「真ん中の丸がクラブ。それを地域、学校、行政の三者が育てることを示しています。中学校の美術の先生のデザインなんです」
クラブマーク旗の前で、半田市教育委員会の榊原孝彦さん(38)はていねいに説明してくれた。
8月の日曜日、Jリーグの「ホームタウン委員会」の視察にぶら下がって、愛知県半田市の成岩(ならわ)スポーツクラブを訪ねた。
成岩スポーツクラブは、新しい形の「日本型地域総合スポーツクラブ」だ。地域にある学校の施設を舞台に、地域の人々が小学生から中学生までの13種目のスポーツスクールと、高校生以上の13種目のサークルを運営している。
「学校開放」を利用したスポーツ活動ではない。学校の施設を「家」とし、小学生の各スポーツクラブを統合し、中学校の部活動の一部を移行し、成人のサークルまで団体ごと取り組み、地区総人口1万8000人の約13パーセントもが係わる「総合スポーツクラブ」なのだ。成岩中学校には「クラブハウス」があり、指導を含めクラブ運営はすべて地域の人々にまかされている。
その設立推進役が、この成岩に生まれ、国語教師として成岩中学サッカー部の指導をしていた榊原さんだった。1年365日休みなしの部活動が、果たして子供のためなのか、疑問を持ち始めていたのだ。
周囲を見回すと、指導者の個人的な情熱に支えられてきた小学生のスポーツクラブも、指導者の高齢化などの悩みがある。それならば、地域の人が子供たちのスポーツ活動を助けたらどうか。一貫指導も可能になるし、子供たちには、複数の競技に触れ合うチャンスや、家族と過ごすゆとりも生まれる。
94年6月、榊原さんは成岩地区の「少年を守る会」とともに「スポーツタウン構想」を打ち上げる。当時の加藤良一・成岩中学校校長が深い理解を示して部活動を「自由加入制」に変え、活動も週3回に制限してスポーツの「社会化」への後押しをした。少年少女のスポーツ指導を40年以上にわたって続けてきた佐々木悟さんは、各クラブの指導者を説き伏せてくれた。そして96年3月に成岩スポーツクラブが発足する。
中学生までは「スクール」形式だ。クラブには世帯ごとの加入が原則で、家族ぐるみでスポーツに参加することができる。活動が始まると、地域の人々はすぐにその良さを理解し、認めた。
子供たちに、地域の人々が関心を払うようになった。小中学生で縦のつながりができた。中学生が主体的に自分の生活スタイルを選択できるようになった。そしてボランティアで指導にあたる人たちも、同じクラブ内で他の種目の指導者と交流するなかで、スポーツ観が広がった。
事業の大半を会費でまかなわなければならない、施設の貧弱さなど、課題はある。だがクラブはしっかりと根付き、周囲からも高く評価されるようになった。
老朽化した成岩中学校体育館の新築を予定していた半田市は、地域の要望を受けてそれを「成岩スポーツセンター」建設計画に変えた。1階にクラブ施設を置き、2階が学校の体育館という画期的な施設が数年後に誕生する。
半田市は、市内の他の四地区にも同じような「地域総合スポーツクラブ」をつくろうと、この春、榊原さんを教育委員会に呼んだ。
竹内弘・半田市長はこう力説する。
「学校施設は、学校というより地域の人々のもの」
その施設を地域の人々が自主的に使い、子供からお年寄りまで楽しく手軽にスポーツに取り組める半田市をつくることが、榊原さんの新しい仕事だ。
(1998年8月26日)
連日スポーツ紙やニュースをにぎわしているペルージャの中田。日本のサッカー選手がヨーロッパのトップリーグでプレーするのは、94/95年シーズンのカズ以来のことだから、メディアが騒ぐのも無理はない。
私の予定では、ワールドカップ後には中田のほかにも数人の選手がヨーロッパのクラブに移籍するはずだった。そうなればメディアも全員を追いきれず、選手たちは伸び伸びと自分のプレーに集中できるだろう。しかし現在のところ日本代表選手の移籍は中田ひとり。中田が成功し、それに刺激されて他のクラブが日本選手に目を向けるようになることを期待したい。
ところで、気になるのは中田を放出したベルマーレ平塚だ。今シーズンの前半は中田の活躍に引っぱられて上位をキープし、なかなか好調だったベルマーレだが、中田の移籍と負傷者続出が重なり、7月25日再開のJリーグでは5連敗。12位まで落ちて第1ステージを終了した。
そこで、第2ステージの巻き返しのため、植木監督は外国人選手の補強を要請した。契約期間途中の中田の移籍で、クラブにはかなりの資金(2億数千万円と推定されている)ができたのだから、それを生かしてもらおうという話だ。しかしクラブは拒絶した。
