日本で最も歴史のあるサッカー専門誌である『週刊サッカー・マガジン』(ベースボール・マガジン社)が、きょう発売された号で通算第800号を迎えた。1966年5月創刊。35年にもなる長寿雑誌である。
私がサッカー報道の世界でスタートを切ったのは、この雑誌の編集者としてだった。73年から82年、第96号から277号。長い歴史の一部を編集者として担った。
64年の東京オリンピックを契機に「サッカー・ブーム」が到来し、翌65年には日本サッカーリーグが誕生した。新聞の扱いも大きくなった。ベースボール・マガジン社は66年2月に『スポーツ・マガジン』という既存の雑誌で「サッカー特集号」をつくり、その売れ行きを見て月刊誌の創刊に踏み切った。
初代編集長は、戦前から児童書などを手がけてきたベテラン編集者の関谷勇さんだった。73年に発行された第100号に、牛木素吉郎さんが興味深いエピソードを紹介している。
創刊を前に、関谷編集長はいろいろな関係者にあいさつし、相談して回った。そのなかで月刊誌の創刊を危惧した人がふたりいた。サッカー協会の「知恵袋」岡野俊一郎さん(現会長)と、協会機関誌の編集をしていた読売新聞の牛木さんだった。
岡野さんは「ありがたい話だが、すぐにつぶれたらサッカー人気に水をさす」と心配し、牛木さんは「最初は季刊にしたら」と慎重意見を語った。しかし関谷編集長は、「月刊で売れないようなら季刊でも売れません」と、きっぱり言いきったという。
サッカー・ブームは68年のメキシコ・オリンピック後に下降線をたどり、70年代には日本リーグの人気も低迷した。
雑誌も変遷をたどった。モノクログラビアだけの100ページだった創刊号から、7年後に第100号を迎えるころには、カラーページが大幅に増えた226ページもの雑誌になった。77年には「月2回」の発行とし、サイズも大きくした。しかしサッカー人気の低迷のなかで売れ行きは伸びず、81年には月刊誌に戻す。92年、Jリーグの誕生とともに再び月2回となり、翌93年にはついに週刊化に踏み切った。Jリーグをよりタイムリーに報道するためだった。
しかしこの雑誌を動かし続けたひとつ大きな要因は、ライバル誌の存在ではなかったか。71年に『イレブン』(日本スポーツ出版社、後に廃刊)、79年に『サッカー・ダイジェスト』(日本スポーツ企画出版社)、そして86年には『ストライカー』(学研)が創刊された。ライバルに絶対に負けたくないという意識が、超多忙な仕事のなかで編集者たちの支えとなった。
ところで、この雑誌で創刊以来、35年間も休まずに連載を続けている執筆者がいる。牛木素吉郎さんだ。新聞社を定年退職して大学の教授になったいまも、毎週健筆を振るっている。
「フリーキック」、「ビバ!サッカー」と続いた牛木さんのコラムは、常に刺激に満ちた話題で考える材料を提供する貴重なサッカーの教科書だった。私もその教科書で育った。なかでも、ヨーロッパのクラブ組織、地域に根ざしたクラブのあり方に関する記事は、現在のJリーグを生む思想的なバックボーンとなったと、私は評価している。
35年前の創刊号で、牛木さんは2本の記事を書いている。そのひとつには、「ワールドカップ予想」というタイトルがついていた。協会の機関誌以外では初めてワールドカップを本格的に紹介した歴史的な記事だった。
そして35年。当時は夢物語にすぎなかった「ワールドカップ日本開催」が、もうそこまできている。2002年ワールドカップ、そしてそれからの日本サッカーも、きっとこの雑誌とともにあるに違いない。
(2001年1月31日)
日本代表の三浦淳宏が横浜F・マリノスから東京ヴェルディに移籍することになった。ジェフ市原の酒井友之は名古屋グランパスで、そして山口智はガンバ大阪で、新シーズンをプレーすることが決まった。
カズ(三浦知良、京都サンガからヴィッセル)、井原正巳(ジュビロ磐田から浦和レッズ)など、このシーズンオフには日本人大物選手の移籍が目立った。しかしそれでも、Jリーグのクラブはまだまだ「おとなしい」ように思う。
うまく機能すれば、移籍は、クラブと、そしてリーグの活性化の切り札となる。チーム力を強化するためだけではない。新シーズンに向けて、あるクラブが「去年とは違う」ことを最も強くアピールできるのが、新しい選手の獲得だからだ。仮に戦力としては大差なくても、チームに新しい選手を投入することは、新シーズンへの期待をふくらませ、それ自体が活性化の効果を生む。
移籍する選手も、新しい環境に移り、新しいクラブで新しい役割を負ってプレーすることは、大きな刺激となる。移籍を契機に急速に伸びた選手は多い。
