先週の土曜に中田英寿の所属するASローマがセリエAで対戦したピアチェンツァのDFラインに、ピエトロ・ビエルコウッドという選手がいた。
1959年4月6日生まれというから、ことしの4月で41歳を迎える。しかしいまもバリバリの現役で、ハードタックルを得意とするストッパーとして活躍している。16歳でプロにデビューし、現在のピアチェンツァが9クラブ目。サンプドリア在籍が12シーズンといちばん長いが、ローマ、ペルージャでもプレーし、そしてユベントス、ACミランといったビッグクラブでも活躍した。
179センチ、75キロ。とりたてて大柄というわけではない。しかし生まれついての強靱な肉体で、これまで無数のストライカーたちと渡り合ってきた。先週土曜日のローマ戦でも、ハードタックルでイエローカードを受けるほどだった。
40歳を過ぎてトッププロで活躍できる選手は例外としても、30代のなかばを過ぎて活躍している選手は世界中にいくらでもいる。日本でも、カズ、福田、井原、中山など「ドーハ組」などと呼ばれる世代が、30代のなかばにさしかかりながら衰えない気力でチームの牽引車的な役割を果たしている。
しかしその一方で、「スピード」と「プレッシャー」というフィジカルな要素を年ごとに強めていく現代サッカーのなかでは、体力的に少しでも衰えが見えると活躍しにくい状況になってきていることも確かだ。
トップクラスのサッカーに限ったことではない。あらゆるレベルでサッカーのスピード化が進んでいる。それは、30代なかばを過ぎてなお選手としての情熱を失わない人びとにとってやっかいな問題だ。
この現象は日本国内にとどまらず、世界的な傾向でもある。最近、国際サッカー連盟(FIFA)のアントニオ・マタレーゼ副会長は、「35歳以上のワールドカップ」を検討していることを明らかにした。過去に名をなしたスターだけを集める興業目当ての大会ではない。真剣な「世界選手権」だ。
「17歳以下、20歳以下の世界ユース選手権がある。23歳以下のオリンピックがある。しかし『以下』という区切りでなければいけない理由がどこにあるのか。35歳『以上』というカテゴリーがあっても当然ではないか」と、マタレーゼ副会長は説明している。
日本サッカー協会も、ことし4月の新年度登録から「シニア」(40歳以上)のカテゴリーをつくり、チーム登録、選手登録を受け付けるという。昨年の調べでは、一種登録(男子一般)には40歳以上の選手が約1万人いた。そうした状況を背景にした登録制度の改訂だ。
そして60歳以上、40歳以上と分けた全国大会の開催もことしから予定されている。同種の大会が都道府県レベルでも組織される方向だという。
ワールドカップから草サッカーレベルまで、シニアサッカーの振興は21世紀の大きなテーマである。マタレーゼ副会長は、「それは、サッカーの社会的機能を全うすることでもある」と強調する。
日本においては、サッカーに親しむ年齢層が年ごとに上がってきている事実が挙げられる。そして一方では、少子化の影響で登録人口が頭打ちの日本サッカー協会がサッカー仲間をさらに増やす方策として、シニアのサッカーの振興が必要だ。
ビエルコウッドや、41歳までJリーグでプレーしたラモスのような「鉄人」の存在はすばらしい。しかしその一方で、普通のシニアたちが、それぞれのレベルと情熱に応じてサッカーに取り組むことができる環境をつくることは、私たちの緊急課題のひとつと思う。
(2000年1月26日)
わずか9分間のプレーだったが、城彰二がスペイン・リーグへのデビュー戦で可能性あふれるプレーを見せた。イタリアのセリエAでは、中田英寿がビッグクラブのひとつであるローマへ移籍して3日後にいきなり先発出場して活躍した。
2000年1月16日日曜日の深夜、日本中のサッカーファンがテレビの前で心ときめく時間を過ごしたに違いない。
その前夜には、セリエAのベネチアに所属する名波浩が、交代出場ながらチームの貴重な勝利に貢献するプレーを見せた。中田ほど派手な活躍ぶりではないが、名波が着実に力をつけ、持ち前の頭の良さを生かしてハードなリーグでも生き残っていけることを示した試合だった。
77年から86年まで西ドイツのブンデスリーガで活躍した奥寺康彦、94/95年シーズンにセリエAのジェノアでプレーしたカズ(三浦知良)らの先達はいた。しかし現在のヨーロッパへの進出を導いたのは、まちがいなく98年夏にペルージャに移籍した中田英寿だった。高い技術を示した中田の活躍が、日本人選手を世界の「移籍市場」に乗せたのだ。
