「自分の国を知るには、外国に出なければならない」というような意味の格言があった。レバノンで行われているアジアカップ決勝大会というフィルターを通すと、「日本のサッカー」というものが、これまでになく明確に見えてきたように思える。
これまでに、私が好きだった日本代表が3つある。1985年のワールドカップ予選を戦い、韓国との最終予選で力尽きた森孝慈監督の日本代表。93年、カタールのドーハでワールドカップ出場まであと数十秒のところに迫ったハンス・オフト監督の日本代表。そして現在、フィリップ・トルシエ監督が率いる日本代表である。
もちろん、世界のなかでのポジション、対世界のレベルではずいぶん違う。85年のチームは韓国に力負けしたし、93年のチームはアジアの最高レベルで戦うのが精いっぱいだった。
それに対し現在のチームは、プレー内容においてすでにアジアのレベルを突き抜け、経験さえ深めれば世界の強豪に驚きを与えうる力をつけてきている。
しかしこの3チームには共通するイメージがある。高い技術をもった選手をベースに、磨き抜かれたチームプレーで攻撃的サッカーを展開していくことだ。どのチームも、攻撃が変化に富んでいて、見ていて本当に楽しく、わくわくする。それこそ、「日本のサッカー」のイメージではないだろうか。
現在のチームではトルシエの指導や指揮ぶりにあまりに大きな注目が集まっている。しかし日本代表のプレーのベースは、当然のことながら、日本サッカーの育成システムと、Jリーグ・クラブでの日常の練習や試合から生み出されたものだ。
プレッシャーをかけられても狂うことのないボール扱いの技術の高さ、プレーしながらサッカーというゲームを考える力の養成、いろいろな戦術に対する理解と適応の早さ。過去10年間ほどの間に成し遂げられた指導システムの的確さによって生まれた選手たちがトルシエに預けられ、2年間の国際試合の経験を経ていま花開いているのだ。
サッカーという競技が日本に根付いてから約80年間の歴史の大半は、外国の技術や戦術、そして指導法を学ぶという形で進んできた。
第二次大戦前はイングランドの書籍に学び、初出場のベルリン・オリンピック(36年)に学び、戦後はドイツに学び、やがてブラジルから大きな影響を受けるようになった。最近では、続々と好選手を輩出しているオランダやフランスの指導法が学ばれ、取り入れられている。
しかし90年代のはじめから、世界に追いつくための課題がしっかりと整理され、日本独自の指導法が考案されてそれを次つぎとクリアしてきた。そして、大人の体つきになり、経験さえ積めば、国際試合で堂々とプレーできる選手が次から次へと生まれるようになったのだ。
トルシエ監督のサッカーは、「フラットスリー」と呼ばれる世界にもあまり例を見ない守備戦術ばかりが取り上げられている。しかし、技術を生かして攻撃的なサッカーをするためのトレーニングは、日本代表選手たちの大半が少年時代から取り組んできた課題の延長線上にあり、別に奇抜なものではない。
シドニー・オリンピックでの対戦相手は強豪ばかりだった。日本はそのなかで十分持ち味を発揮し、「日本のサッカー」を展開してきたのだが、このアジア大会でいちどに11のチームと比較したときに、「日本のサッカー」はよりいっそう明確になったように思う。
それは、現在、日本全国で少年や中学生、高校生を指導しているコーチたちへの、「自信をもってこのまま進んでいけ」という、力強いメッセージのように思えるのだ。
(2000年10月25日)
アジアカップ取材のためにレバノンに来ている。
すぐ南のイスラエルを巡る中東情勢が緊迫しているはずなのだが、レバノンの首都ベイルートではそうした空気はまったく感じられない。平和そのものの雰囲気のなかで、人びとはレバノン・チームの活躍を楽しんでいる。
そして日本国内でも、アジアカップに対する注目が急速に高まっていると聞く。14日、紛争地域に近い南部のサイダで行われた初戦で、日本は前回優勝の強豪サウジアラビアを4−1の大差で下した。それが注目に火をつけたらしい。
9月のシドニー・オリンピックでは、サッカー中継の視聴率の高さが大きな話題となった。40パーセント、50パーセントという高い視聴率を記録した試合もあったと聞いて、本当に驚いた。
金メダルをかけた試合ではない。グループリーグの試合のときに、テレビの生中継を見るために会社を早退した人が続出したという。たしかに、そうした人がいなければ、怪物番組のような視聴率は成立しないだろう。
ことしの5月には、日本代表のフィリップ・トルシエ監督の契約問題に関する特報が一般誌の1面を飾るという「事件」があった。それは推測の域を越えない記事であったにもかかわらず、社会的な関心を呼ぶ話題となった。