現在、国際サッカー連盟(FIFA)は、新しい時代の移籍システムを摸索している。しかしどのようなシステムになろうと、サッカー界を活性化する移籍そのものの重要性は薄れることはないはずだ。
サッカーの母国イングランドにおいてプロが公認されたのが1885年。しかしその前から、有力クラブはスコットランドのクラブから有償でスター選手を移籍させてきた。それから百数十年、西暦2000年には、移籍金の世界記録は60億円という途方もない額になった。
しかし世界は広く、移籍の歴史も長い。70年代のウルグアイでは、現金が調達できなかったため、「ステーキ550人前」で選手を獲得したクラブがあった。名古屋グランパスのストイコビッチも、ユーゴ国内での最初の移籍のときには、簡素な照明塔四基との交換だった。
難しいのは、元のクラブのファンやサポーターと、移籍した選手との関係だろう。国内の移籍では、つい先日まで中核だった選手が、ライバルである対戦相手の一員となるからだ。
1990年、地元で開催されるワールドカップの直前に、イタリアで当時の世界最高額となる高額の移籍があった。フィオレンティナのロベルト・バッジオが、15億円という巨額でユベントスに引き抜かれたのだ。
実は、フィオレンティナは深刻な財政危機にあり、この移籍で救われたのだが、ファンにはそんなことはわからない。クラブのアイドル選手を移籍させた会長の自宅を襲撃するなど、大きな騒ぎとなった。
数カ月後、バッジオがユベントスの一員としてフィオレンティナとのゲームに戻ってきた。地元のファンは、「裏切り者」とののしり、彼がプレーするたびにいっせいに口笛を吹いた。バッジオはめげずに懸命なプレーを見せ、シュートも放った。しかし後半、意外なことが起きた。
ユベントスがPKを得た。通常のPKキッカーはバッジオである。決勝ゴールのチャンスだ。しかしバッジオは、「僕には、けることはできない」と拒否してしまったのだ。
激怒したユベントスの監督はすぐにバッジオを交代させた。彼は、スタンドから割れんばかりの拍手を受けながら、フィオレンティナのスカーフを巻いてピッチを後にしたという。
日本ではJリーグ時代になって本格化した移籍。しかし世界では、確実にサッカーの一部になっている。その効果を考えれば、日本でも、もっと活発化していいはずだ。そのなかで、このバッジオのような、心を打つ出来事も生まれるのだろう。
(2001年1月24日)
今回は、パウロ・ディカニオというひとりのイタリア人選手の行動について話をしたい。
名門ユベントス、ミランなどでプレーし、小柄ながらシャープなシュート力で活躍してきたFWである。96年にイタリアを飛び出してスコットランドのセルティックに移籍し、翌年にイングランドのシェフィールド・ウェンズデー、そして99年からは同じイングランドのウェストハムでプレーしている。32歳。華やかな活躍をしながら、イタリア代表の経歴はない。
話は昨年12月中旬のことである。ウェストハムがアウェーでエバートンと対戦した。試合は1−1のまま終盤に突入し、ロスタイムにはいった。
そのとき、エバートンのDFラインの裏に長いボールが出た。ウェストハムのFWカヌートが走り込む。エバートンのGKジェラードが果敢に飛び出す。ペナルティーエリア外でかろうじてクリア。しかし彼はカヌートとの接触で足を痛め、そのままグラウンドに倒れた。
こぼれ球を拾ったのは、ウェストハムのFWシンクレア。すかさずペナルティーエリア内にボールを入れた。ボールは、エリア内に残っていたディカニオのところに正確に飛んだ。近くにエバートンの選手もいたが、ディカニオの技術をもってすれば、たやすくゴールを決められる状況だ。ボールを止め、ゴールにけり込んで決勝ゴール。誰もがそう思った。ところが、予想外のことが起こった。
ディカニオはシュートしなかったのだ。驚いたことに、手でこのボールをキャッチし、倒れたままで苦痛の表情を浮かべているGKジェラードを指さして、「ドクター!」と叫んだのだ。
試合はこのまま終わった。ディカニオの行動は、ウェストハムにとっては、勝ち点2を失う(勝てば勝ち点3のところ、引き分けだったので1)ことを意味していた。
「別に特別のことをしたわけではないよ」と、試合後、ディカニオは語った。しかしウェストハムのレドナップ監督は複雑な表情だったという。
「私は、当然、彼が得点するだろうと思った。すばらしいスポーツマンシップだと思う。しかし、誰かが同じことを私たちにしてくれると思うかい?」
ウェストハムのホームページには、ディカニオの行動について数多くの投書が寄せられた。称賛する意見が多かったが、なかには、「あのままゴールを決めても、誰も非難しなかっただろう。得点してからドクターを呼んでも、そう遅くはなかったはずだ」という意見もあった。「計算ずくのハンドなのだから、イエローカードものでは?」という皮肉屋もいた。
