「4年後は、きみの国の番だね」
会話の途中でそんな言葉をはさんだのは、フランス98の地元組織委員会(CFO)委員長ミシェル・プラティニだった。
90年イタリア大会以来4年ごとに会うエリアスとコンセプシオンのメキシコ人夫婦は、私の手を握って名刺をくれと言った。
「おまえは日本人だろう。4年後には子供と3人で日本に行くから、おまえのところに泊めてほしい」
取材でフランスを回っているうちに、「次は日本」ということをあちこちで考えさせられた。「次は自分たちがこの大会のホスト役になる」という実感は、うれしくもあり、また同時に怖さも覚えた。
記者仲間の心配は、「世界中からくるサッカーファンが夜中まで大騒ぎするような場所を提供できるか」という点だった。
午後9時キックオフの試合が中心だったフランス大会。しかし11時に試合が終わった後、マルセイユやパリの中心街では、午前2時、3時までレストランが食事を提供し、広場ではお祭り騒ぎが続いていた。それが、世界のサッカーファンの「アフターマッチ」の楽しみなのだ。
あるJリーグ関係者は、あれほどたくさんのボランティアスタッフがそれぞれに責任をもって働く姿に感嘆した。スタンドで席に案内してくれるボランティアは、大半がにこやかで親切で、しかも何を聞いても、明確な答えが返ってきた。
スタジアムの「動線計画」も特筆ものだった。観客、役員やスタッフ、チーム、報道関係者などがそれぞれに邪魔し合わないよう、徹底的に通路(動線)を分ける。それによって、不要なトラブルはなかった。
いい点ばかりではない。フランス大会で問題になった点は、そのまま2002年大会の「課題」となった。
最大の問題は入場券だ。できるだけ多くの日本のサッカーファンが試合を見られるようにし、しかも世界中から訪れるファンを満足させるためには、どんな配券計画が有効だろうか。実際にスタジアムに来る人が定価で入手できるようにしなければならない。
フランスでは生命にかかわる事件になった「フーリガン」問題も、しっかりと分析して対策をたてる必要がある。甘く見ることはできない。かといって警備過剰で純粋なファンやサポーターに不快な思いをさせてはならない。
今回フランスを訪れた人が共通して実感したことがある。「ワールドカップは、国をあげてホスト役を務めるもの」という事実だ。
スタジアムだけでなく、町中や移動の車中で、フランスの人びとが心から世界のサッカーファンを迎えてくれているのが実感できた。日本の合宿地や試合地では、日本語の案内や歓迎の言葉も目についた。
チリ×オーストリア戦後にサンテチエンヌからパリに向かったTGVの車掌さんは、その夜に行われていた同じグループのイタリア×カメルーン戦の試合経過を、たどたどしいスペイン語とドイツ語で車内放送していた。スコアが動くたびに、車内のあちこちで歓声や落胆の声が上がった。
6月10日からの33日間、フランスは「クープ・ドゥ・モンド(ワールドカップ)」に生きた。そんな国でワールドカップを追いかける生活は、サッカーを愛する者にとってこの上ない幸せだった。
「次は私たちの番」。
それは、日本の組織委員会(JAWOC)だけの仕事ではない。私たちワールドカップに関心をもつ者すべてが、自分自身のこととしてもたなければならない感覚なのだ。
(1998年7月27日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。