Jリーグクラブの例にもれず、ベルマーレも累積赤字に悩まされている。しかも母体企業が不況で苦しい状態にある。クラブ経営者としては、収入があったらまず赤字を埋めようという考えだったのだろう。
だがそれはおかしい。
選手の移籍によって得られた収益は、チームの補強のために「再投資」するのが、ファンをもつクラブの原則的な責任である。中田が抜けても、チームの戦力は落ちないようにしなければならないのだ。
ベルマーレ平塚は、株式会社の形態をとる「私企業」である。しかし今回のクラブのやり方は、本当にただの「企業」にしか見えない。赤字続きだった企業が、突然大きな商売が当たった。しかし経営者は、赤字補填にしか考えが回らない。
普通の会社ならそれでもいい。しかしベルマーレは普通の会社ではない。Jリーグ所属のサッカークラブなのだ。
平塚市が多額をつぎ込んで改装した平塚競技場をホームスタジアムとして無条件に使い、平塚市を中心とした湘南地域のファンが入場券を買って支えているのが、ベルマーレである。断じて一介の「私企業」ではない。なかば公的な責任をもった存在なのだ。それを忘れてもらっては困る。
第一に、中田を移籍させることに関して、ファンは意見を言う権利がある。ファンの声を無視して移籍はできない。
第二に、中田のためを考えてファンが移籍に理解を示したとしても、移籍で得られた資金はチーム強化に使われるべきだ。ファンの期待はベルマーレが優勝すること。その努力をしていることを示さなければ、ファンは納得しない。
選手はクラブの「資産」のようなものだ。しかし同時に、ファンあってのクラブであれば、ベルマーレ平塚という一企業ではなく、正確にいえば地域の人々やファンを含めた「クラブ」全体の財産なのだ。
中田の移籍で得られた資金をクラブ発展のためにどう使うのか。少なくとも、経営者は地域のファンに向き合い、しっかりと説明しなければならない。
クラブが自らの存在の本質を忘れ、公的な責任を忘れ、ファンの存在を忘れれば、クラブはやがて地域の人々に見放される。そうなってからでは遅いのだ。
(1998年8月19日)
「同じ仕事をしているほかの代表チームの連中から、日本はフィジカル面で非常にいい仕上がりになっているとほめられた」
3年半にわたって日本代表のフィジカル面を担当してきたフラビオ・コーチ(49)は、ワールドカップ・フランス大会でプロらしい仕事ができて満足そうだった。
他国のコーチたちの言を待つまでもなく、フランス大会での日本代表はすばらしいコンディションに仕上がっていた。それがはっきりと出たのがクロアチア戦だった。快晴、35度の猛暑のなかで、日本の動きはキックオフからタイムアップまでまったく落ちなかった。世界の強豪をあと一歩まで追いつめることができたのは、完璧なコンディションのおかげだった。
大会直前に井原がヒザを負傷するという事故があった。しかしドクターをはじめとした支援スタッフの努力もあり、なんとかアルゼンチン戦に間に合わせた。この間、リハビリのトレーニングを指導しながら精神面で井原を支えたのがフラビオだったという。
そのフラビオが今週はじめにブラジルに帰国した。日本協会との契約が7月いっぱいで満了したためだ。
フルネームはルイス・フラビオ・リベイロ・ボォンゲルミーノ。91年にヴェルディ川崎のフィジカル・コーチとして来日し、95年からは日本代表で加茂監督、そして昨年10月から岡田監督を補佐してきた。7年間の日本生活に、一応のピリオドを打ったのだ。
「日本では、ジュニアチームから筋力トレーニングを入れているところが少なくないが、それよりも、もっともっとボールを使って能力を高めるトレーニングをしなければならない」と語るフラビオ。
日本代表でも、フラビオのトレーニングの大半はボールを使って行われていた。「追い込み」が必要なときにも、ただ走らせるのではなく、ドリブルやシュートを入れ、サッカー選手としてのの技術や能力をアップさせながら、その実、かなりきついトレーニングをさせていた。
94年に日本代表の指揮をとったファルカン監督は、同じブラジル人ながら「日本選手はフィジカル能力が低すぎる」と嘆いた。
しかしフラビオは「日本人がフィジカル面でとくに劣るわけではない」と主張する。「それよりも、選手たちが自信をもってプレーすることが大事だ」。彼自身、「ヨーロッパとそれほど大きな差があるわけではない」ことをワールドカップで痛感したという。
