ブラジルで仕事をしている友人が、1冊の写真集をかかえて帰国した。ロンドンの書店からは、頼んであった写真集が到着した。そして、友人の日本人カメラマンは、出版したばかりの写真集を送ってきた。年末の忙しさも忘れて、3冊の写真集に見入った週末だった。
「Brasil Bom de Bola(ブラジル、サッカーの名手)」という題名の写真集は、大判で重さが2キロもある。よくこんなものをかかえてきてくれたと感謝したが、ページを開いてまた驚いた。十数人の写真家が競作し、歌手、詩人、作家、作曲家など、ブラジルの文化をリードする多彩な人びとが文章を書いている。しかも、ポルトガル語とともにフランス語、英語も併記されているのだ。リオデジャネイロの貧しい少年たちを救う民間機関支援のためにつくられた本という。
プロのスタジアムや、スターの写真は一切ない。ブラジル・サッカーの「原点」を思わせるストリートサッカー、全盲のチームの試合、刑務所の中での試合など、サッカーがこの国の生活文化にいかに密接に結びついているか、これほど雄弁に語った本はかつて見たことがない。
一方、イングランドの「The Homes of Football(サッカーのある場所)」は、スチュアート・クラークという写真家の2冊目のサッカー写真集。彼は旧式の中型カメラ(日本製)を使い、スタジアムを中心とした写真を撮っている。クラブ・スタジアム改装を援助する「フットボール・トラスト」に協力するプロジェクトの一環だという。
真剣そのもののまなざしでボールを追う少年ファンの表情もすばらしいが、この本の最大のみどころは3ページ大に引き伸ばされたスタジアムの全景写真。緑のピッチ上を走る選手たち、そして固唾を飲んで見守る超満員のファン。ページを開くたびに、いろいろなスタジアムの雑踏のなかに一気にジャンプできる。これもまた、「サッカーの母国」に根づいた文化の深さを思い知らされる1冊だ。
そして、わが日本の代表選手は、近藤篤カメラマンの「ボールの周辺」(NHK出版刊)だ。
彼は、南米、カリブ、アジア、アフリカ、そしてヨーロッパと、世界の各地でサッカーのビッグゲームを撮りつつ、「ボールのある風景」を執拗に追ってきた。それは、20世紀の地球上に大繁殖した人類という種族が、いかにこの球体に魅せられ、それを生きる糧にしているか、見事に表現している。
近藤カメラマンは「語学の天才」であると同時に、誰とでもすぐ友達になる天才でもある。それは、彼が自分というものを飾らず、相手にストレートに見せることができる希有な人物であるからだ。世界中のどこの町に行っても、彼はそのへんで遊んでいる子供を遠慮なくつかまえ、遊びのなかにはいりこみ、やがて1枚のぬくもりのある写真へと結晶させる。
三冊の写真集に共通するのは、サッカーの写真でありながらスター選手が主役ではないことだ。そして、それでいながら、スターの写真以上にサッカーの魅力を雄弁に語り、楽しく胸躍る気分にさせてくれることだ。
戦争に明け暮れた人類の20世紀、サッカーは世界中の人びとを元気づけ、子供たちに勇気を教え、夢や希望を与え続けてきた。「20世紀」は来年までだが、1999年という大きな変わり目の年に世界の各地で時を同じくするようにメッセージあふれるサッカーの写真集がつくられたのも、あるいは偶然ではないのかもしれない。
3冊の写真集は、新しい世紀のサッカーに向けて、「20世紀のように、世界に元気や夢を与える存在であれよ」と、呼びかけているような気がする。
(1999年12月22日)
先週の本コラムで、私はワールドカップ2002年大会の日本組織委員会(JAWOC)の姿勢を厳しく非難する記事を書いた。サッカーファンの心を理解しようとせずにどんな大会を準備しようとしているのかと、絶望的な気持ちを書いた。
今週は、より重要なその続編を書く。日本のサッカーファンがどのようにこの大会に「参加」し、ワールドカップ2002年大会を本当に世界の「サッカー・ピープル」のものにするかという、ひとつの提案だ。
「ワールドカップのチケット、なんとかならないかな」
最近、高校時代のサッカー仲間にこんなことを頼まれた。
もっともな話だ。高校時代から30年以上もサッカーを愛し、現在も会社のチームでプレーをしている。Jリーグのテレビ中継も時間が許す限り見て、観戦にも行く。しかし家族をもつサラリーマンには、これまでワールドカップ観戦など夢のまた夢だった。初めて自分の国、あるいは自分の町で見るチャンス。だがチケット入手が容易でないことは明らかだ。だからそんな言葉が出てきたのだ。
