現地に行くことはできなかったが、日曜日早朝のテレビ中継は、まざまざと「力の差」を見せつけてくれた。0−5。完敗だった。
フィジカル面だけでなく、技術、判断の速さと正確さ。あらゆる面でフランスは日本のはるか上だった。5失点で止まったのが幸運なほどだった。
イタリアのローマに所属する中田英寿が、フランスの選手に負けないハイレベルなプレーを見せ、単独突破で3本のきわどいシュートを放った。しかしそれ以外の選手は自分の持ち味を出すこともできない状況だった。
それは24年も前に見たある試合を思い起こさせた。1977年6月にブエノスアイレスで行われたアルゼンチン対西ドイツの親善試合だ。
1年後に自国開催のワールドカップを控えるアルゼンチンは、メノッティ監督の下、まったく新しいチームの建設途上だった。2年前に21歳以下のチームの強化からスタートしたメノッティのチームは、ちょうど現在の日本代表のように、若く、才能にあふれ、そして経験に乏しかった。
前週、ポーランドを迎えての親善試合では、アルゼンチンの技術と才能が発揮され、3−1の勝利をつかんだ。しかし前大会(74年)優勝の西ドイツは、激しいプレッシャーをかけてアルゼンチンを封じた。
それは、メノッティのチームにとって、初めての「ヨーロッパのトップクラス」との出合いだった。フィジカル面での強さ、守備から攻撃への切り替えのスピードなど、西ドイツのサッカーは、アルゼンチンの選手たちのイメージをはるかに超えるものだった。
1−3というスコアが示す以上の完敗だった。西ドイツに対抗できたのは、ほんのひと握りの選手だけだった。
しかし1年後、アルゼンチンは見事なチームとなってワールドカップを初制覇した。個々の選手の判断が驚くほど速くなり、スピードに乗った攻撃のなかでアルゼンチン本来の技術と才能が生かされた。
77年には西ドイツの激しさに高い技術を消されたアルディレス(現在横浜F・マリノス監督)も、1年間でプレーが見違えるように洗練され、世界のベストプレーヤーのひとりになっていた。
あのときのアルゼンチンも現在の日本代表も、「大会1年前」の時点で世界のトップに歯が立たない理由は同じだった。それは、「経験」が不足していることだった。
7万7888人という満員の観衆の前で、フランスは手を抜かなかった。現在の世界で最高レベルのプレーで日本をたたきつぶしにきた。
ワールドカップの1年以上も前に、世界の最高レベルを体験できたことは、得がたい幸運だった。トルシエ監督が後半のなかばを過ぎて大量の選手交代をしたのは、その経験をひとりでも多くの選手に与えたかったからに違いない。
失望することはない。このフランスのイメージを、しっかりと脳裏に叩き込み、そのレベルに近づく努力を続けることだ。
フィジカル面のトータル強化が必要だ。パスの精度を高めなければならない。判断のスピードを上げなければならない。
2002年ワールドカップへ向け、日本代表強化の最終ステージのスタートとして、これほど有効な試合はなかったように思う。
(2001年3月28日)
父は大正8年生まれ、82歳だった。
60歳のときにサラリーマン生活を定年で終え、以後神社の神主となって20年以上を務めた。
昭和の最も暗い時期に青春時代を送った父は、専門的にスポーツに取り組んだことはなかったが、戦後はプロ野球を熱愛した。私が少年時代に野球に熱中したのも、そして巨人ファンになったのも父の影響だった。日曜日には、父とキャッチボールをするのが楽しみでならなかった。
小学校3年生の誕生日に、父は当時の小学生が誰ももっていなかった高級グラブを買ってくれた。このグラブを使って夏休みのあいだ近所の中学生から特訓を受けた私は、守備だけは絶対の自信をもてるようになった。
しかし中学生になった私は、父の期待をあっさりと裏切った。父のまったく知らないスポーツ、サッカーを始めてしまったのだ。私はたちまちサッカーの虜となり、弁護士を目指して入学した大学生活の半ばには、サッカーで生きていこうと決心するほどの「サッカー狂」となっていた。
サッカーの雑誌を発行している出版社への就職を決めようとしたとき、母は泣いて反対した。しかし最後まで私の話を聞いていた父は、「好きなことなのだから、思い切ってやれ」と静かに言ってくれた。母と言い争うことなど見たことがなかった温和な父が、母の気持ちを知りながら私を応援してくれたことが、私の仕事の支えとなった。
