サッカーの話をしよう

No.272 スターを育てる「夢の舞台」

 「ボンボネーラ(チョコレート箱)」
 奇妙なニックネームで呼ばれるスタジアムがある。収容人員5万。アルゼンチンの首都ブエノスアイレスの人気クラブ「ボカ・ジュニアーズ」が所有するスタジアムだ。ブエノスアイレス旧港のある「ボカ」地区の真ん中に位置し、タンゴで有名なカミニート通りからもわずか数百メートルの近さだ。
 愛称以上に奇妙なのは、普通の競技場なら「メインスタンド」と呼ばれる西側のスタンドだ。南北と、「バックスタンド」にあたる東側を、3層にそびえ立つ巨大なスタンドで囲みながら、西側のスタンドは奥行きが数メートルしかなく、1階2列の席が6階も重なっている。

 このスタンドの存在を初めて知ったのは68年。「世界クラブ選手権」(現在のトヨタカップ)の様子を伝える1枚の写真に、奇妙なスタンドが映っていた。当時は4階建てだった。なぜこんなアパートのベランダのような観客席になっているのか、私の想像力をかきたてた。
 77年、初めてブエノスアイレスを訪れたとき、その席に座った。タッチラインからわずか数メートル。信じがたいほどの特等席だった。
 アルゼンチン人のためのクラブとして1905年に設立されたボカ・ジュニアーズは、40年に「夢のスタジアム」を完成させた。それがボンボネーラだった。土地の広さの関係で、西側のスタンドだけが極端に小さい、奇妙なデザインのスタジアムが姿を現した。しかし世界にふたつとないそのデザインが、逆にファンの愛着を生んだ。
 マラドーナをはじめ数多くのスター選手が時代を彩り、ボカはリバープレートとファンを二分する超人気クラブとなった。ボカは大衆のクラブであり、労働者たちのシンボルだった。そしてボンボネーラでプレーすることは、アルゼンチンの半数の選手の夢となった。

 先週、十数年ぶりにボンボネーラを訪れた。西側のスタンドは96年の8月に完全改築され、奥行きこそ変わらないが、六階建ての近代的な席に生まれ変わっていた。北・東・南のスタンド前に設けられていた観客の侵入防止用の堀はすっかり埋められ、強化ガラスのフェンスが張り巡らされていた。
 そこで「未来のスター」に出会った。ラウル・オセラくん、15歳。ボカの8軍(15歳以下)の右サイドバックで、アルゼンチンの15歳以下代表に選ばれ、翌日からイングランドに遠征するという。
 13歳でボカのスカウト網にかかり、コルドバ州のモルテロスという小さくて静かな町から単身ブエノスアイレスにやってきた。父エラディオさんと母マリアさんにとっては大事な1人っ子。心配でたまらなかったが、ボンボネーラでプレーすることは幼いときからのラウルの夢。止めるのは不可能だった。

  それから2年、彼はアルゼンチンでも将来を嘱望される選手のひとりと言われるまでに成長した。そして初めてのヨーロッパ遠征を前に、故郷から両親と叔父夫婦を呼び、ボンボネーラを案内して回っていたのだ。
 15歳以下代表とは、2年後、2001年の「17歳以下世界選手権」を目指したチーム。その先には、20歳以下のワールドユース、23歳以下のオリンピック、そしてワールドカップという夢が広がっている。
 しかしラウルは、「まずはボンボネーラ」と強調する。
 「ここでプレーできるのはボカの一軍だけ。それができなければ、何も始まらないんだ」
 世界のどの国にも、こうした「夢の舞台」がある。それが少年たちのあこがれを誘い、努力をうながす力になっていることを、すっかりきれいになったボンボネーラの観客席で思った。

(1999年6月30日)

No.271 コパアメリカに期待すること

 日本代表が「コパ・アメリカ」に向けて出発した。
 コパ・アメリカは、南米サッカー連盟(CONMEBOL)の公式の選手権大会であり、世界最古の国際大会でもある。
 国際サッカー連盟(FIFA)の誕生は1904年。しかし各大陸別の連盟ができたのは意外に遅く、1950年代になってからだった。しかし南米では、1916年に開催された会議で連盟を創設した。会議に参加したアルゼンチン、ブラジル、チリ、ウルグアイは、同時に代表チームをブエノスアイレスに集めて国際大会を開催した。これが、「非公式」ながらコパ・アメリカの第1回大会となった。
 ヨーロッパが第一次世界大戦のまっただ中の当時、南米ではサッカーの人気が急激に高まっていた。まだプロは公認されていなかったが、どの国でもスタジアムは満員になっていた。

