毎年1回の定期会合でサッカーのルール改正を決めている国際サッカー評議会(IFAB)の第104回会議が、先週土曜日にロンドン郊外で開かれた。
ことしの7月1日から施行される改正の大きなものはGKルール。これまでの「4ステップルール」が廃止され、保持してから「6秒以内」に手放すことだけが義務づけられた。
しかしことしの最大の話題は、近い将来の導入を見越してのふたつの新ルールの実験の承認だった。ゴール判定機の導入、そして非常に大きな影響をもちそうな、「新フリーキック(FK)ルール」の実験だ。
「疑惑のゴール判定」が問題になるたびに「機械判定」の導入が叫ばれる。いま検討されているのは、カメラではなく、テニスのサーブの判定で実用化されている「ビーム」(信号電波)を使う方式だという。
さて、「新FKルール」とは、FK前に守備側に何らかの違反行為があったときに、ボールをセットする位置を9.15メートル守備側のゴールに近づけるというものだ。ラグビー・ルールからの借用だという。ただし、前進させても、ペナルティーエリアのなかに入れることはない。
その違反には、「ボールから規定の距離(9.15メートル)離れようとしないこと」、「ボールを離さず、FKを遅らせること」、「ボールを遠くへ投げたり、けったりすること」、「言葉や行動で異議を唱えること」、そして「その他の反スポーツ的行為」と、五項目にわたる広範な行為が挙げられている。
ゴール前で攻撃側の選手が倒されてレフェリーの笛が吹かれる。ボールをセットしてゴールを狙おうとする攻撃側。しかし守備側は、あるときには判定への異議を執拗に唱え、またあるときにはボールから極端に近くに「壁」をつくり、すぐにはFKをけらせないようにする。試合は1分近く止まる。こうしたみにくい時間かせぎを撲滅し、試合をスピードアップさせることが新ルール案の目的だ。
「新FKルール」はすでにイングランドの地方のリーグ戦や、2部と3部リーグのクラブが参加するカップ戦で実験され、好評だ。昨シーズンのこのカップ戦では、実験が実施された40試合で850回のFKが行われ、レフェリーが守備側に罰則を課したのはわずか16回だった。新ルールが守備側の時間かせぎの「抑止力」になったと、この新ルールの提唱者で強力な推進者でもあるイングランド協会は分析している。
イングランド協会は、2000〜2001年のシーズン、できればプレミアリーグ、FAカップをはじめとした主要大会のすべてで「最終テスト」を実施する意向だという。
FKのたびに見せられる守備側の悪質な行為には本当にうんざりする。新ルールの妥当性に疑いはない。しかし心配な面もある。レフェリーにかかる負担が、また重くなることだ。
97年から施行されているはずのGKの「5〜6秒ルール」を思い起こしてほしい。「4ステップルール」と合わせてのGKのボール保持制限だったが、反則をとると攻撃側にペナルティーエリア内で間接FKを与えるという重大な状況になる。そのせいか最近ははほとんど適用例が見られない。GKのプレーが早くなったというより、レフェリーが判定を避けているように思えてならないのだ。
罰則に相当する行為の種類は明確に示されているが、どの程度から罰則を適用するかはレフェリーの裁量となる。レフェリーは非常に重大な判断を下さなければならず、それが新たな問題につながる恐れもある。
明確な判定基準をつくることができるかどうかが、この「新FKルール案」の成否を握っているように思う。
(2000年2月23日)
悲報を受け取ったのは2月5日午後、香港のホテルでカールスバーグカップの1回戦に出かけようとしていたときだった。
「ロクさんが亡くなりました」
東京の友人がメールで伝えてきた。パソコンの画面を眺めながら、私は言葉を失った。そして、痛恨の思いを抑えることができなかった。
高橋英辰さん、1916年辰年の生まれ、享年83歳。サッカー界のだれもが、「ロクさん」と呼んでいた。本当のお名前は「ひでとき」と読む。
ロクさんのお父さんは旧制刈谷中学(愛知県)の英語教師で、校長先生だった。そしてロクさんが子どものころから「頭に毛があった記憶がない」というほどの見事な禿頭だった。生徒たちは「SUN(太陽)」と呼んだ。そこにロクさんが入学した。
「SUNのSON(息子)だからロクだ」
以来、ロクさんとなった。
刈谷中学から早稲田に進み、卒業して日立製作所に入社する。母校早稲田の監督を経て、やがて日本代表の監督となる。57年と60年から62年の2期。東京オリンピックを前に暗中模索していた日本代表の基礎をつくったが、62年に若い長沼健に監督の座を譲り、一時は社業に専念した。しかし70年、名門日立が日本リーグで下位に低迷するなか監督として復帰、2年後にはリーグ優勝に導く。