日本でサッカーが「ビッグゲーム」になったのは、93年のJリーグ誕生だった。熱狂的なブームのなかで、少年たちはJリーグ選手、日本代表選手へのあこがれを募らせた。しかしそれ以前には、日本のサッカー少年たちのアイドルはマラドーナ(アルゼンチン)をはじめとした世界のスターだった。4年にいちどのワールドカップ中継や雑誌からの情報を通じて、少年たちは「世界」を夢見た。
現在のJリーグの選手たちの大半は、そうした少年時代を過ごしてきた。だからJリーグで活躍し、日本代表で確固たる地位を築いても、彼らは「その先」にある「世界」を見失うことがなかったのだ。
そして98年、中田が出て行く。実は私は、98年ワールドカップ終了後には数人の選手がヨーロッパに移籍すると予想していた。だが初出場の大会を3敗で終えた日本は評価が低く、話がまとまったのは中田ひとりだった。しかしそのひとりが、メンタル面でもフィジカル面でもヨーロッパの水準に達した中田であったことが幸運だった。
中田がイタリアで高い評価を受けたことによって、初めてヨーロッパで日本人選手が評価の対象になり、「移籍市場」に乗るようになった。いくつものクラブが日本人選手に目を向け始め、昨年夏に名波が移籍し、ことし城が動いた。
いま、Jリーグの若手選手に「将来の希望は?」と聞くと、10人中9人までが「世界のトップリーグでプレーしたい」と語る。残りのひとりは、「まずはクラブでレギュラーを取ること、そしてできれば代表に」と話す。しかし「その先は?」と聞くと、「そこまで行かなければ、世界でプレーすることはできないから」と答える。すなわち、10人中10人が、中田の道を追う夢をもっているのだ。
中田も名波も城も、日本では確固たるスターの地位を築いていた。それぞれに自信はあっただろうが、ヨーロッパに出るのは、その地位を台無しにする恐れを秘めた冒険だった。しかし彼らは果敢に挑戦した。
3人とも、日本国内で自分が到達した場所に心満たされることがなかったのだろう。そして新しい挑戦をすることによってのみ、サッカー選手としての闘志をかきたて続けることができると感じたに違いない。
その挑戦が、彼らに続く世代に刺激を与え、日本国内のサッカーも活気づかせる。
いい時代になってきたと思う。その時代をリードする中田、名波、城の3人に、そしてその後に続く若い選手たちに、心から声援を送りたいと思う。
(2000年1月19日)
20世紀最後の年を迎えた。
もし1000年後に人類の歴史が書かれたら、この世紀はどういう時代として描かれるのだろうか。ふたつの「世界大戦」だろうか。テクノロジー(科学技術)が進歩し、人びとの生活が大きく変化したことだろうか。そのひとつに、「スポーツの大衆化」が挙げられるのではないかと、私は思っている。そしてなかでも、サッカーという競技の世界的広まりが指摘されるだろう。
19世紀の半ばにイングランドで生まれ、世紀末までに世界中にばらまかれたサッカー。しかしそれが本当に「世界のスポーツ」となったのは、1930年に始まるワールドカップがきっかけであり、さらに、20世紀のテクノロジーの「代表選手」のひとつである航空機の発達が、重要な要素となっている。
世界のサッカーで日常的に国際交流が行われるようになったのは、1955年にスタートしたヨーロッパ・チャンピオンズ・カップ(現在のUEFAチャンピオンズ・リーグ)が最初だった。毎週週末に行われている国内リーグの合間、水曜日を使って行うというのが、この大会の重要なコンセプトのひとつだった。ヨーロッパは狭いとはいっても、その実現には航空機が不可欠な要素だった。
チームが短時間で移動できるようになって、初めてサッカーは本格的な国際化時代にはいる。それがやがて「テレビの時代」に迎えられ、地球規模の関心事となっていくのだ。
しかしその「航空機時代」への扉を叩いたのは、意外なことにヨーロッパではなく、南米の人びとだった。1927年6月5日、史上初めてサッカーチームを乗せた航空機がブラジル南部のポルトアレグレから飛び立った。乗客は、ECサンジョゼというサッカーチームだった。
その年に誕生したばかりのヴァリグ航空が所有する唯一の飛行機「アトランチコ号」は、ドイツ製の水上機だった。乗客の定員はわずかに9人。仕方なく、2人の役員と9人の選手だけがこの飛行機で旅行することになった。乗客のうち2人は、貨物室に乗せられた。残りの選手3人と役員1人は、2日前に船で出発していった。
ブラジル南部の6月は寒い。分厚いコートを着てきた選手たちを見て、ドイツ人パイロットのフォンクラウシュバッハは「10人しか乗せられない」と宣告した。しかしそれではその日の試合に支障をきたす。チームは全員で行くと主張して譲らず、飛行機は3度目の試みでようやく離水に成功した。その日の午後、ペロタスでの試合は、0−0の引き分けだった。
