「かんとう村」といっても、東京都民でも知らない人が多いだろう。
調布市の西の端から府中市、三鷹市にまたがる広大な地域がある。アメリカ軍調布基地の跡地だ。返還後、滑走路施設は「調布飛行場」となり、その周辺にスポーツ施設がつくられた。野球やサッカーのグラウンドがたくさん並んでいる。アメリカ軍の宿舎が「カントウ村」と呼ばれていたことから、運動施設は「かんとう村運動広場」と呼ばれるようになった。
国道20号線(甲州街道)を西に走っていくと、中央自動車道の調布インターを過ぎたあたりで右手に広大な空き地が開け、しばらくすると東京オリンピックのマラソンの「折り返し地点」の標識が見える。そこが「かんとう村」の入り口だった。いまそこは、大がかりな工事現場の出入り口になっている。「東京スタジアム」の建設だ。
実はこのスタジアム、私たちのチームがよく利用していたサッカーグラウンドのあった場所に建設が進んでいる。周囲の立派な木立が無惨に切り倒され、いよいよ工事が始まるとき、私たちは貴重なグラウンドがひとつなくなると失望していた。しかしまだまだ使われていない土地があったらしい。少し西寄りの場所に、以前と変わらぬ数のグラウンドがつくられた。
ある日練習に行くと、巨大なクレーンが目についた。やがて大きなスタンドの骨格が姿を現した。練習に通うたびにスタジアムが「成長」していくのがわかる。来年の暮れには、近代的なスタジアムが誕生するのだ。
当初の計画は「サッカー専用」だった。しかし諸事情で陸上競技との「兼用」となった。建設計画も、当初の97年完成から99年完成へ、そして最終的に2000年末完成へと延びた。しかしこうして形ができてくると、新スタジアムへの期待がふつふつと湧いてくる。
現在J2(Jリーグ2部)で2位につけ、J1昇格への好位置にいる「FC東京」は、再来年、2001年のシーズンからここをホームスタジアムにして戦うことになっている。
FC東京は、92年に始まった旧JFLに「東京ガス」という名称で参加し、年ごとに力をつけ、成績を伸ばしてきた。旧JFL最終シーズンの昨季には、見事初優勝を飾っている。そして今季、J2入りを前に「FC東京」に名称変更し、J1昇格へと目標を定めた。
Jリーグが誕生して以来、東京にホームタウンを置くクラブがなく、都民のサッカーファンは寂しい思いをしてきた。しかしFC東京の誕生で、ようやく思い切り応援できるクラブができた。FC東京がJ1クラブを次々となぎ倒して進出したナビスコ杯の準決勝では、国立競技場に4万人を超すファンがつめかけて声援を送った。J1に上がって東京スタジアムを使えるようになれば、この試合以上に盛り上がるのは必至だ。
さらに、最近になって、ヴェルディ川崎が2001年にホームタウンを川崎から東京に移し、この東京スタジアムを使用する計画が報道された。
川淵三郎Jリーグチェアマンが、まだ正式に移転申請が出てもいない時点でそれを容認するような発言をするのは非常におかしい。しかしJリーグのクラブが「一私企業」として生き残りを理由に権利を強行するなら、移転を止めるのは難しい。
心配なのは、「移転前、2000年のヴェルディはどうなるのか」という点だ。川崎を「足げ」にして出ていくクラブを、市民はもう応援しないだろう。
いずれにせよ、完成と同時にJリーグの新しい拠点となる東京スタジアム。21世紀の幕開けとともに、東京にもようやく本格的なJリーグ時代が到来することになる。
(1999年10月27日)
10月17日、日曜日。午前5時40分起床。どんよりと曇り、寒い。数日前までの暑さがうそのようだ。
友人が迎えに来てくれて、6時半に出発。銚子岬の近くの茨城県波崎町に向かう。前日から40歳以上の大会が開催され、私のチームが参加しているのだ。途中渋滞もなく、安全運転で8時半に到着する。
利根川と鹿島灘にはさまれたこの広大な町には、数十面のサッカーグラウンドが点在している。そのすべてが芝生だというから驚く。道に迷わずたどり着けたのは幸運だった。
前日のグループリーグに続く決勝トーナメント。準々決勝の相手は強豪だ。前日2試合した仲間はみんな疲労の色が濃く、捻挫で動けない者もいる。
前半、私のチームが見事なシュートを決めるが不可解なオフサイドの判定。結局0−0で引き分け、PK戦で敗れる。いつでも出られるように準備していたが、監督はついに私の名前を呼ばなかった。
負けても順位決定戦がある。気を取り直して別のグラウンドに移動する。大会最後の試合。準々決勝に出場しなかったメンバー全員が出る。私はボランチ。11人のフルゲームは久しぶりだったが、私より15歳も年上の人もがんばっている。弱音ははけない。そして後半、私が交代した直後に決勝点がはいる。
