先週末のJリーグは話題満載だった。
鹿島アントラーズ、ジュビロ磐田という優勝候補が、主力放出で大きく戦力ダウンしたと見られるヴェルディ川崎とベルマーレ平塚に苦杯を喫し、横浜Fマリノスもアビスパ福岡に敗れた。そのなかで、ドラガン・ストイコビッチのひとつの行動も大きな話題になった。
前日ヨーロッパから戻ったばかりで90分間フル出場し、名古屋グランパスを勝利に導いたストイコビッチは、後半、絶妙なパスを送って同僚の福田健二がゴールを決めたのを見届けると、テレビカメラに向かって走りながらユニホームのシャツをたくし上げた。そしてその下に着ていた白いTシャツに手書きしたメッセージを示した。
「NATOよ、攻撃を止めろ」
もちろん、祖国ユーゴスラビアに対するNATO軍の空爆に対する抗議だ。
同じ日、浦和レッズのMFゼリコ・ペトロヴィッチもまた、自らの手で書いた同様のメッセージを、同点ゴールの後にシャツを脱いでアピールした。
日本ではこれまで問題になったことはないが、FIFA(国際サッカー連盟)などの国際組織では、試合の場で政治的、あるいは個人的なメッセージを発することを禁止している。
86年ワールドカップでは、試合前の国家吹奏時に「暴力反対」などのメッセージ入りのヘアバンドを着用したソクラテス(ブラジル)が罰金を言い渡された。昨年、イングランドでは、リバプールのFWロビー・ファウラーがストライキを続ける港湾労働者への支持をアピールしてやはり処罰を受けた。
世界では、サッカーは大きな力をもった「メディア(媒体)」と認識されている。トップクラスのサッカーの場でスター選手が発するメッセージは、大きな影響力があるからだ。
その力が政治宣伝に使われ始めたら大変なことになる。スポーツと政治が無関係だというのではない。スポーツの影響力で政治に対する判断を左右するのは正しくないということなのだ。私たちの生活に直結する政治は、政治として判断しなければならない。
いかなる事情があろうと、祖国に住む家族や友人の頭上に高性能爆弾が投下されるのは許し難いことに違いない。しかしストイコビッチやペトロヴィッチは、そのメッセージを試合外で発するべきだった。試合のなかであのような行為に出るのは、間違いだったと私は思う。
しかしそうした間違いは、選手に限られたものでないことも指摘しておかなければならない。クラブや協会、そして全世界のサッカーを統括するFIFAそのものが、サッカーの社会的影響力を積極的に利用し、大きな利益を得ているからだ。
シューズやウェアのロゴマーク、ユニホームの胸の広告、プレーの背後に見え隠れする場内看板広告。これらはすべて、トップクラスのサッカーの大きな影響力を利用した商業活動にほかならない。
現状ではスポーツが商業主義から資金を得るのは仕方がない。しかし「宣伝塔」になるのは、けっしてスポーツの本来の目的ではないことを、どれだけの関係者が意識しているだろうか。その意識のなさが、スポーツが商業主義に押し流される最大の要因になっている。
個人的あるいは政治的メッセージも商業行為も、どこまでが許され、どこから許していけないか、線引きをするのは非常に難しい。しかしストイコビッチの行為を非難するだけではいけない。彼が実証したサッカーの社会的影響力を正確に把握し、スポーツ本来の目的を見失わずに、サッカーに関わる者全体で「常識」を育てていくことが大切だと思う。
(1999年3月31日)
中田が帰ってくる。
来週水曜日にブラジル代表を迎えて東京で行われる国際試合のために、5カ月ぶりに日本のファンの前に登場するのだ。中田の出場が早くから確実視されていたこともあって、日本×ブラジル戦の入場券は、発売後わずか20分間で完売した。
シーズン真っ最中の中田が帰ってくることができるのは、いやそれ以前に、スターの大半がヨーロッパのクラブでプレーするブラジル代表のアジア遠征(28日に対韓国戦)が実現したのは、ヨーロッパに「国際試合週間」があるからだ。
現在進行中のヨーロッパ選手権予選。その試合が、今週末から来週の水曜日にかけて、いっせいに38も組まれている。だから今週末は、各国のリーグ戦はそろって休みなのだ。
かつては、ヨーロッパでは国際試合はほとんど水曜日に行われていた。代表選手たちは土曜あるいは日曜のリーグ戦を戦った後合宿にはいり、水曜日に代表チームで試合をした後に、所属クラブに戻ってまた週末のリーグ戦に出場していた。
