそう命名されたのだ。
ふたりの女神が八角形の「杯」を頭上に捧げているデザイン。純銀製のトロフィーに金メッキをほどこしたもので、台座には高さ10センチあまりの青い石が使われていた。合わせた高さは約35センチ。2代目とほぼ同じだが、重さは約3800グラム。かなり軽かった。
38年の第3回大会後、ヨーロッパは第二次世界大戦に突入した。ワールドカップを保持していたのはイタリア。戦火にさらされるなかでカップの行方が心配されたが、戦後、無事であることが確認された。FIFAの副会長でもあったイタリア協会のオットリノ・バラッシ会長が、自宅のベッドの下に靴箱に入れて隠し持っていたという。
66年イングランド大会では、一般公開の間に盗まれるという事件が起きた。しかし1週間後、ロンドンのある庭の植え込みに隠されているのが発見された。発見したのは「ピクルス」という名の犬。一躍大会の人気者となった。
70年にブラジルが「永久保持」することになったが、1993年に盗まれ、こんどは発見されることはなかった。現在ブラジル協会に置かれているのは、後日複製したものだ。
これまでにワールドカップの優勝を経験したのはウルグアイ(2回)、イタリア(3回)、西ドイツ(3回)、ブラジル(4回)、イングランド(1回)、アルゼンチン(2回)の六カ国だけ。栄光のカップを受け取った優勝キャプテンも15人にすぎない。
無数の選手がこのカップをつかむために人生を賭けて戦ってきた。そして無数のサッカーファンがその戦いに胸を躍らせてきた。その無数の思いが、この小さなカップに無限の価値を与えている。
(1998年4月6日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。