91年からの7年間でいちばん記憶に残るのは、やはり、昨年11月、ジョホールバルでのあのイラン戦だったという。ワールドカップ出場を決めたというだけでなく、内容的にも印象的な試合だった。
実はこの試合、フラビオ個人にとっても長年の夢をかなえるものだった。81年、クアラルンプールで行われたワールドカップ最終予選で、サウジアラビアが中国に2−4で敗れた。そのときのサウジアラビア代表のフィジカルコーチが、フラビオだった。
「同じマレーシアで日本がイランを破った。日本代表チームが私に、16年前に逃したワールドカップ行きのチャンスを与えてくれたのだと思う。人生もサッカーも同じだ。負ける日もあれば、勝つ日もある」
できれば日本でもう少しフィジカルコーチとして働きたいと語る。日本のサッカーのために、自分ができることがまだまだあると信じているからだ。遠くない将来に、どこかのJリーグのクラブのベンチで、フラビオの穏やかな笑顔に再会したいと思う。
(1998年8月12日)
フェアプレーの精神は死んだのだろうか。
相手選手がケガして倒れたままなのを見たら、タッチラインの外にボールを出してプレーを止める。サッカーでは「常識」といっていい行為だ。しかし今回のワールドカップでは、そのフェアプレーに対する「お返し」がおかしなチームが多かった。
これまでなら、スローインを相手に渡してゆっくりと試合を再開していた。しかし今大会では、スローインを味方につなぎ、大きく相手陣奥のタッチラインにけり出すプレーが目立った。そして相手のスローインにプレッシャーをかけていく。いわば「恩をあだで返す」形なのだ。
フェアプレーはワールドカップにとって重要な要素だ。FIFAも「フェアプレー賞」を設け、6月21日には「FIFAフェアプレーデー」のイベントも行われた。試合前には、少年少女の手でフェアプレー旗が運び込まれ、フィールド上に示された。フェアプレーのオンパレード。しかし試合のなかでは、アンフェアーな行為が続出した。
ファウルされてもいないのに、あるいは少し接触しただけなのに、PKを狙って倒れる「ダイビング」。守備側では、1対1の競り合いで相手の腕やシャツをつかむ行為が横行した。さらに、胸を突かれたのに、顔面を覆って大げさに倒れ、相手を退場に追い込んだ卑劣な行為もあった。
フランス98は、すばらしいプレーがあった反面、何より勝利が優先し、勝つためなら何でもするという「ゲームズマンシップ」が支配した大会だった。
しかしそうした殺伐とした雰囲気のなかで、本物のスポーツマンとしての行為、フェアプレー精神を見る思いがしたこともあった。準々決勝での、フランスのMFエマニュエル・プティの行為だ。
開催国として、何が何でも勝たなければならないフランス。イタリアは、相手のそんな心理を見透かし、徹底的に守りを固めてカウンターアタックを狙った。得点できなくても失点さえしなければ、PK戦で五分五分の勝負に持ち込むこともできる。それがイタリアの計算だった。フランスは攻め切れず、無得点まま延長戦の終盤を迎えていた。
延長後半14分、フランスが右CKを得る。最後のチャンスかもしれない。キッカーはプティ。左足の鋭いキック。しかしゴール前でイタリアのディビアジョにオーバーヘッドキックでクリアされる。
そのボールをフランスが拾い、右タッチライン沿いに帰ってきたプティに戻される。再びゴール前に入れようとするプティ。だが長い髪を後ろにたばねた長身のMFは、急に動きを止める。イタリア・ゴール前で、ディビアジョがまだ倒れたままなのだ。
そのままボールを入れたら危険だ。プティは何の迷いもなく、平然と左足のヒールキックでボールをタッチラインの外に出した。
ワールドカップの勝利は、名誉のためだけのものではない。人生を左右する名声と、金銭的成功をもたらすのだ。だからどんな犠牲を払っても王座に近づこうとする。
しかしそうした「大勝負」だからこそ、そこで示されるフェアプレー精神あふれる行為は、優勝カップに勝るとも劣らない価値をもつ。プティの行為こそ、スポーツマンとしての本物の勇気の証明だ。
当然のことながら、イタリアのサポーターのみならず、フランス人のファンからも、プティに対して盛大な拍手が起こった。
私も少し安心した。フェアプレーの精神は、死に絶えてはいなかった。
(1998年8月5日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。