 この「非公式」の第1回大会でも、優勝をかけたアルゼンチン対ウルグアイ戦には4万もの観客がつめかけた。そして試合が始まる前に興奮したファンがスタンドを焼き払う暴動まで起こり、試合は翌日に延期された。
 この大会で得点王になったのがウルグアイのFWグラディン。陸上競技の200、400メートルの南米記録保持者でもあった。そして、当時の南米サッカーでは珍しい黒人選手だった。グラディンのゴールでアルゼンチンを下したウルグアイが初代の王者となった。南米サッカーの特徴のひとつが黒人選手の才能にあることを考えれば、その兆しは最初のコパ・アメリカで芽生えていたことになる。
 当初は毎年開催されていたコパ・アメリカも、2回の危機の時代を迎える。最初は1930年代。このころ、南米の各国は相次いでプロ化し、どの国でも代表チームの組織が難しくなったのだ。30年代、大会は3回しか開催されていない。

 そして第2の危機が60年代。「リベルタドーレス杯」(南米クラブ選手権)が始まったのだ。ペレを擁するサントスの活躍などでたちまち人気大会となったリベルタドーレス杯の前にコパ・アメリカは影が薄くなり、67年に第28回大会がウルグアイで開催された後、8年間もの空白期間ができる。
 75年にホームアンドアウェー形式で4年にいちどの大会として再出発し、87年には、再び全加盟国を1カ国に集め、2年にいちどの大会にする現行の方式をスタートした。各国が力を入れたこともあり、ヨーロッパ選手権と並ぶ権威のある大会と見なされるようになった。
 93年大会からは、その輪を南米外に広げる。この年、初めてメキシコとアメリカ合衆国が招待されたのだ。もっとも、南米の人々は中北米も「同じアメリカ」という意識をもっている。ごく自然なことだったのかもしれない。97年大会にはコスタリカが招待された。

 そして今回、コパ・アメリカに、初めて「アメリカ」以外の地域の国が登場する。それが日本だ。今年で20回を迎えるトヨタカップを中心とした交流を通し、日本とCONMEBOLは固い絆で結ばれている。その絆が、コパ・アメリカへの招待として結実したのだ。
 日本にとっては願ってもない「真剣勝負」の舞台。2002年ワールドカップへの重要な布石だ。単なる参加者で終わってほしくない。何かを勉強してくるだけでは不足だ。徹底的に勝負にこだわり、日本サッカーがいかに進歩したかを実証してほしいと思う。93年にはメキシコが準優勝を飾り、95年にはアメリカが3位となった。招待されたチームは、けっして「お客さん」にはなっていないのだ。
 世界最古の国際大会コパ・アメリカ。2002年へ向け、これほどふさわしい「スタート」の場はない。

(1999年6月23日)

No.270 パーソナリティーを育てる

 私が監督をしている女子チームの練習で、興味深いことを発見した。若いストライカーのプレーだ。
 高校生で伸び盛りのその選手は、紅白戦でサブ組にはいると素晴らしいドリブル突破を見せ、レギュラー組のDFをきりきり舞いさせる。しかしレギュラー組にはいると、まったく何もできなくなってしまうのだ。
 原因は、その選手の「素直さ」にあった。劣勢のサブ組ではサポートも遅れ気味になるので、とにかく自分でもって出るしかなかった。だから迷わずドリブル突破にかかれた。しかしレギュラー組にはいると、周囲からタイミング良くいろいろな声がかかる。すると、その選手は、素直に従ってしまうのだ。
 はっきりしているのは、彼女の問題が、技術や体力ではなく、精神面、あるいは「考え方」にあるということだ。サッカーのコーチたちは、それを「パーソナリティーの問題」と呼ぶ。

 「パーソナリティー」という言葉を初めて聞いたのは、オランダ人のウィール・クーバー・コーチからだった。
 名コーチとして知られていた彼は、80年代のはじめに心臓を患い、長期の療養生活を余儀なくされた。そしてその間に世界の名手のプレーのVTRを見て彼らのテクニックを分析し、その習得方法を考案した。それは、画期的で、劇的に効果のある練習プログラムだった。
 そのプログラムは国際的にも有名になり、オランダだけでなく、イングランドやアメリカなどの少年少女の間に瞬く間に広まった。現在のオランダ代表には、「クーバー式」で育った選手が圧倒的に多い(日本でも現在徐々に広まりつつある)。
 しかし、テクニックの習得はクーバーの最終目的ではなかった。テクニックを身につけることによって創造的なプレーができるようになり、最終的には「パーソナリティー」のある選手を育てることが狙いだったのだ。