しかしこうしたスケジュールだと、代表チームは試合をするために集まるだけで、ほとんど練習することができない。そこで、代表ゲームのある前の週末はリーグ戦を休みにし、ほぼ1週間にわたって合同練習をして試合に臨む国が出てきた。
当然、そうした国は好成績を残すようになる。そして現在では、UEFA(ヨーロッパサッカー連盟)の指導で、「国際試合週間」を固定し、全加盟国が同じようにリーグ戦を休みにする方式をとっている。
代表選手の大半が国外のクラブでプレーしているフランスが世界チャンピオンとなり、ワールドカップのベスト8のうちヨーロッパが7チームも占めることができたのは、代表にしっかりと時間をかける日程が通年で組まれているからなのだ。
イタリア代表は27日土曜日にデンマークと重要な予選試合を戦う。当然、今週末のセリエAはお休みだ。イングランドもドイツもスペインも、ヨーロッパ全土でそろってリーグ戦は休みとなる。だから、ブラジル代表のアジア遠征が可能になった。そして中田も日本代表に戻ってくることができるのだ。
もし世界中で年にいくつかの「国際試合週間」を決め、それに合わせて国内リーグを調整できれば、クラブにも代表チームにも都合のいい、そして何よりも選手にとって無理のない試合日程をつくることができるはず--。これが、現在世界サッカーの最大の課題になっている「カレンダー問題」である。
FIFA(国際サッカー連盟)のブラッター会長は、世界のカレンダー統一を提案している。UEFAを中心に、2004年までの日程はほぼ固まってしまっている。だから、その翌年、2005年からは、世界で統一したカレンダーでやっていこうというのだ。その私案では、シーズンを2月から11月とし、各国の国内トップリーグを16チーム以内にするという。
ヨーロッパでは、秋から翌年夏にかけての越年シーズン制の国が圧倒的に多い。国内リーグは18チームがUEFAの基本だ。アジアでは、イスラム圏の国に毎年一定しない断食月がある。北から南、西から東へと大きく気候風土が違い、シーズンを合わせることも簡単ではない。世界のカレンダー統一には、多くの障害がある。
しかし「サッカーの王様」ペレはこう主張する。
「完璧なカレンダーをつくることなどできないだろう。しかしいいカレンダーをつくり、それを基本に世界のサッカーを展開することはできるはずだ」
世紀の変わり目、サッカーの世界も大きな変化へのうねりが始まっている。
(1999年3月24日)
今季、Jリーグ(1部)で新しく監督になった人は5人。さてそれでは、93年からの7シーズンで、監督はいったい何人になっただろうか--。
3月上旬、シーズン開幕に先だって、1冊の本が刊行された。「J・LEAGUE YEARBOOK 1999」。Jリーグの公式記録集の2巻目である。98年のJリーグの全公式戦の試合記録と、個人出場記録、そして今季の各クラブの陣容などが掲載されている。日本語では「公式記録集」となっているが、「イヤーブック(年鑑)」と呼ぶにふさわしい内容だ。
Jリーグの公式記録集は、94年から大手出版社の手でつくられ、販売されてきた。しかし売れ行きが思わしくないことから、わずか3シーズンで途絶えた。肩代わりをしてくれる出版社も見つからなかったので、Jリーグは昨年から「自主出版」に踏み切った。
広報部が主体になって「イヤーブック編集委員会」を組織し、実際の編集作業は、Jリーグデーターセンターと編集者の池田博人さんが中心になって行われた。準備期間が短かった昨年の第1巻は、Jリーグ会場などでの限定販売だったが、ことしは「トランスアート」という出版社の手を経て一般の書店にも並べられている。
第2巻は、なかなかの出来ばえだ。印刷が格段にきれいになり、見やすくなっただけでなく、記録の面でも第1巻の欠陥がよく改善されている。
圧巻は、「選手」、「クラブ別外国籍選手」、「監督」、「審判」と並んだ「インデックス」だ。選手の項では、93年以来Jリーグで1試合以上プレーした全選手の、年度ごとの出場・得点記録が網羅されている。
この本のモデルとなったのは、1970年からイングランドで発行されている同種の刊行物。たばこ会社がスポンサーとなり、一般に「ロスマンズ」と呼ばれている。この夏には第30巻目発行という、歴史あるイヤーブックだ。