ポルトアレグレ−ペロタス間は直線距離で250キロ。東京−名古屋間ほどだ。アトランチコ号はぴったり2時間半で飛び、チームを試合に間に合わせた。飛行機がなければ往復で数日間も要したのだ。航空機での移動がいかにサッカーの発展に寄与したかわかるだろう。
第二次世界大戦で航空技術が大発展し、戦後は飛行機での遠征は日常茶飯事となった。そして本格的な国際化時代がきた。
便利になった反面、悲劇も起きた。1948年のトリノ、58年のマンチェスター・ユナイテッド、八七年のアリアンサ・リマ、そして九三年のザンビア。一瞬にして、ひとつの才能あふれるチームが消えていった。
今日、トップクラスのチームにとって、アウェーで試合をすることは、飛行機に乗ると同義語にさえなっている。それはもはや命がけの冒険ではない。
ことしも世界中で何千という国際試合が行われる。そして延べにすれば何万というサッカーチームが空を飛ぶことになる。
サッカーがいかに典型的な「20世紀の産物」であったか、この一事だけでも明白なように思える。
(2000年1月12日)
「決勝戦」らしい見応えのある試合だった。
名古屋グランパスの優勝で幕を閉じた第79回天皇杯。サンフレッチェ広島との決勝戦は、両チームが持ち味を発揮し、そして最後にはストイコビッチの天才が勝負を決めるという、ストーリー性にあふれていた。
シュート数は両チーム合わせてわずか8。活発な攻め合いというわけにはいかなかったが、グランパスは得意のサイド攻撃を押し通し、敗れたサンフレッチェも、もてる人材で想像力あふれるゲームを見せてくれた。「この1戦」にかける両チームの意気込みと集中力が伝わってくる好試合だった。
しかし主審としてこの試合を担当した岡田正義さん(41)は、記念メダルを受けるためにロイヤルボックスにのぼりながら、心からの満足感を味わうことはできなかったと語る。
「両チームの選手やベンチと十分な信頼関係を築くことができなかった」(岡田さん)からだ。判定に間違いはなかったという自信はある。しかし理想のゲームとは、両チームと信頼関係を築き、お互いに「よくやった。ありがとう」という気持ちで終わることだというのだ。
いくつかの場面で、サンフレッチェのトムソン監督が岡田さんや副審の判定に不満のジェスチャーを見せた。その「わだかまり」を、最後まで消せなかったのが残念だった。
「今季のJリーグでは、たまたま、サンフレッチェの試合を担当したことがありませんでした。それが、信頼関係を築けなかった原因のひとつかもしれません」と岡田さんは語る。
実はこの岡田さん、天皇杯決勝戦を担当するのは今回でなんと5年連続6回目。98年ワールドカップで主審を務め、誰もが認める日本の第一人者だ。昨年のJリーグチャンピオンシップ第2戦のレフェリーぶりは、ほれぼれとするほどすばらしかった。そんな岡田さんでも、ちょっとしたことで「理想の試合」にもっていくことができない。レフェリングというのがいかに難しいものであるかがわかる。
日本には現在、約90万人の選手とともに、約13万人の有資格審判員がいる。その頂点に立つのが天皇杯決勝戦での審判である。「元日に国立競技場のピッチに立つこと」は選手だけでなく審判としても夢なのだ。
岡田さんの「五年連続」自体大変な記録だが、実はそれを上回る記録をもつ人がいる。86年、90年と2回のワールドカップで審判を務めた高田静夫さん(現在日本サッカー協会審判委員長)だ。高田さんは、7年連続して元日に天皇杯決勝戦の主審を務めた。
天皇杯決勝戦の主審に指名されるのは、日本最高の審判と認められた証拠でもある。自分の「本業」をもちながら、高いレベルのパフォーマンスを続けるのは、並大抵のことではない。しかし岡田さんは、「高田さんの記録に追いつきたい」と語る。あと2年間、日本のナンバーワンと認められれば、それは岡田さんの最大の目標である2002年ワールドカップ出場への大きな足がかりになるからだ。
2000年は、日本のサッカーにとってこのうえなく重要な年だ。2002年を目指す日本代表がいよいよ本格的にスタートを切る。9月のシドニー・オリンピックの成果は2002年に直結するだろう。そして大会準備の面でも、いろいろなものが具体的に見えてくる。選手としてもファンとしても、この年をどう過ごすかでいろいろなことが決まってくるはずだ。
それは審判員も同じだ。岡田さんに追いつき、追い越そうと、たくさんの審判員が努力を続けている。2002年に向けてのそうした切磋琢磨のなかから、新しい世紀の日本サッカーが生まれてくるように思う。
(2000年1月5日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。