「ブラジル流個人技」がもてはやされた当時、ロクさんは「走る日立」を掲げ、動いて動いて動き回るというサッカーの原点を示して、日本のサッカー界に大きな警鐘を与えた。
79年から6年間は日本リーグの総務主事を務める。人気の底辺だったころ、ロクさんはリーグ事務局を協会から独立させるなど、画期的な施策を次つぎと断行した。「ロクの改革」がなければ、Jリーグへの移行は数年は遅れただろう。
70歳を過ぎてもサッカーへの情熱は衰えず、80年代後半からはNTT関東(現在の大宮アルディージャ)の特別コーチを務めた。確固たる「サッカー哲学」をもちながら、常に世界の状況に目を配り、研究を怠らなかった。世界中に足を運び、トップクラスのサッカーから、常に「新しいもの、変わらぬもの」を考え続けた。
数年前、私はロクさんとひとつの約束をした。ロクさんの経験を1冊の本にまとめようという話だった。ロクさんは喜ばれ、「ロクの細道」という書名まで考えられた。ロクさんは本来、私など足元にも及ばない文章の達人で、味のある書き手だった。しかしいろいろな都合で、私が話を聞き、まとめて、チェックしてもらうという形にした。
数十時間にわたってお話を聞き、原稿起こしが始まったが、途中で中断し、未完のまま私の手元に十数本のテープが残った。温厚なロクさんは、なかなか原稿が進まなくても、私の怠慢を責めたりしなかった。しかし天国に召される瞬間には、「あれは、どうなったのかな」という思いが胸をよぎったに違いない。それを考えると、痛恨の思いを拭い去ることができない。
小さな体、穏やかな笑顔の奥に猛烈な闘志を秘め、日本サッカーの発展を支えて、なお「自己」を主張されることなく後進に道を譲られたロクさん。
葬儀は9日水曜日、香港からの帰国の朝だった。せめてもの罪滅ぼしに、私は弔電を送った。
「サッカーひとすじに歩かれたロクさんの偉大な足跡と、温かなお人柄を思い、心の底から悲しい気持ちがわいてくるのを抑えることができません。願わくは、天国にもきれいな芝生のグラウンドと1個のボールと、そして十数人のやる気のある選手がいますように」
そう、そして私は、ロクさんとの「約束」を果たさなければならない。
(2000年2月16日)
「ファームリー・パス!(しっかりとパスしろ」
ポルトガルから中国へのマカオ返還を記念して昨年完成したばかりのスタジアムに、太く鋭い声が響く。日本、シンガポール、ブルネイを迎えるアジアカップ予選を目前にしたマカオ代表の上田栄治監督(46)が、20人あまりの選手を熱心に指導しているのだ。
「選手は、学生、警官、消防士など全員アマチュアで、通常は練習は毎週3回、午後8時からやっています。マカオの選手たちは子どものころからずっと試合中心で、練習というものをあまりしなかったらしく、基礎的な練習にも意欲的です。日本のサッカーに対する敬意があるのも、私の仕事の助けになっています」(上田監督)
マカオ・サッカー協会から日本サッカー協会にプロコーチ派遣の要請があったのが昨年7月。アジア・サッカーへの貢献を図る日本協会には、断る理由などなかった。しかしベルマーレ平塚の監督を第1ステージだけで退任、フリーの立場にいた上田さんは、意向を打診されてから1カ月も考えたという。
治安が悪いという話を聞いた。そして人口40万人という小さな「国」であるとしても、国際サッカー連盟(FIFA)に加盟する1国の「代表監督」になることの責任も感じた。もちろん、育ち盛りの3人の子どもをもつ父親として、家族と離れて暮らすことも気になった。
マカオに視察に来て、人びとの温厚な性格、そして聞いていた治安の悪さも心配ないことがわかって、心を決めた。こうして、日本人として初めての「外国代表チーム監督」が誕生した。
しかし着任してみると、この国のサッカーの発展を阻害する要素がいくつも見えてきた。
まずグラウンドがない。現在マカオにあるサッカーグラウンドは、芝が2面、人工芝が3面、そして土が1面。合計してもわずか6面しかない。
第2にボールがない。基本的に試合ばかりだから、練習のためのボールも不足していた。
そして第3には、コーチがいない。「するスポーツ」としてのサッカーは非常に人気が高く、みんな高齢になってもプレーを続けているので、コーチになる人がいないのだ。
長期計画でこの「3ない」を解消し、その一方で代表チームを強化しなければならない。
上田監督からすこし遅れて、GKコーチを兼任する今井雅隆コーチ(40)も着任した。本田の監督やグランパスのコーチを務めた経験をもつ今井さんが、いろいろな面で相談役になってくれているので、仕事は非常にやりやすくなったという。
