サッカーの話をしよう

No.324 真夏はサッカー向きではない

 言いたくはない。言ってはいけないと思うが、暑い。
 梅雨が明けて、関東地方の暑さは増す一方だ。先週末には、連日のように「今夏最高気温」を記録した。
 はっきり言って、この暑さはサッカーには向かない。鍛え上げているプロならともかく、冷房のきいたなかで仕事をしている人が「たまの休日だからサッカーでもやるか」というような気候ではない。もしサッカーの魅力に負けて炎天下のグラウンドに出ようものなら、健康を損なうことは必至だ。
 そんな暑さのなかで、私が監督をしている女子チームは「全日本選手権東京予選」という重要な大会を戦っている。女子のサッカーの日程もけっこう忙しく、国体やその予選などの期間もあるため、11月の「関東予選」に進むチームを決めるには、東京予選を7月に開催するしかないのだ。

 そして、私たちが使っているグラウンドの大半にはナイター設備などないから、試合の多くが真っ昼間に行われる。午前11時キックオフの試合など、脳天に強烈な太陽が照り付け、五分間も走ったら体温が急上昇してクラクラする。
 それを救うのが冷たい水だ。試合前からたっぷりと摂り、試合中にも機会を見つけてはタッチラインの外に置いてあるボトルから補給する。体温を上げないためには、のどの渇きを覚える前に水分を補給するしかないのだ。
 しかし、この「試合中の飲水」が、なかなか難しい。ルールでは「アウトオブプレー中」にしなければならない。ボールがゴールラインやタッチラインから出たとき、反則の笛が鳴って試合が止まったときなどに、すばやく飲まなければならないからだ。ボトルはいろいろな場所に置いておくが、ポジションによっては飲みにくい人もいる。

 小中学生ではなかなかこれができず、体温が上がりすぎて具合が悪くなる子が多い。それを防止するために、日本サッカー協会では、こうした年代の試合では、レフェリーが試合を止めて選手たちに飲水タイムをとらせるよう、数年前から指導している。
 悪くない指導だと思う。ルールにはないことだが、子どもたちの健康を考えれば、当然のことだと思う。
 だが、こんなことをしなければならないのは、本来「サッカー向き」ではない真夏の日中に試合をさせるからではないか。まずは、こんな不健康な時間に試合をしないように努力するべきではないか。
 夏休みに大会を開催する必要が本当にあるのだろうか。それも、連日、場合によっては1日に2試合、3試合をさせるなんて、子どもたちの健康を無視した「虐待」といってもいい。

 夏休みは子どもたちのスポーツの最盛期だ。夏休みだから、まとまった時間がとれ、数日間の大会に参加することができる。その経験は、子どもたちの成長に大きな役割を果たすだろう。しかし経験を健康と引き換えにすることはできない。
 さらに、子どもたちが猛暑の日中に喜んでプレーをしているのか、改めて考える必要がある。数十年間も続けてやってきたことだから正しいわけではない。「夏にしかできない大会」そのもののあり方を考え直す必要があると思うのだ。
 私は、子どもたちの試合も、春や秋の気候のいい時期に、毎週1試合のペースのリーグ戦で行うのを原則にすべきだと考える。数多くのチームを集めて連日試合させること、真夏の昼間に試合をさせることは、いずれも間違っていると思う。
夏休みには、サッカーなど休みにして、海やプールに行ったり、家族で旅行に行くほうがずっと意味がある。

(2000年7月26日)

No.323 アンフェアな行為に疑問

 ずっと気になっていたことがある。サッカーで最も美しい習慣のひとつが、最も醜い行為につぶされかけていることだ。これまで日本ではあまり見かけなかったが、やはり、その行為をするチームが現れた。
先週土曜日に東京の国立競技場で行われたヴェルディ川崎対鹿島アントラーズの試合の1場面から話を始めたい。

 問題のシーンは後半7分ごろに起こった。中盤左で前線にパスを出したアントラーズのビスマルクがプレー直後にからまれ、グラウンドに倒れた。しかしアントラーズはプレーを続け、右に回って名良橋がシュートを放った。ボールはヴェルディのGK本並の正面に飛び、難なくキャッチ。ここで本並はビスマルクがまだ倒れているのを見て、ボールを右タッチのハーフライン近くにけり出した。ビスマルクの治療をするためにプレーを中断させたのだ。
 ビスマルクが倒れたのだから、本来ならアントラーズの選手たちがボールを外に出すべきだった。しかし0−0の状況で余裕がなかったのか、それとも、わかっていても、プレーを中断する必要がないと思ったのか。
 それでも、本並がボールをけり出してくれた時点で状況を理解できたはずだ。しかしアントラーズが選んだのは、本並の好意を逆手にとって勝利を得ようとすることだった。
 しばらくしてビスマルクが立ち上がり、アントラーズのスローインで試合が再開された。 ボールを受けたのはFW平瀬。彼はボールをヴェルディ陣の奥深く、コーナー近くにけり出した。そして、チームメートに押し上げるように指示し、ヴェルディのスローインにプレッシャーをかけたのだ。狙いは当たり、アントラーズがボールを奪って平瀬に回し、シュートがきわどくヴェルディ・ゴールを襲った。

