4万3193人。ぎっしりとスタンドを埋めた観客は、選手たちが立ち上がるのを静かに待った。そして彼らがうなだれながらも整列すると、盛大な拍手を送った。ほとんど手中にしかけていたステージ優勝を逃したものの、セレッソ大阪の魅力あふれる攻撃サッカーは今季のJリーグの大きな救いだった。
激しい攻め合いの末横浜Fマリノスを下した試合の後、私はセレッソというチームを考え続けた。そしてこのチームの魅力がここ数年に始まることでないことを思った。そこで、セレッソの前社長で、今季から会長を務める鬼武健二さん(60)に会いに出かけた。
鬼武さんは、セレッソの前身である日本リーグ時代の「ヤンマー」の監督を1967年から11シーズン務め、リーグ、天皇杯、ともに3回の優勝に導いた。日本リーグで通算93勝を挙げた「最多勝監督」だ。
監督就任は28歳の年。
「釜本(邦茂)くんがはいってくることになって、他にも大量補強をした。チームが大幅に若返り、私が選手兼任の監督になることになったのです」
そしてわずか数年のうちに強烈な攻撃力をもったチームをつくり上げた。
鬼武さんの理想は、選手たちの個性、長所を最大限に発揮させるサッカーだった。ブラジルからのネルソン吉村などを加え、高い技術をもったヤンマーは、自然にドリブルを多用した攻撃的なサッカーの色を濃くした。強いだけでなく、魅力にあふれたサッカーだった。
78年、監督の座を34歳の釜本選手に譲って、鬼武さんは社業に戻る。そして船舶用エンジン販売を中心とした仕事で十数年が流れた。
サッカーに呼び戻されたのは90年代のはじめ、Jリーグ・スタート前夜だった。ヤンマーは準備が整わず、1年目からの参加はできなかったが、93年からJリーグ昇格を目指した本格的な準備が始まった。
他の社業をかかえながら、鬼武さんは次第に「クラブづくり」にのめりこむ。その年の12月に「大阪サッカークラブ株式会社」を設立、社長に就任する。ヤンマーだけで支える形は望ましくないと、日本ハムなどから協力を受けての設立だった。
94年、JFLで優勝を飾ってJリーグ昇格決定。しかし「後発チーム」の悲しさか、95年からのJリーグでは苦しみ、「中の下」が続いた。
鬼武さんは歴代監督に積極的に攻めるサッカーをすることを求め続けた。攻撃的なサッカーをするには、忍耐強い技術指導で個々の選手を伸ばさなければならない。時間がかかる。
しかし昨年、ベルギー人のレネ監督の下、セレッソは初めて優勝争いに加わる健闘を見せ、年間通算で6位に躍進した。その自信が今季の好調を生んだ。
その間に、クラブは着実に地域に根付く活動を展開してきた。今月、大阪市議会がセレッソに1500万円の出資(約5%)をすることを決議したのは、その何よりの証明だ。
「いまのセレッソのサッカーは気に入っていますか」
長居スタジアムのある広大な公園に面したファミリーレストランの2階に置かれた、大都市らしからぬ牧歌的なクラブ事務所で、私は最後の質問をした。
「好きですね。森島があれだけすばらしい動きをする。西沢のポストプレー、盧廷潤と西谷のドリブル、尹晶煥の天才、そして田坂のしっかりとしたプレーなど、みんな個性的でしょう。個性を思う存分発揮させた結果がいまのセレッソだからね」
「個性を生かすサッカー」は、ヤンマーの監督になったころからの鬼武さんの信条だった。30年以上もひとつのことを信じ、実を結ばせる。人間の「情熱」がもつ力に触れた思いがした。
(2000年5月31日)
誤審としか思えない判定でPKとなり、それが決勝点となる。珍しい話ではない。今季のJリーグだけでも何度も見た。審判レベルを上げ、誤審をなくす努力をしなければならない。だが審判も人間の行為である以上、ミスが起こるのは仕方がない。
しかしJリーグ12節、5月13日の清水エスパルス対ジェフ市原戦はもうひとつ別の問題を提起している。
後半10分すぎ、ペナルティーエリアに走り込むエスパルスの沢登に絶妙のパスが出る。ジェフGK下川が前進して体を投げ出す。しかし沢登が先にボールにタッチする。一瞬遅れて沢登の足元に飛び込む下川。その瞬間、沢登が大きく吹っ飛ぶ。
鋭く笛が鳴る。浜名哲也主審が指さしたのはPKスポットだった。そして下川にはレッドカードが示された。「反則によって決定的な得点の機会を阻止した」という理由だった。
GKなしで試合をすることはできない。ジェフはMF武藤に代えてGK櫛野を入れたが、このPKを沢登が決め、1−0でエスパルスが勝った。
私はこの試合を直接見てはいない。しかし夜のスポーツニュースで何度も繰り返し見た限りでは、下川はぶつかる寸前に腕を引っ込めている。沢登のジャンプは衝突を避けるためだったのか、シミュレーション(審判を欺くための演技)だったのか。