感心するのは、毎年データが更新され、過去の記録などが増えていくなかで、基本的なフォーマットが、30年前もいまもまったく変わっていないことだ。イギリス人の頑固さとともに、ことを始めるにあたって、いかに熟考して、「不朽」のものをつくるかが感じられる。
イタリアには、1939年に第1巻が刊行され、すでに58巻目になったイヤーブックがある。こちらは、出版社の名前から「パニーニ」の名で知られている。「パニーニに聞け」と言えば、それはイタリアのサッカーに関することはこのイヤーブックにすべて載っているから、見てみなさいということだ。
昨年のワールドカップ期間中にパリのプレスセンターで原稿を書いているときに、イタリア代表の数年前の試合結果を知る必要が出た。私にはあやふやな記憶しかなかったのだ。すると天の助けか、横でイタリア語が聞こえる。私はずうずうしさも顧みず聞いてみた。
幸いにも、その人はイタリア人記者には珍しく紳士だった。私と彼の記憶が違うのを知ると、即座にローマの本社に電話し、仲間に頼んだ。「パニーニに聞いてくれ」。そして、彼の記憶が正しいことがわかった。
「ほらね。オレの記憶は信じられなくても、パニーニなら信じるだろう」。得意満面に、彼はウインクして見せた。
Jリーグにも、ようやく立派なイヤーブックができた。しかしロスマンズやパニーニは、それを何十年という単位で「継続」することで、初めて「信頼」につながることを教えている。
ところで、最初の質問の正解は、75人。「監督インデックス」の項には、昨年までの70人の監督の成績が、年度ごとに並べられている。
(1999年3月17日)
なぜいま、誰も「サッカーくじ」を語らないのだろうか。これほど必要性が明らかなときはないのに...。
メイン出資企業であるフジタ工業がユニホームスポンサーから降り、完全に「自立」を迫られたベルマーレ平塚では、サポーターたちが年会費1万円で5000人の援助会員を募り、試合の運営費を捻出しようという動きが始まっている。
Jリーグのなかでも、クラブによって状況は大きく違う。体力のある大企業が主要な出資者となっているクラブは、厳しいなかでも補強をすすめ、タイトルを狙う動きを見せている。その一方で、存続のためになりふりなど構っていられない状況のクラブもいくつもある。
J2(Jリーグ2部)やその下に新しく組織されたJFLは、不況の影響で参加チームが少なく、それぞれ10クラブと9クラブでのスタートを余儀なくされた。ともに16クラブ程度で運営したいのだが、手を挙げるところがないのだ。
女子でもLリーグから一気に4クラブが消え、リーグ自体の存続も脅かされている。企業自体の生き残りが問題になる状況下、「スポーツなどにカネはかけられない」時代なのだ。
サッカーだけではない。最近だけでも、バスケットのNKKやアイスホッケーの古河電工といったトップクラスの名門チームが会社の事情で活動を停止した。朝日新聞の記事によると、バブル崩壊後の過去五年間に各種のスポーツから企業が撤退して廃部や休部に追い込まれたチームが60を超えるという。トップクラスだけでこれだけあるのだ。あと数年間こうした状況が続けば、日本のスポーツは重大な危機に瀕することになる。
それでも、スポーツ関係者たちは口をそろえて「スポンサーさえ見つかれば」と話す。仮に景気が回復してスポンサーが戻ってきても、それはいつまた放り出すかわからないのに、企業にすがることにしか頭がない。
この不況は、私たちに大事なことを教えてくれた。
「誰かに頼るという状況を脱しない限り、スポーツはいつも簡単に切って捨てられる」
スポーツも自立を迫られているということだ。
Jリーグは、クラブがプロサッカー事業で成功し、収益を上げて、それを下部組織の充実やいろいろなスポーツの発展に充てていくことを理想としている。それもひとつの道だ。
しかしほかにも自立の道はある。それがサッカーくじだ。正式には「スポーツ振興投票」。その名のとおり、スポーツを振興する資金を広く集めるための制度である。
横浜の市民が自分たちのクラブをもちたいと立ち上がったとき、NKKのバスケット部や古河のアイスホッケー部が解散の危機に立たされたとき、サッカーくじから生まれた資金を投入してなんとか存続の道を探ることは不適当だろうか。