 84年にクーバーが来日したとき、「パーナリティー」とは何か、何回も話を聞いた。彼はていねいに説明してくれるのだが、いまひとつ明確なイメージがつかめなかった。
 ところがある日、彼は突然私にこう言った。
 「さっきのきみ、あれがパーソナリティーだよ」
 ある会合で、社会的に非常に地位の高い人と同席し、私はもっぱら聞き役に回っていた。しかしどうしても訂正しておかなければならないことがあり、話の腰を折って自分の意見を言った。クーバーはそれを指して「パーソナリティーの表れだよ」と言ったのだ。
 いいサッカー選手とは、自立した人間であり、明確に自分の考えをもち、あらゆることを自分で判断して、自分の行動に責任をもてる人間のはずだ。そうした強い「パーソナリティー」がなければ、一人前のサッカー選手と呼ばれることはない。

 チームは仲良し集団ではいけない。少数のリーダーと「イエスマン」の集まりでは強くなることはできない。11の異なる「パーソナリティー」がひとつの目標に向かってまとまったとき、本当に強いチームができる。
 人間は本来、誰でも立派な「パーソナリティー」をもっているはずだ。コーチの仕事とは、それを明確に表現するよう、勇気づけることにほかならない。
 「サッカーは少年を大人にし、大人を紳士にする」という言葉がある(女子の場合、「少女を大人に」か)。
 4月のワールドユースでは、短期間のうちに選手たちが青年から大人になっていく姿を見ることができた。その変化があったからこそ、準優勝という成績があった。オリンピックを目指すアジア予選が始まった。この予選を通じて、青年から本物のプロに成長する選手をひとりでも多く見たいと思う。

(1999年6月14日)

No.269 対戦国の国歌に敬意を

 国旗・国歌の法制化は先送りされた。しかし6日の日曜日、横浜国際競技場では日の丸が乱立し、君が代の大合唱が起こった。サッカーファンにはもう見慣れたものになった国際試合前のセレモニーだ。
 サッカーの代表チーム同士の国際試合では、試合前に両国の国歌を吹奏あるいは斉唱する慣例になっている。クラブチームの国際試合では行わないが、「代表」と名がつけば、ユースでも女子でも、このセレモニーが行われる。
 そして近年、日本のサポーターたちは、試合前に声を合わせて君が代を歌うようになった。6日のキリンカップ、日本×ペルー戦でも、女性歌手の独唱に合わせて、6万人を超すサポーターが君が代を歌った。
 彼らの大半は、国旗・国歌問題に強い関心があるわけではないと思う。世界中のどこのサポーターもしていることだから、「サポート活動」の一環として当然のこととして自然に歌っているだけなのだ。

 相手チームの国歌のときにも、日本のファンは「世界の常識」で行動することができる。起立し、相手国の国旗を尊重して日の丸は下げ、国歌が終わると盛大な拍手を送る。
 キリンカップのような親善大会だけではない。何が何でも勝ってほしいと日本中が祈ったワールドカップ予選でも、日本のファンは韓国やイランの国歌に敬意を表し、拍手を惜しまなかった。日本のサッカー場でも、国際試合の「マナー」が根づき始めている。
 しかしまだまだ改善を要する点がある。以前から気になっていたことを、ここでひとつ指摘したいと思う。細かなことに聞こえるかもしれない。しかし3年後に迫ったワールドカップで世界中のサッカーファンに楽しい思いをしてもらうために、是非とも必要だと思うのだ。
 国歌のときに動いている人が多すぎるという点だ。

 場内アナウンスにうながされるまでもなく、国歌になるとスタンドの大半が起立する。しかしそのなかで、ゲートから自分の席へ向かって移動を続ける人のなんと多いことか。そしてピッチの周辺でも、国歌の最中というのに、忙しそうに、そして無神経に動いている人がなんと目立つことか。
 国歌演奏の間の選手たちのすばらしい表情をとらえ、ファンに伝えるのが仕事のカメラマンたちは仕方がない。しかしそれ以外の人は、どんな仕事をもっていようと、その場に直立しなければならない。
 そしてスタンドのファンも、自分の席にたどり着いていないときには、ゲートや通路や階段などそのときにいる場所でピッチに向かって直立し、国歌が終わるまでその場で待たなければならない。それが、他の国の国歌に対する礼儀正しい態度だと私は思う。
  考えてみてほしい。自分たちが非常に大事にしているもの、人によっては神聖とさえ思っているものを、他人が軽視し、無視するような態度をとったら、どんな気持ちがするだろうか。逆に、しっかりと敬意を表してくれたら、どれほど気持ちのいいものか。