 プレー中に誰かが起き上がれないようなケガをしたと思ったら、それがどちらのチームの選手でも、ボールを外に出してプレーを止める。治療が終わると、試合は相手チームのスローインになるのだが、すぐにボールを出した側のチームに戻される。それは、サッカーで最も美しい行為だ。そこには、「相手チームも『敵』ではなく、いっしょに試合をしている『仲間』だ」という、フェアプレーの根源的な精神が表現されている。
 しかし数年前から、相手の好意を利用して試合を有利にしようという傾向が出てきた。98年ワールドカップでは、平瀬やアントラーズとまったく同じプレーをするチームがいくつもあった。ただ日本では、幸いなことにこうしたプレーはこれまであまり見なかった。
 私はアントラーズにはっきりと聞きたいと思う。あのプレーは、何かの勘違いで起こったことなのか。それとも、アントラーズ、あるいはトニーニョ・セレーゾ監督が、そうするように指導しているのか。
 「世界でやっているのだから、日本だけやらなければ、国際試合で困ることになる」
 このような意見には、私は絶対に賛成しない。日本の選手は、こういうことをするチームがあることを知っているだけでよい。相手がそういうチームなら、そんなことで失点をくらわないように注意すればよい。
 
 どんなに高度なテクニックを駆使して見事なプレーを見せても、そこにフェアプレーがなかったら、感動を与える美しいサッカーにはならない。逆に言えば、サッカーというゲームの魅力を殺すには、アンフェアなプレーをすれば簡単だということだ。そんな試合には、誰も見向きもしなくなるだろう。
 勝利を追い求めて全力を尽くすことは、それ自体がフェアプレーの重要な要素だ。しかしそのために何をしてもいいわけではないのだ。

(2000年7月19日)

No.322 名古屋グランパス チームを守る「戦力外通告」

 名古屋グランパスが主力の日本人3選手がチームの戦力構想から外れたことを発表した事件は、グランパスだけでなく、全国のファンを驚かせた。
 「戦力外」とされたのは、日本代表DFとしてモロッコでのフランス戦でも活躍した大岩剛選手(28)、日本代表の右アウトサイドでレギュラーに近い位置を得ているMF望月重良選手(27)、そして98年ワールドカップ代表でもあった左サイドのMF平野孝選手(25)。
 原因はジョアン・カルロス監督(44)との衝突のようだ。
 グランパスでも中心になるべき3選手の練習態度などに腹を立てたジョアン・カルロス監督が3人をチームから外し、直後の試合でジュビロ磐田に大敗した。監督は即座に辞任を申し出たが、クラブ側は監督を慰留し、逆に3選手を「切る」という荒療治に出たのである。

 現在、3選手はいずれも「名古屋が好きだから残りたい」と、Jリーグ選手協会に仲介を求める動きも出ている。しかし先週土曜日のリーグ戦前、クラブは3人を切った理由を地元サポーターに直接説明し、「戦力外」という考えを再確認した。
 スター選手と監督の衝突は、世界のどこにでもある。別に目新しい事件ではない。しかし多くの場合、どちらが正しいかに関係なく、監督のほうが犠牲になる。監督の代わりはいくらでもいるが、スター選手を探すことは非常に難しく、また高い移籍金を必要とするからだ。
名古屋の場合、昨年もこの3選手と監督の衝突があり、そのときには田中孝司監督が辞任に追い込まれた。しかし今回は、クラブはジョアン・カルロス監督を全面的に支持し、レギュラー選手3人を切った。
 これは、監督の言い分が正しく、選手が間違っていると、クラブが判断したわけではないと思う。そうではなく、「力関係」で監督が勝ったのだ。

 ジョアン・カルロス監督は、96年から98年まで鹿島アントラーズで監督を務め、96年には年間優勝、97年には第1ステージ優勝を飾っている。厳しい指導で規律にあふれたチームをつくることで評価が高い。
 来年からストイコビッチ抜きで戦わなければならないグランパスにとって、大事なのは若いタレントを育て、集団で戦うことのできるチームをつくることだ。そのためには、ジョアン・カルロスの手腕がどうしても必要となる。
一方、今回戦力外通告を受けた3手は、「何が何でもこの3人を中心にポスト・ストイコビッチのグランパスをつくる」という結論を、グランパスに出させることができなかった。クラブの「査定」において、ジョアン・カルロスに敗れたというわけだ。それは、シーズン終了後に、次年度の新戦力との比較で戦力外通告を受ける場合と何ら変わりはない。