結局、私たちのチームは5試合戦って失点は0。PK戦負けがひびいて2年連続優勝を逃したが、まずまずの成績だった。
みんなでグラウンドで弁当を食べ、時計を見るとまだ1時を回ったばかりだ。銚子発2時43分の特急「しおさい」で帰ろうと考えていたが、友人の車で東京に戻ることにする。
いまにも降りだしそうな天候のためだったのだろうか、高速道路は休日の午後とは思えない交通量の少なさで、3時には東京に到着する。おかげで、J2のFC東京×コンサドーレ札幌戦のテレビ中継を後半から見ることができた。
エースのアマラオを欠く東京は攻撃の最後の段階に力強さがない。オリンピック代表から外されて前日チームに戻った札幌の吉原が反応よくクロスバーからのリバウンドを叩き込み、これが決勝点となる。江戸川競技場は両チームのサポーターで埋まり、非常に雰囲気が良かった。
テレビ中継が終わってからシャワーを浴び、支度をして出発。オリンピック最終予選の最初のホームゲームを迎える国立競技場には期待感が渦巻いていた。
試合中に東京新聞の「早版」用原稿を書き、試合終了後、監督記者会見を聞いてからももう1本原稿を書く。東京近辺ではこの記事が読まれるはずだ。
急いで帰り、テレビをつける。イタリア・リーグ「セリエA」のベネチア×インテルの生中継は、もう前半の終盤だ。名波が元気に走り回っている。これまでの「左サイド」ではなく、中央で「ボランチ」のようだ。
後半立ち上がり、名波が鋭い出足でボールを奪い、サイドに振って、ベネチアが先制点を奪う。ベネチアの今季初勝利は名波のセリエA初勝利。それが首位インテルからの金星だった。
引き続き12時20分にベローナ×ペルージャの録画放送が始まる。中田はいつものように「ウルトラバランス」のドリブルを見せるが、ペルージャは相手GKの好守に得点できず、カウンターから1点を食らう。
この試合の前半終了後、どうしようもない眠気が襲ってくる。最後まで見たかったが、このままテレビの前に座り続けていても頭には何もはいってこないだろう。翌朝VTRを見ることにして、睡魔に白旗を上げる。
ベッドにはいって考える。思えば、朝から晩まで、サッカー漬けの1日だった。まあ、たまにはいいだろう。
(1999年10月20日)
「ボールは丸い」
本紙読者には、運動面での財徳健治記者の同名コラムでおなじみのフレーズだろう。サッカー独自の言い回しだ。
丸いから、どちらにはずみ、転がるかわからない。そこから、予想外の展開や結果になることを、こう表現する。
たとえば、先週土曜のオリンピック予選、対カザフスタン戦を前に。「実力は明らかに日本が上。しかし何が起こるかわからないよ。『ボールは丸い』からね」などと使う。
この言葉が、いつごろ、誰によって生み出されたのか、寡聞で知らない。ただ、私がサッカーを始めたころ、1960年代には、もう広く使われていた。
アジアサッカー連盟の機関誌「AFCニューズ」編集長マイケル・チャーチ氏の話では、おもしろいことに、アラブ諸国でもまったく同じ表現をするという。しかしサッカーの母国である英国には、この言葉はない。
予想外のことが起きたときには、「It's a funny old game.(昔からおかしなところのあるスポーツだったよ)」とか、「a game of two halves(前半と後半、ふたつのハーフがあるスポーツ)」などと言うらしい。
先週土曜のカザフスタン戦。前半、圧倒的に押し込んで中田英寿のゴールで1点をリードした日本は、後半、うって変わって積極的になった相手に雨あられのシュートを打たれた。まさに「ふたつのハーフ」のゲームだった。そして丸いボールがどちらに転がるかわからないように見えた時間帯もあった。終了間際に稲本潤一が2点目を決めたとき、幸運な勝利だったと感じた人も多いだろう。
しかし実際には、日本はほとんど相手に決定的な形をつくらせなかった。数多くのシュートの大半は、ペナルティーエリア外からの運だよりのものだった。本当に危なかったのは、ただ一瞬、左CKがウラズバフチンの頭にぴたりと合ったときだけだった。しかしヘディングシュートは右に大きく流れた。
アルマトイのグラウンドコンディションの悪さで日本が得意とするパス攻撃ができないことを、日本のトルシエ監督はよく理解していた。そして、その結果、試合が非常にフィジカルなものになるだろうということ、その身体的接触の戦いに勝たなければならないと、この1週間強く言ってきたという。
押し込まれても、日本の選手たちはボールのあるところで一歩も引かない戦いを見せた。何をしなければならないかをきちんと理解し、それをやり遂げる力をもった選手たちは、本当に落ち着いて、頼もしく見えた。