おそらく、日本中のサッカーファンの大半が、同じような気持ちをもっていることだろう。ファンだけではない。サッカー協会の役員、Jリーグクラブの関係者、審判、選手、コーチたち、すべての「サッカー・ピープル」が、「なんとか自分のチケットを入手できないか」と思っているに違いない。
しかし敢えて言いたい。
「それは間違っている」。
聞いてほしい。
日本に割り当てられる入場券は総数で75万枚だという。しかし日本サッカー協会の登録選手だけで現在90万人もいる。そのほかに、OB、熱心なサッカーファンが数百万人いるだろう。ワールドカップ2002年大会を1試合でも自分の目で見ることができる人は、そのごく一部にすぎないのだ。
では地元でのワールドカップとは、日本のサッカー・ピープルにどんな意味をもっているのか。私は、これを「楽しむ大会」ではなく、「参加する大会」ととらえるべきだと思うのだ。
JAWOCだけで大会を動かすことはできない。実際に大会の成功を支えるのは、無数のボランティアスタッフだ。そのボランティアとして大会に参加することを、日本中のサッカー・ピープルに呼びかけたい。
大会会場の案内係、通訳、輸送係など、自分に適した仕事が必ずある。幸運にもチケットを入手することができたら、その日は休んで、世界最高峰のサッカーを楽しめばいい。しかしそうできなくても、ボランティアとして参加できれば、その体験は、サッカー・ピープルにとっては一生の宝になるはずだ。
日本のサッカー・ピープルがこうした形で参加することは、同時に、世界のサッカー仲間に心から楽しみ、喜んでもらえる大会にする道が開けるということも意味している。
ワールドカップを世界中のサッカー・ピープルのための大会にするんだという意識の高いボランティアが増えれば、たとえば「ボランティア連絡会」などを組織し、サッカー・ピープルとしての考え方や企画アイデアを大会運営に反映させることも可能になるはずだ。
JAWOCという「お上」が準備するワールドカップをただ座って待っていたら、残るのは不満と失望だけになる。
ワールドカップを「楽しむ」チャンスは、これから先にいくらでもある。しかし「参加する」チャンスは今回限りなのだ。それを日本のサッカー・ピープルがどう生かすかで、それぞれの人にとってのワールドカップも、そして2002年大会それ自体の意味も、大きく違ってくるように思うのだ。
(1999年12月15日)
「日本サッカー協会はどうしちゃったのかな?」
昨夜東京で行われた2002年ワールドカップの予選抽選会に、世界の各地からたくさんのサッカー関係者や報道陣がやってきた。そのなかの以前から日本のサッカーとなじみの深い人びとから、異口同音にそんな言葉を聞いた。
いまワールドカップの準備を進めているのは、「財団法人2002年FIFAワールドカップサッカー大会日本組織委員会」、略称JAWOCである。
ワールドカップは単なるスポーツイベントではない。「人類の祭典」にふさわしい大会にするには、国家レベルでの受け入れ体制が必要になる。
この大会を日本にもってこようという努力は(財)日本サッカー協会を中心に行われたが、いったん開催が決まれば、政府や会場地の自治体、そして数多くの民間企業が力を合わせての準備となる。サッカー界を超えたところでJAWOCが組織されるのは当然のことだった。
しかしそのJAWOCは、いったいどんな大会を作り上げようとしているのだろうか。抽選会をクライマックスとする約1週間の様子を見て、「これは大変なことになるかもしれない」という、恐怖にも似た危機感が襲ってきた。
3日金曜日に、JAWOCは抽選会の司会者やゲストの顔ぶれを発表する記者会見を開いた。そのなかに、浦和レッズの小野伸二選手の名があった。
「なぜ、ナカタがこないのか。ペルージャが拒否したのか」
会見の席上、外国人記者からこんな質問が出た。
「たしかに、中田選手は現在の日本のナンバーワンで、世界にもよく知られています。しかし彼より二歳若い小野選手も、勝るとも劣らない才能の持ち主です。2002年大会では、必ず世界に注目されるはずです。いま、この時点で彼を知ることは、あなたにとっても非常に有意義だと思いますよ」
そんな答えが聞かれるのではないかと、内心期待した。しかしJAWOCの遠藤安彦事務総長の言葉は、耳を疑いたくなるようなものだった。
「人選はサッカー界にお願いした。国内にいる選手のほうが都合がよかったのでしょう」
驚くべきことに、ワールドカップ日本組織委員会の事務総長は、「サッカー界」の人ではなかったのだ。
現在、JAWOCには200人近いスタッフがいるが、サッカー協会から出ているのは役員(理事)2人、職員4人の計6人にすぎない。それ自体は問題ではない。問題なのは、自治省出身の遠藤事務総長の言葉に代表されるように、サッカーに興味をもっていない、あるいはサッカー愛好者の心を理解していない人が少なくないことだ。