これらの現象を見ると、日本はとんでもない「サッカー狂国」のように思える。しかし実際には、それとほど遠い国であることは言うまでもない。
オリンピック代表を含む「日本代表」への関心は、驚くほど高い。しかしその他のサッカー、たとえばJリーグや天皇杯などに関しては、ほとんど注意を払われていないのだ。
「経済が破綻して、日本全体が自信を喪失しかけている時代に、サッカーだけはどんどん世界のレベルに近づき、世界の強豪と対等な戦いができるようになってきている。日本人は、そこにせめてもの夢をかけているのではないか。だから代表の試合に熱狂するのではないか」
こう分析する人もいる。サッカー自体が愛され、熱狂的に受け入れられているわけではない。日の出の勢いで力を伸ばし、国際舞台での成績を向上させている日本代表の「勢い」を楽しんでいるだけというのだ。
国内の「サッカー・エンターテインメント」であるJリーグは、日本代表のスターたちが活躍する舞台でもあるのに観客数が伸びず、視聴率も低迷したままだ。それは上の分析の妥当性を十分に裏付けている。
日本代表に対する国民的な関心は、必ずしも、中田英寿、名波浩、中村俊輔、稲本潤一、高原直泰らの才能、そしてそれをチームプレーに結びつけたサッカーの美しさへの誇りではないのだ。世界の強豪と対等に戦い、勝利を収めることだけが、重要な要素なのだ。
こうした状況は、サッカー選手やファンにとって不幸であるばかりか、サッカーそのものにとって危険な状態といえる。永遠に成長を続けることはできないし、国際舞台での成績が伸び悩みになるときは必ずくるものだからだ。
日本代表に対する関心が高いうちに、サッカーそのものに対する理解を広め、深め、そして日本選手たちの才能の価値を日本中の人びとに正確に認識してもらわなければならない。
その責務は、私もその一部をなすマスメディアに負わされている。個々の試合の結果にとらわれず、世界のサッカーのなかでの日本のポジションを正確にとらえ、日本代表のサッカーが世界のサッカーファンにどう歓迎されるものなのかなど、しっかりとした「報道」が、いまほど求められている時期はないように思う。
(2000年10月18日)
ウェンブリー・スタジアムは間断なく細かな雨が降っていた。ピッチは軟弱になり、屈強な選手たちが何度も足を滑らせた。
10月7日土曜日、深夜のテレビで見たヨーロッパのワールドカップ予選、イングランド対ドイツは、息詰まる熱戦だった。
前半はドイツが正確なパスワークと積極的な動きで試合を支配し、1点を先制した。そのゴールは、イングランド守備陣のとんでもないミスだった。
ゴールから30メートルあまりのFK。イングランドの選手が壁をつくるでもなく、なんとなくポジションを取り始め、GKは前に出て指示を送っていた。そのとき、ドイツのMFハマンが思い切ってけった。ボールは低く飛び、ワンバウンドして雨にぬれた芝で伸び、ゴール右隅に飛び込んだ。
後半、イングランドはシステムを4−4−2から3−5−2に変え、巻き返しを図った。狙いどおりサイドからの攻撃が強化され、主導権はイングランドのものとなった。しかしドイツは集中した守備を見せ、1−0で逃げ切った。6月のヨーロッパ選手権の壊滅的な状況から見事に立ち直った勝利だった。
イングランドにとっては8試合の予選の初戦。後半の内容を見れば、悲観すべき試合ではない。ファンも温かかった。ピッチを去るイングランド・チームを拍手で送った。
この対戦は、イングランドにとって特別の試合だった。1923年以来イングランド・サッカーのシンボルだったウェンブリー・スタジアムが、この試合を最後に取り壊され、3年後にまったく新しいスタジアムとなって生まれ変わるからだ。
スタジアムが殺気立った雰囲気にならなかったのは、生きるか死ぬかのワールドカップ予選というより、ウェンブリーに対するノスタルジックな気分が支配していたからだろう。
本来白のユニホームのイングランドだが、この日はホームゲームにもかかわらずサブの赤いユニホームを着ていた。白は相手のドイツだった。イングランドがこのウェンブリーで達成した最大の勝利、66年ワールドカップの決勝戦と同じ配色にしたのだ。それも含めて、スタジアム全体を支配していたのは、ウェンブリーに対する惜別の思いだった。
数時間後、驚くべきニュースが飛び込んできた。イングランドのケビン・キーガン監督が辞任を発表したというのだ。
「(イングランド監督という)この大きな仕事に、私は十分な能力がないと思う」