 相手国の国歌のときには、スタジアムは水を打ったように静まり返るようにしよう。そして、演奏が終わったら、スタジアムにいる全員が惜しむことなく拍手を送ろう。さらにそれを、東京や横浜だけでなく、ワールドカップの行われる全会場都市に広め、徹底しよう。
 こんな雰囲気になったら、選手たちの闘志はいやでも燃え上がる。スタンドにいる側の気持ちも高揚する。そして日常から離れた「特別な試合」が生まれる。2002年のワールドカップを、そんな素晴らしい雰囲気のなかで見たいと思うのだ。

(1999年6月9日)

No.268 中田英寿 戦いぬいた「1シーズン」の重み

 中田英寿の「1シーズン」が終わった。
 昨年九月から先月の23日まで続いたイタリア・リーグ。中田はペルージャの「セリエA」の座確保に大きく貢献した。
 開幕戦で王者ユベントス相手に2ゴールを奪った。ホームスタジアムで次つぎとゴールを決め、強豪を倒した。地元メディアからも高い評価を受けた。しかし私は、何よりも、彼が見事に「1シーズン」を戦い抜いたことに感心する。
 約8カ月にわたってノンストップで続くセリエA。中田は、その全34試合のうち33試合にフル出場。欠場したのは、昨年10月、大阪でのエジプト戦に強行日程で出場し、イタリアに戻った直後の1試合だけだった。出場停止もなかった。
  10ゴールを挙げたことよりも、大きなケガや体調不良もなく、毎週毎週90分間のプレーを積み重ね、約3000分間にわたって一歩も引かない戦いを持続したことに、私は感嘆する。

 いいことばかりではなかった。チームはアウェーで負け続け、シーズン途中に監督が交代。中田自身も、終盤には疲労の色が濃く、タックルにさらされ続けた両足が「休んでくれよ」と叫んでいるようにさえ見えた。
 それだけに、最後の力を振り絞ってアウェーでウディネーゼに勝った試合は感動的だった。中田の技術の高さ、身体的な強さ、視野の広さ、そして類まれなパスのセンスが余すところなく発揮され、ペルージャに2ゴールをもたらしたのだ。
 8カ月間にわたる戦いの末に私たちが見たのは、あらゆる面で大きく成長した中田だった。そしてこれこそ、「リーグ戦」のもつ最大の力なのだ。
 Jリーグでは、相も変わらず「2ステージ制」が行われている。わずか2カ月半、15試合で優勝が決まるシステム。「勢い」がつかなかったチームは早ばやと「消化試合モード」に切り替わり、第1ステージが終われば、すべてが「リセット」され、再スタートできる。

 あまりに見事な「反リーグ戦的」なシステムではないか。8カ月間もの緊張の持続を求められるセリエAと比べると、なんとチームや選手を甘やかしていることか。甘やかせば、当然、選手がリーグ戦から得られる経験、そして成長は小さくなる。
 アジアでは年間の国際試合や大会の「カレンダー」が確立されておらず、代表の日程が不確実なため、8カ月間も継続するリーグ戦を組むのが難しいという現状はある。しかし少なくとも、「1ステージ制」にして30試合を戦った後に優勝が決まるシステムにすべきだ。
 先週、クアラルンプールで思いがけなく中田に会った。そこで興味深い話を聞いた。最終戦の後半開始直前に、ペルージャのサポーターが発煙筒を大量に投げ込み、その処理に時間がかかった事件だ。テレビの解説者は「相手GKにプレッシャーをかけるため」と話していた。
 「そうじゃないんです。後半のキックオフを遅れさせるためだったんですよ」

 同じ時刻開始の他会場の試合結果が、ペルージャのセリエA残留に影響する。相手の試合が5分間でも先に終われば、当然有利だ。サポーターは、チームに協力しようと、後半開始の「妨害工作」をしたというのだ。
  どんな理由であろうと、ピッチに発煙筒を投げ込む行為が許されるものではない。国際サッカー連盟のたびたびの警告にもかかわらず発煙筒使用がなくならないイタリアの安全対策には大きな疑問がある。
 だがこのエピソードは、サッカーに対するイタリアの人びとの激しい気持ちを端的に表現している。厳しい目にさらされるリーグで、中田は「1シーズン」を戦い抜いた。その経験は、計り知れない価値がある。

(1999年6月2日)

サッカーの話をしようについて

1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。

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