ワールドカップはたしかに「国家的行事」である。だがそれ以前に、ファン、選手、審判、コーチなど、世界中の「サッカー・ピープル」の夢の大会でもある。こうした人びとの気持ちを理解できずに、どんな大会を準備しようというのか。
世界の各地からきたサッカー関係者や報道陣は、JAWOCのそうした傾向を敏感に察知したに違いない。だから「サッカー協会はどこにいるのか。何をしているのか」という、冒頭の言葉が出たのだろう。
2002年大会を、日本と世界の「サッカー・ピープル」のための大会にしなければならない。そのために、日本サッカー協会にはより積極的な関与と最大限の努力を期待したい。
同時に、日本の「サッカー・ピープル」も、JAWOCから与えられる大会を待つだけではいけないと思う。みんながもっと積極的にワールドカップに「参加」することが、「軌道修正」の大きな力になるはずだ。
(1999年12月8日)
Jリーグ1999年のノーマルシーズンが終わった。浦和レッズのJ2降格が話題になるなか、ベルマーレ平塚も今季J1最後の試合を終えた。ジュビロ磐田を最後の最後まで追いつめた2−3の敗戦だった。
来シーズン、クラブは「湘南ベルマーレ」としてJ2で再スタートを切る。主要出資企業のフジタ工業が経営から完全に手を引き、今月発足する新運営会社に引き継がれる。そして新スポンサーを探すとともに、湘南全域の市民から広く出資を仰ぐ「市民クラブ」となる。
未曾有の不況下、企業の「スポーツ放棄」が始まって久しい。サッカーでも旧JFLの企業チームが次々と休部した。昨年には、全日空がJリーグの人気クラブ横浜フリューゲルスを放棄し、消滅させる事件も起きた。
そうしたなかで、1年間の時間をかけ、負債を残さずに新会社への「軟着陸」を果たしたフジタ工業のJリーグからの撤退ぶりは、希有の存在だった。
「ベルマーレは未来永劫(えいごう)に継続するんだ」
銀行の厳しい管理下に置かれたフジタ工業が、もう資金面でベルマーレを支えられない状態になった昨年、クラブの経営責任者である社長の重松良典(69)は、その信念のもとに「生き残る」ための改革を始めた。
「人」「モノ」「カネ」のすべての面で負担にならない形にしておかなければ、誰も引き継いではくれない。何よりも必要なのは、これまでの万年赤字体質を改めることだった。
入場料収入を柱とした収入源は限られている。収支のバランスを取るためには、徹底して支出を抑えなければならない。昨年のレギュラー選手を全員放出し、若手選手を中心としたチームをつくった。スタッフ数を削り、試合運営経費も最大限切りつめてボランティアに頼った。
そうしたなかで、選手たちには、「あなたにとってサッカーとは何かを考えて取り組んでほしい」と要求した。カネを得る手段なのか。名声か。それとも、まったく別の何かなのか。
スター選手はおらず、経験の浅い選手ばかりで、負けが続くかもしれない。「そんなチームを見に来てくれるファンに何を返すのか。それを考え抜いて、プレーに反映させてほしい」。
同時に、クラブを引き継ごうという地元の人たちには、「地域にとってベルマーレとは何かをよく考えてほしい」と頼んだ。
負けても負けてもくさらず、懸命に勝利を追ったベルマーレ。その姿はやがて地域の人びとに支持され、「地元にJリーグクラブをもつこと」の意味の理解も深まり、広まっていった。
65年の旧日本サッカーリーグ創設の中心メンバーのひとりで、後にはプロ野球広島東洋カープの球団代表、そして90年代には日本サッカー協会の専務理事代行も務めた。半生をスポーツ運営で過ごしてきた重松のこの1年間を支えてきたのは、Jリーグの夢(理念)だった。
「Jリーグのクラブは、楽しみと感動をもたらし、子供たちに夢を与え、地域を活性化する。そうしたスポーツ文化が、より豊かな生活の実現につながる」
だからこそ、継続させなければならない。いったん始めたものを、企業の都合でつぶすようなことがあってはならない。
誕生してまだ7年のJリーグ。理念の実現にはまだ相当な時間が必要だ。しかし今季のベルマーレのように、夢を信じて努力する人びとがいる限り、一歩一歩前進していくはずだ。
「常識はずれの面もあったかもしれないが、今季のベルマーレの運営は今後のJリーグクラブのひとつのモデルになるはず」と、重松は胸を張る。
そしてベルマーレは生き残った。引き継がれた夢がどのように広がっていくのか、楽しみにしたいと思う。
(1999年12月1日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。