なんと言う潔さだろう。彼は前半うまくいかなかったチームをハーフタイムの選手交代とシステム・チェンジで変えることに成功した。同点ゴールが生まれなかったのは、ほんのわずかな運が足りなかったためだ。
キーガンを打ちのめしたのは、予選の初戦で最大のライバルに負けたという結果より、ウェンブリーの記念すべき試合を勝利で飾ることができなかったことのショックだったろう。
それにしても、内容の濃い90分間だった。両チームの選手たちは一瞬も力を抜くことなく、最後の最後まで戦いきった。来年の11月に最後の出場国が決まるまで、こんな試合が数百も行われることを思い、改めて「ワールドカップ決勝大会」の重さを感じずにいられなかった。
そしてまた数時間後、ロンドンからのニュースがさらに私を驚かせた。ブックメーカー(公認の賭け屋)が、さっそく次期監督の候補者を挙げ、元監督のテリー・ベナブルスを4対1で最有力としているというのだ。
ウェンブリーを包んでいたノスタルジーと、ドライそのもののロンドンの街角。140年の歴史をもつサッカーの母国は、まだまだバイタリティーを失っていないように思えた。
(2000年10月11日)
オリンピックのサッカーはカメルーンの優勝で幕を閉じた。大会前の予想どおり、上位10チームほどは本当に力の差がわずかで、ちょっとした運不運、調子の波によって結果が左右された大会だった。
オリンピックという1都市開催を原則とする大会において、サッカーは非常に特殊な大会運営が行われている。シドニーでも試合が行われたが、大半の試合が、数百キロ以上離れた別の都市で行われるからだ。今大会も、ブリスベーン、キャンベラ、メルボルン、そしてアデレードの4都市がサッカーだけの会場となった。
各都市では、最初の試合日に簡単な「オープニング・セレモニー」まで行われた。日本がグループリーグの最初の2試合を戦ったキャンベラでは、シドニーで大会開会式が行われる2日前の9月13日に最初の試合が行われ、町を挙げての歓迎ムードがスタジアムを包んだ。
日本代表の試合とともに、オーストラリア3都市のスタジアムで試合を見た。キャンベラはラグビーとサッカーに使われる「球技場」、ブリスベーンは通常はクリケットに使用されるスタジアム、そしてアデレードはサッカー専用競技場。そのすべてに感心させられた。観客の立場に立った「快適さ」が徹底されていたからだ。
今回は取材パスがなく、チケットを買い、一般席での取材だった。しかしスタジアムでメモを取りながら取材し、ホテルに戻って記事を書いて東京に送るという作業は、何の苦痛もなかった。おそらく、日本チームを応援していた人のほとんどが、私と同じように「快適さ」を感じたのではないだろうか。
その第1は、「足」の快適さだ。どのスタジアムも鉄道駅には隣接していなかったが、都心からシャトルバスで簡単に行くことができた。
問題は短時間に人が集中する試合後なのだが、大量のバスが待機していて、数万の観客を一気に運び去っていく。それも、満席になったらすぐに発車し、次のバス、次のバスに乗せていくから、すし詰め状態などにはならず、ゆっくり試合の話をしながら帰ることができた。
第2は、トイレと売店の多さだ。キャンベラは寒かったので、トイレに長蛇の列ができるのではないかと思ったが、各ゲートの近くに大きなスペースでトイレがつくられており、いちばん混雑するハーフタイムにも行列はできなかった。
冷たい飲み物や軽食を売る売店の数も非常に多く、係員の手際がよく、しかもレジの場所が実に人の流れを計算していて、非常に効率が良かった。
そして第3に、座席の広さと快適さだ。全席が独立した個席で、前の席との距離、ひとつの席の幅がしっかりととってあり、しかも椅子はすべて高い背もたれのついた跳ね上げ式だった。「ひじかけ」に飲み物用のホルダーがついている席も多かった。
いずれも「巨大スタジアム」というわけではなかったが、たくさんの人を入れる以前に、観戦に訪れた人が本当にスポーツを楽しめるように考えられていることが伝わってきた。
スポーツ観戦は「苦行」であってはならない。どんなにいい試合を見ることができても、帰りにぎゅうぎゅう詰めの電車に何十分も乗らなければならなかったり、トイレや売店で待たされて後半の開始に席に戻ることのできないようなスタジアムでは、心からスポーツを楽しむことなどできるわけがない。
「快適なスタジアム」の実現には、もちろん施設の充実が第一だ。しかし運営でカバーできる面もたくさんある。2002年ワールドカップの各会場が観客にとって本当に快適なスタジアム計画であるかどうか、もういちど見直してほしいと思う。
(2000年10月4日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。