ルールの第五条には、「プレーに関する事実についての主審の決定は最終である」とある。プレーが再開される前なら、主審は決定を変えることはできる。しかしこの場合、いったん沢登がPKをけったら、PKの判定も、下川の退場も変えることはできない。1−0でエスパルスの勝利という結果も、ひっくり返すことはできないのだ。
問題はここからだ。退場には「懲罰」がつく。退場処分を受けると自動的に1試合の出場停止となり、日本サッカー協会の「規律フェアプレー委員会」でその後の処置を決定する。下川の場合、同じ内容の退場が今季2度目だったため、懲罰基準により自動的に2試合の出場停止となった。罰金も科せられた。
もし退場処分が「誤審」であったなら、これほど不当な懲罰はない。ルールが定めているのは、主審の決定を変えることはできないということだけで、試合後の懲罰については何の制限もつけていないのだ。
94年ワールドカップで、試合中には警告も受けなかったイタリアの選手に国際サッカー連盟(FIFA)の規律委員会が8試合の出場停止処分を科したケースがあった。プレーに関係のない場面での相手選手に対するひじ打ちを、委員会がVTRで確認しての処分だった。
ところが日本協会の規律フェアプレー委員会の懲罰検討材料は、現在のところ審判報告書とマッチコミッショナーのレポートだけである。VTRはまったく使用されていない。何度も使用が検討されたが、「すべてのシーンが収録されているわけではない」と、見送られてきた。
しかし明確に誤審を示す証拠があるのなら、なぜ目をつぶる必要があるのだろう。
Jリーグでは、その前週、5月6日のジュビロ磐田対鹿島アントラーズ戦で、アントラーズのビスマルクのひじがジュビロ服部の顔に当たり、あごの骨を骨折させるという事件が起きた。主審は意図的にやったものとは考えず、ビスマルクにイエローカードを示したにとどまった。このシーンも、VTRで慎重に検討すれば違った結論が出たかもしれない。
試合現場での生の監視には限界がある。VTRなどの証拠があるなら、懲罰の決定にはそれをぜひとも活用すべきだ。それが、選手の安全とサッカーの健全性を守る「正義」というものではないだろうか。
(2000年5月24日)
ここ3週間、日本中が代表監督問題に振り回された。会長、副会長、理事会などの名称がたびたび登場した。しかし誰が権限と責任をもつのか、非常にわかりにくかった。
原因は、「財団法人日本サッカー協会」という組織のわかりにくさにある。そもそも日本協会の会長はどんなプロセスで選ばれ、任期は何年なのか。
実は、今月は日本協会の「役員改選」の月に当たる。任期は2年。98年に改選された役員が任期満了を迎え、5月27日には「新しいサッカー協会」が生まれることになる。
日本協会の「役員」とは、会長、副会長などの3役を含む最多27人までの「理事」と、2人ないし3人の「監事」。当然、理事のひとりである岡野会長もその「第1期」を終える。監督問題で会長の歯切れが悪かったのは、任期切れを考慮してのものだったかもしれない。
財団法人日本サッカー協会の「寄附行為」(株式会社の定款に当たる)と「基本規定」に、役員選任の定めがある。
日本協会は全国47の「都道府県協会」のメンバーシップでつくられている。メンバーはそれぞれ1人ずつの代表者(評議員)を出し、全国評議員会で日本協会の役員を選任する。
そして、会長、副会長、専務理事の「3役」は、評議員会によって選任された理事会の「互選」により決められる。会長も副会長も、まずは理事として選ばれ、理事会のなかで推挙されるという形をとるわけだ。
それは一見、民主的な組織のように見える。全国のチームはいずれかの都道府県協会に所属している。その代表者が理事を選ぶのだから、理にかなう。
だが実際には、評議員が勝手に名前を挙げたり、オープンな選挙をしているわけではない。改選前の理事会が新理事会の候補者名簿を作成し、評議員会はそれを承認するという形が取られている。現状では評議員会は形式にすぎない。日本協会の「役員改選」は、「選挙」というよりむしろ「人事」といってよい。
以前は数人の幹部で新理事候補の名簿を作成していたが、前回から数人の評議員を含む「推薦委員会」で検討することにした。旧理事会のメンバーがそれぞれ自由に20人の名前を挙げ、それを集計した結果をもとにこの委員会が候補者を検討してまとめ、理事会に提出して承認を受けるのだ。以前に比べればオープンな形だが、そこにあるのは依然として少数の人びとによる「人事」の意識だ。多くの人の意見を集約する「民主主義」の意識は希薄だ。
こうして選ばれる理事会であり、会長、副会長だから、何十年も継続して安定した形でやってくることができたのだろう。