 このような状況下で「プロ選手」にできることは、新しい働き先を探すことだけだ。選手協会やファンに働きかけてクラブの決定に影響を与えようとするなど、時間の無駄だ。
 3選手の実力について疑念はない。3人ともまだ十分若く、Jリーグの選手としても、また日本代表選手としても大きな可能性をもっている。1日も早く自分の置かれた状況を認識し、それぞれに新しい活躍の場を探してプレーに復帰すべきだ。
 サッカーというゲームは、スターの数で勝負を決めるものではない。それは、今季JリーグでのFC東京の試合ぶりや、ヨーロッパ選手権準決勝で強敵オランダを倒したイタリアが、身をもって示している。
 名古屋グランパスの選択は、監督以下、選手全員が心を合わせて戦うことのできるチームをつくることだった。
私は、その結論を支持する。

(2000年7月12日)

No.321 アンデルス・フリスク 見事な決勝戦主審

 ほとんど手中にしかけていた栄光を逃して失望の色を隠せないイタリアの選手たちに続いて表彰台に上ったのは、スウェーデン人のアンデルス・フリスク主審を先頭とする4人の審判団だった。ヨーロッパ・サッカー連盟(UEFA)のヨハンソン会長から記念のメダルを受け取るフリスク主審の満足そうな笑顔が印象的だった。
 ヨーロッパ選手権の最終日。すばらしい大会のフィナーレを飾るにふさわしい、見事な決勝戦だった。イタリアの選手たちはほとんど完璧に自分の仕事をやり遂げ、フランスの選手たちは勇気と自信の大切さを教えてくれた。そして、彼らのプレーに負けない見事なレフェリングで、試合を世界最高レベルのものにしたのが、フリスク主審だった。

 1963年生まれの37歳。今大会の主審で2番目に若いフリスク氏は、いつもプレーのそばにいた。ときには、まるでふたりいるのではないかと思えるほどプレーの先回りをし、きわどい場面を間近で見て判定を下した。そして、選手たちに自分がよく見ていること示した。
 前半の終わりごろにフランスのFKがあり、ジダンが直接狙ってゴールの上に外した。そのとき、ゴール前でもみ合いをしていた両チームの選手たちが「ファウルがあった」と騒いだ。しかしフリスク主審は、両手の人差し指を高く上げ、「お互いさまだったから、反則はなし」と笑顔で示した。両チームの選手たちは肩をすくめて自分のポジションに戻った。
 今回のヨーロッパ選手権は、大会前半には副審の判定に不安定なところも見られた。だが主審は全員すばらしく、全般的には審判のレベルがプレーのレベルを支える形の大会となった。

 ヨーロッパ選手権では、4年前まではひとつの試合をひとつの国の審判4人で担当し、彼らは試合に合わせて自分の国から飛んでくるという方法がとられた。4人の相互理解で審判レベルを上げようとしたのだ。
 しかしそれは、試合ごとに非常にばらつきのあるレフェリングを生むこととなった。そして大会を通じて、ヨーロッパの審判レベルが向上することもなかった。その反省を踏まえ、今回は主審13人を指名し、副審16人、そして第4審判専門の4人と合わせて33人が、出場16チームに次ぐ「17番目のチーム」を構成した。
 この「チーム」には、専属の医師、マッサージ師、フィットネスコーチ、用具係、そして報道担当までつけられたというから驚く。そして、試合の翌日には、専門の編集員が編集したVTRでひとつひとつの判定をチェックし、ディスカッションをしたという。日を追うごとにレフェリングのレベルが上がったのも当然だった。

 フリスク氏は15歳で審判員となり、26歳のときにはスウェーデン1部リーグ主審、そして28歳で国際審判員となった。開幕戦の笛を吹いたドイツのマルクス・メルク氏も38歳という若さだが、初めて主審を務めたのは12歳のとき。もちろん少年サッカーの試合だったが、周囲の少年よりずっと背が低く、審判服も合うものがなかったので、雑貨屋で黒いシャツを買って行ったという。
 13人の主審の平均年齢は、40.8歳。もちろん、なかには20代の後半にプロ選手引退後始めた人もいるが、多くの人が実に若い年齢で審判を始め、20代ですでにそれぞれの国のトップリーグに昇格している。若くて、しかも抱負な経験の持ち主なのだ。
プロのスターを夢見て練習に取り組む少年ばかりでなく、最初から世界一を目指して審判になる少年もいる。これが、ヨーロッパ「サッカー文化」の、懐の深さなのだろうか。

(2000年7月5日)

サッカーの話をしようについて

1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。

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