ボール扱い、パスワーク、スピードに長ける日本が、あえてそれを忘れ、カザフスタンが唯一得意とするフィジカルな戦いの場に出て行こうと監督と選手が一致したとき、この結果は見えていたように思う。
さらに言えば、この最終予選で最も重要なアウェーのカザフスタン戦ではペルージャの中田の力が必要であるとしたトルシエの判断もまた、的確なものだったことが証明された。
偶然や幸運で生まれた勝利ではない。相手の力を正確に把握し、試合の展開を入念にシミュレートしてたてた戦略の勝利だった。結果は、非常に「ロジカル」(論理的)だったのだ。
「丸いボール」は、傾いた場所に置かれれば、100パーセント上から下に向かって転がる。予測に反した方向に転がることがあるとすれば、それは傾斜を読み間違ったときのはずだ。ボールには意志はなく、常に「地球の真理」というロジックに従って転がるからだ。
カザフスタンに対する勝利は、「おかしなところのあるゲーム」ではなかった。まさに、ボールは「丸く」、ロジカルな方向に転がったのだ。
(1999年10月13日)
先週土曜日(10月2日)のカザフスタン×タイ戦で、シドニー・オリンピックのアジア最終予選C組がスタートを切った。
両国に日本を加えた3カ国で1つの代表権を争う。「ホームアンドアウェー」方式、すなわち、互いのホームで1試合ずつ戦うリーグ戦だ。
3チームの戦いで最後に登場する日本。ライバルたちのプレーぶりを先に見ることができたのは、大きなアドバンテージだ。しかも、最初のカザフスタン戦を乗り切れば、東京で試合が連続する。2日の試合が0−0の引き分けだったことで、バンコクでの最終戦を待たずに出場権獲得の可能性も出てきた。
2日の試合は、その日の深夜にテレビ放映された。私が注目したのは、両チームの戦いではなく、グラウンドコンディションだった。ちょうど2年前、ワールドカップ予選をここで戦ったときには、非常にでこぼこが多かったからだ。
テレビで見た限り、芝生の状態は2年前とほとんど同じだった。きれいな緑なのだが、グラウンダーのパスは10メートルも走ると細かなバウンドを始める。ドリブルも、足元に転がしているはずのボールがあちこちにはね、非常にやりづらそうだ。
Jリーグが始まって以来、日本のスタジアムのグラウンドコンディションは非常に良い状態が保たれている。
かつては、雨水を流すために、中央から外側に向かってゆるやかに傾斜していた。しかし現在は地下排水システムにより完全にフラットになった。しっかりとした手入れと管理ででこぼこもなく、短く刈り取られた芝は、現在の日本が得意とする速いパスを主体とするプレーをフルに生かしてくれる。
そうした「最高のグラウンド」に慣れきった現在の日本選手たち。アルマトイのスタジアムで急にでこぼこのグラウンドになったとき、大きくリズムを狂わせないか、それが心配なのだ。少なくとも、2年前の日本代表チームはその影響をひどく受け、引き分けに持ち込まれた。
少し気になるのは、今回の試合の直前合宿をドイツで行ったことだ。ドイツはグラウンドの芝生の状態では世界最高水準の国で、どこに行ってもJリーグ・スタジアム程度のグラウンドがある。
実は、その結果、現代のドイツは、世界で最もグラウンドコンディションに影響されるチームになってしまっている。以前、国立競技場のグラウンドが改善される前のトヨタカップでは、ドイツの選手たちはボールコントロールに苦しみ、試合運びがぎくしゃくして苦戦した。
スポーツニュースでは、トルシエ監督がヘディングの練習に力を注いでいることが紹介された。「長身ぞろいのカザフスタン対策」と解説されていたが、むしろ、グラウンドコンディションに関係のない空中戦で勝負をつけようというアイデアと、私には見えた。2年前のワールドカップ予選で、日本がアルマトイで記録した唯一の得点は、右CKに秋田が飛び込んで頭で叩き込んだものだった。
ただ、今回のチームは、ボールテクニックの面で2年前のチームをはるかに上回っている。それが、グラウンドコンディションに対する私の不安を杞憂に終わらせるかもしれない。
ことしの4月にワールドユース選手権が行われたナイジェリアのグラウンドは、アルマトイほどではないが、かなりの凹凸があった。しかし日本の選手たちの技術は、それをものともしなかった。多少イレギュラーバウンドしてもコントロールの精度が落ちないのは、このチームの技術的な特徴でもある。
さて、10月9日、アルマトイのグラウンドは、日本チームを相手にどんな「パフォーマンス」を見せるだろうか。
(1999年10月6日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。