練習現場では、前マカオ代表監督のジョアン・ロペス氏が選手たちとの間に立って、ミーティングなどでは英語から広東語への通訳も務めてくれている。ただし練習中はすべて英語だ。
マカオ協会との契約はことし11月までの1年間。
「一人前の選手をつくるには、少年時代から年代に応じたトレーニングが不可欠。長期的な計画が必要です。私の仕事は、マカオ協会にその認識をもってもらい、今後の継続的な仕事の基礎をつくることです」と話す。
「アジアカップ予選ではぜひともブルネイに勝ち、シンガポールともいい試合をするのが目標。そしてマカオ協会の希望は、2年後には香港に勝ちたいということです」
ことし1月の「FIFAランキング」では、マカオは203チーム中176位。「世界で最も弱い代表チーム」のひとつにすぎない。しかしアジアの「サッカー発展途上国」に対する日本サッカー協会の「友情」と、上田監督や今井コーチら現場で誠意を込めた仕事をする人びとの努力により、いつかきっと大きな花を咲かせるに違いない。
(2000年2月9日)
英国「タイムズ」紙によると、イングランド協会は今週の月曜日に重要な会合を開催したという。最近イングランドではイエローカードが急増し、レフェリーと監督、選手間の関係が悪化する一方。それを止める方向を探る会議だ。
召集されたのは、プレミアリーグ、1部リーグ、リーグ監督協会、プロ選手協会、そしてレフェリー協会の代表者たち。リーグ、監督、選手たちからは、そろって「イングランドのレフェリーはあまりに簡単にイエローカードを出しすぎる」という不満が出ている。
失点のピンチに、相手をつかんだり意識的にファウルするなど不正な手段で妨害する行為、後ろからの危険なタックルなど、厳しい罰則を課するに値する悪質な反則もある。しかしその一方で、ちょっとしたばかげた行為にも同じ「イエローカード」1枚が出される。結果としてイエローカードは増える一方で、それが試合結果やリーグ戦の行方にもかかわってくる。
プレミアリーグでは、昨年10月に行われたアストンビラ対リバプール戦で11人もの選手にイエローカードが出され、退場者もひとり出た。
試合中にレフェリーが選手を罰する方法には「イエローカード」と「レッドカード」しかない。そして国際サッカー連盟(FIFA)がルール改正でイエローカードの適用範囲を毎年のように広げてきた結果、現在ではイエローカードで罰せられる反則や悪質な行為の範囲はあまりに広い。レフェリーたちがルールに忠実であろうとすれば、荒れた試合でなくても1試合に5枚や6枚は当たり前になる。
イングランド協会のトンプソン会長は、さらに、近年のテレビ中継技術の改善がレフェリーたちに大きなプレッシャーになり、判定が厳しくなる原因になっているのではないかと語る。
「デジタル技術の向上で、テレビ側はピッチ上の全選手をカメラで追うことさえできるようになった。そして、何かが起こると、瞬時にスロービデオで問題の選手の行為を再現する。ほんのすこしの間違いも許されないというレフェリーのプレッシャーは大変なものだ」
昨年のワールドユース選手権準決勝では、日本のキャプテン小野伸二が、ケガの治療をしていた味方選手の復帰をレフェリーにうながすためにスローインをちょっとためらったことでイエローカードを受けた。小野にとってはこれが決勝トーナメントでの2枚目のカードで、決勝戦には出場できなくなった。ワールドカップでもJリーグでも、こうした例はいくらも見ることができる。
それを避けるには、選手がルールをよく理解し、節度をもった行動をとることが何よりも求められる。しかしそれと同時に、レフェリーの取り組み方も重要な要素だ。
「ルールを振りかざすのではなく、選手にもっと話しかけ、コミュニケーションをとって試合を導いていくことが必要ではないか」と語るのは、プレミアリーグのレフェリー委員長であるフィリップ・ドンだ。
Jリーグでは、ここ数年、スコットランド人のレスリー・モットラム氏の影響か、選手に穏やかに話しかけるレフェリーが増えてきたように思える。しかしその一方で、「問答無用」とばかりにイエローカードを振りかざすレフェリーがまだいるのもたしかだ。
日本の第一人者である岡田正義レフェリーは、「良いレフェリングとは、試合を通じて選手、チームとの信頼関係を築くこと」と話している。
信頼関係への第一歩は言葉をかけ合い、コミュニケーションをとることだ。ことしは、笑顔で選手たちと話すレフェリーたちの姿をもっと見たいと思う。
(2000年2月2日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。