しかし日本協会はいまや5万のチーム、100万の選手をかかえ、70億円の予算規模の団体となった。代表監督問題は大新聞の1面を飾る「社会問題」だ。10年前とは比較にならないほど上がった「社会的地位」に、こうした「役員人事」はふさわしいとは思えない。私は「会長公選制」の導入を提案したい。
会長候補が自分の理事候補の名簿とともに立候補を表明する。そして各都道府県協会のなかでどの候補グループを支持するかの「投票」を行う。多くの都道府県協会の支持を取り付けたグループが当選となる。任期は現在の倍の4年間とする。
アメリカ大統領選挙のようなイメージだが、こうした手続きによって会長の政策が明瞭になり、全国のメンバーは「自分たちのサッカー協会」という意識をもつことができるはずだ。
日本代表の監督問題は、日本協会の組織がいかに不透明で、「権限と責任のありか」がいかにあいまいであるかを露見させた。そろそろ「会長公選制」を考える時期ではないだろうか。
(2000年5月17日)
2002年ワールドカップに向けての日本代表チームの監督が誰になるのか、最近の報道を見ていると、やりきれない思いがしてならない。
フィリップ・トルシエは優秀な監督であり、就任以来今日に至るまで、いくつかの失敗はあったにしても、それを補って余りある成果を残したと、私は考えている。そして、発展途上の若い監督である彼自身、数年後には、日本代表とともにすばらしい成熟のときを迎えるだろうと期待していた。当然、引き続きトルシエに指揮を任せるべきだと考える。
しかし代表監督の選任は純粋に「人事」に属する事項である。監督選任の権限をもつ者が、自らの責任において判断を下すこと自体に間違いはない。
私をやりきれない思いにさせるのは、現状で監督を代えても、そしてその監督が誰になろうと、好ましい方向に向かうとは思えない点だ。代表チームの運営という仕事において、日本サッカー協会の現在のあり方は完全に間違っているからだ。
代表チームの運営というのは、大きな「ミッション」(特命作戦)そのものだ。選手をピックアップし、チームを準備し、試合相手に即した戦い方をすれば済むわけではない。2年、あるいは4年という短期間に限っても、国内リーグとの日程調整、内外の選手所属クラブとの交渉、マスメディアとの良好で節度のある関係づくりなど、多岐にわたり、同時にプロフェッショナルな仕事が求められる。
当然、監督ひとりですべてを仕切ることなど不可能だ。代表運営という事業の成功のカギとなるのは、監督への強力な支援態勢の有無ということになる。
財団法人日本サッカー協会の岡野俊一郎会長は、昨年7月、2002年ワールドカップに向けて協会を挙げてのサポート態勢をつくるため、「2002年強化推進本部」を設立し、釜本邦茂副会長をその本部長に任命した。副本部長は大仁邦彌・技術委員会委員長と、木之本興三・Jリーグ専務理事である。
目的は「日本代表チームのサポート」だった。明確に「日本代表監督のサポート」としなかったところに間違いの元があった。強化推進本部は、監督が求めるサポートの立場ではなく、いわば権力者として「監督の監督」という立場をとることになった。その結果、監督は以前にも増して孤立無援となった。
この状況でトルシエが1年近く仕事を続けてきたことは奇跡のように思える。彼をつなぎ止め、ここまで引っぱってきたのは、日本の選手たちへの深い愛情だけだったのではないか。
日本は98年ワールドカップに初出場を果たしたが、3戦全敗という結果に終わった。岡田武史監督が最善の仕事をしたにもかかわらず、これが精いっぱいだった。「世界」のレベルはまだはるかかなたにあった。
地元で開催される2002年ワールドカップに向けて、わずか4年でその壁を突き破らなければならない。それは本当に大きなミッションだった。日本協会がすべきことは、選任した監督を信頼し、全面的な支援態勢を整えることだったはずだ。
しかし岡野会長がそう意図した強化推進本部は、権限と責任を取り違え、とんでもない方向に行ってしまった。これから2年間の監督を誰にするにしろ、現体制ではミッションを完遂することなど不可能だ。
現在の強化推進本部という組織のあり方は100パーセント間違っている。岡野会長は、会長としての責任において強化推進本部を解散し、早急に代表監督へのサポート態勢を再構築するべきだと思う。
最優先されなければならないのは「ミッション日本代表」である。強化推進本部という組織を守ることではない。
(2000年5月10日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。