トップクラスの競技を見ることもスポーツの楽しみの大きな要素であることを理解する人なら、こうした方向に反対はしないだろう。もしサッカーくじがすでに始まっていて軌道に乗っていれば、廃部や休部に追い込まれた60以上のトップクラスのチームのいくつかは存続させることができたかもしれない。
スポーツに親しみ、スポーツを愛する人たちが、夢や楽しみとともに参加するサッカーくじ。そこから生まれた資金が、チームの存続やスポーツの存立に役だっていく。これは立派な「スポーツの自立」だと思う。
実施へ向けて準備が進んでいるサッカーくじ。しかし肝心の利益の使い道は、ただ広く薄くばらまくだけにならないかと心配だ。本当に日本のスポーツの自立を助ける、見識をもった使い方をしてほしいと思う。
(1999年3月10日)
昨年のワールドカップ決勝ではフランスに完敗を喫したものの、現在も世界一のサッカー大国として君臨するブラジル。日本のサッカーは、1970年代以来その大きな影響を受け、多くのものを学んできた。
ことしは、J1とJ2を合わせて35人ものブラジル人選手が登録されている。監督こそ減ったが、フィジカルコーチなど、日本のサッカーは多くの人材をブラジルに負っている。
そのブラジル・サッカーの黎明期をリードし、手本になったのが、イングランドをはじめとした英国人たちだった。
今日、ブラジルとイングランドのサッカーは、プレーの質の面でも、哲学の面でも、まったく対照的のように見られている。しかしよちよち歩きのブラジル・サッカーの成長に決定的な役割を果たしたのは、間違いなく英国人たちだったのだ。
ブラジルにサッカーをもたらしたのは、チャールズ・ミラーという英国人。スコットランド出身の鉄道技師の長男として1874年にサンパウロで生まれたミラーは、9歳になると英国式教育を受けるために南イングランドの寄宿学校に送られる。学校で彼はいろいろなスポーツに親しんだが、何より彼の心をとらえたのはサッカーだった。
この学校にいた十年間のうちに、彼は南イングランドで有数のFWとなり、同時に、地域の協会の役員としても活躍した。そして1894年にブラジルに帰国したとき、彼は2個のサッカーボールを旅行カバンのなかに入れていた。ブラジル・サッカーの歴史は、まさにこの2個のボールから始まったのだ。
ミラーは帰国するとすぐにクラブをつくり、数年後にはサンパウロのリーグ戦、1901年にはリオデジャネイロとの対抗戦を組織した。リオでも、サッカーをリードしたのは、ミラーのような留学帰りの英国系の人びとだった。
1910年、イングランドから新たな波が押し寄せる。名門アマチュアクラブ「コリンシャンズ」が遠征し、5試合して全勝したのだ。総得点30、総失点わずか5。彼らがまだサンパウロに滞在している間に新しいクラブが創設された。ミラーの助言により、新クラブは「コリンチャンス」と名付けられた。
1910年代にサッカーはブラジル全土に広まっていく。そしてそのなかから黒人選手が登場する。英国系のクラブでは黒人は排斥されたが、ブラジル人が主体となったクラブでは、少しずつ黒人選手が起用されていく。1923年、リオのバスコ・ダ・ガマがリオの1部リーグに昇格して1年目で優勝を飾る。そのチームのレギュラーの半数が黒人だったことが、時代を動かす大きな力となった。
1914年に勃発した第一次世界大戦と戦後の不況で、この時代にはイングランド・サッカーからの影響は年ごとに薄れ、代わって黒人たちの即興性に富んだプレーがブラジル・サッカーを特色づけていく。
1933年にプロ化。そして1938年ワールドカップで世界に衝撃を与える。この年、ブラジルは伝説の名手レオニダスの芸術的なプレーをひっさげて3位に躍進した。以来、ブラジルはワールドカップのプリマドンナとなり、世界でも特別の地位を築いたのだ。
日本のサッカーは、英国人の手で紹介され、学生の間で広まり、ビルマ人留学生にキックを教わり、そしてドイツ人コーチの手で近代的な技術が導入された後、ブラジルからの強い影響を受けて今日に至っている。
世界のサッカーは、互いに影響を与えつつ発展してきた。チャールズ・ミラーをはじめとした無数の人びとの情熱は、いま日本で、Jリーグの新シーズン開幕として、新たな花を開かせようとしている。
(1999年3月3日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。