とはいえ、ファンのアンケートを集計すると、約8割が彼の行動を支持したという。
日本では、97年のゼロックススーパーカップで、ボールをつかんだまま負傷して、あまりの苦痛にボールを外に出すこともできなかったヴェルディ川崎のGK菊池を、鹿島アントラーズのFWマジーニョが機転をきかせて助けたことがあった。彼は、菊池に走り寄って、手でボールをつかみ、そこでプレーの流れを断ち切ったのだ。
しかしこのマジーニョの「機転」と比べても、ディカニオの行動は、誰にでもできるものではないように思える。目の前にころがってきた決勝点のチャンス。それを捨て去る行動の裏には、よほどの「哲学」があったはずだ。
日本のサッカーファンは、彼の行動をどう考えるだろうか。
試合後、ディカニオはこんなことを話している。
「試合中は、相手選手はもちろん敵さ。でも、ケガをしたら、それはもう敵じゃない。仲間なんだ。助けなければならないのは当然さ」
(2001年1月15日)
「あってはならないゴール」だったと思う。
元日の天皇杯決勝、鹿島アントラーズ対清水エスパルス。アントラーズの2点目だ。
アントラーズが先制し、エスパルスが2度追いつき、そして延長にはいってアントラーズがVゴールで勝負を決めた。
アントラーズの1点目は、ゴール前のFKをMF小笠原が直接決めたもの。エスパルスは布瀬直次主審がプレーを止めたものと勘違いし、まったく準備をしていなかった。主審の処置にも、小笠原のプレーにもまったく問題はなかった。むしろ、見事な判断とプレーだった。
しかし2点目には、大きな問題がある。
後半4分、アントラーズが右サイドでFKを得たところからプレーは始まる。
ビスマルクのキックにエスパルス・ゴール前で両チームの選手が激しく競り合い、ボールがはね返される。これをアントラーズが拾い、後方に回す。
そのとき、エスパルス・ゴール左前に、白いユニホームがひとり倒れていた。DFの市川だった。競り合いでどこか打ったのか、倒れたまま動かない。ボールがセンターサークル付近の小笠原に渡ろうとしたとき、布瀬主審は広島禎数副審の合図で市川の状態を確認し、ボールを外に出すよう小笠原に手でサインを出した。
再びゴール前にボールがはいれば、倒れたままの市川は非常に危険な状態となる。ボールを外に出すのが、サッカーの常識であり、良識である。
敢えて笛を吹いて止めなかった布瀬主審の判断は、当を得たものだったと思う。主審が止めるよりも、選手がプレーを切るほうが、より「サッカー的」で、好ましい形だからだ。
しかし次の瞬間、小笠原は、そのままゴール右にロングパスを送っていた。ボールは残っていた鈴木の頭を越えたが、その裏に走り込んだ熊谷が角度のないところから強烈なシュート。GKがはじき、鈴木が押し込んだ。このプレーの間、市川はゴール前に倒れたままだった。
その瞬間、頭をよぎったのは、98年ワールドカップ準々決勝フランス対イタリア戦、延長終了直前のフランスのプレーだった。イタリア・ゴール前での競り合いでイタリア選手が倒れたままなのを見たフランスのMFプティが、センタリングする代わりに、ボールをタッチラインに出してしまったのだ。
試合の「重要性」は大きな問題ではないことが、この例でもわかるだろう。プティは、目の前にかかった勝敗、ワールドカップ準決勝に勝ち進む決勝ゴールのチャンスよりも、相手選手の安全を気づかったのだ。
誰にもできる行為ではない。しかし上体をすっと立て、顔を上げてゴール前の状況を見たまま、左足の裏でボールをラインの外に出したプレーは、ほれぼれするほどカッコ良かった。そして彼の行為は、世界中のファンと少年少女に強烈なメッセージとなって伝わった。
「タイトルを目指して戦う相手という以前に、僕たちはサッカー選手という仲間なんだ」
プティのような成熟した「サッカー人」の存在こそ、フランスがワールドカップを獲得できた最大の要因だったと思う。
主審の合図を無視した小笠原のロングパスを目で追いながら、私は心のなかで叫んだ。
「そんなに余裕のないことでどうするんだ!」
この日も、小笠原はすばらしい才能をもった若者であることを示した。しかしこの場面で当然のようにボールを外に出せるだけの人間的な広さが伴わなければ、その才能が真に成熟のときを迎えることはないだろう。
エスパルスのためにではない。サッカー自体と、何よりも、小笠原のために、「あってはならないゴール」だったと思うのだ。
(2001年1月10日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。