その後、父は何かとサッカーの話題を探しては新聞の切り抜きを送ってくれた。私が海外出張に行っている間には、テレビ放映のビデオを録画し帰国後に送ってくれた。
一昨年、父が入院したという知らせを受けたのは、パラグアイで取材をしている最中だった。取材予定を途中で切り上げて帰国すると、自分のことより私の仕事のことを心配してくれた。
以来何度か入退院を繰り返し、ことし1月下旬からの入院が最後になった。苦痛に満ちた死の床でも、父は私の「応援団」の姿勢を崩さなかった。ワールドカップのチケット申し込み用紙を姉に取りに行かせ、「オレはどうせ行けないだろうけど」と言いながら、一生懸命に記入していた。
私が顔を見せるたびに、父は「2002年はだいじょうぶか」と聞いた。「おまえの仕事はだいじょうぶか」「大会はうまくいくのか」。
大会のオフィシャルショップでバッジを1個買い求め、見舞い代わりにもっていくと、子どものように喜んだ。
「日本のワールドカップを本当に支えてくれているのは、父のような人たちではないか」
父の顔を見ながら、私はそんなことを考えた。私だけではない。日本サッカー協会の役員やスタッフ、そして日本組織委員会(JAWOC)の人びとの多くに、こうした父、あるいは母がいるのではないか。
自分自身はサッカーやワールドカップにそれほどの関心がなくても、自分の息子や娘がそれに関係する仕事をしているというだけで、心から成功を願い、できるなら力になりたいと思っている無数の父親や母親。
「1年前」を迎え、いくつもの課題を残しているワールドカップ。しかし最後まで応援してくれた父のためにも、成功させるための努力を惜しみたくないと思うのだ。
(2001年3月21日)
Jリーグの2001年シーズンが開幕した。ことしは、例年以上にこの日が楽しみだった。サッカーくじ(toto)が始まったからだ。
自信満々だった。手堅い予想をしたので、1等でも数十万円だろうと思っていたが、それでも「必ず当たる」と確信していた。友人たちと予想を話し合うと、誰もが「自分だけは当たる」と思い込んでいるのがおかしく、また楽しかった。
私の期待は、わずか数試合が終わった時点で跡形もなく吹き飛んでいた。「トットと負けましたね」と、仲間の記者たちにからかわれた。
それでも楽しい。本格スタートの第1回(通算第3回)は、全試合的中がわずか2口、1億円という制限いっぱいの賞金が出た。何十回のテレビCMより、よほど強烈なPRになっただろう。
この「第3回」の総売り上げは約8億9000万円だったという。賞金の総額は約4億2000万円。売り上げが少なくても、その割合で当選者の数も減るはずだから、賞金額は売り上げとはあまり関係がない。しかしくじ実施の最大の目的である「スポーツ振興資金」の調達は、まともに影響を受けることになる。
くじからスポーツ振興資金に回されるのは、総売り上げの約23パーセントということになっている。すなわち、「第3回」のtotoでは、約2億円のスポーツ振興資金が生まれたわけだ。
totoを主催する日本体育・学校健康センターは、初年度の総売り上げ目標を800億円としている。目標をクリアすると、180億円以上のスポーツ振興資金が生まれることになる。
しかし「第3回」の売り上げは目標の3分の1ほどにすぎない。同じ程度の売り上げとして単純に計算すると、年30回のtotoで生まれるスポーツ振興資金は、約60億円ということになる。大きな違いである。売り上げを伸ばすことが、何よりも重要な課題だ。
「買いたかったけれど、近所で販売店が見つからなかった」
そんな話をあちこちで聞いた。私の仕事場からも、最寄の販売店までは歩いて10分ほどかかる。
「現在全国に約6000店舗あるのですが、順次増やし、今年度中には約8000店舗にする計画です」
totoを運営する日本スポーツ振興くじ株式会社の池田弘孝広報室長はこう話す。
「オンラインの端末を置くので、電話回線の敷設やテストに時間がかかること、そして販売員の研修もしなければならないので、簡単に増やすことができないのです」
「マルチ」と呼ばれる投票券の書き方が浸透していなかったことも、売り上げが伸びなかった一因といわれている。しかしやはり、手軽に買えないことが最大の痛手だ。私の最寄の販売店は、平日は午後7時までだが、土曜は午後6時まで、日曜日は休みだ。
宝くじ売り場は全国で1万店ほど。しかし大半は駅の周辺など便利な場所にある。totoの販売店に比べると、はるかに「見かける」数は多い。
観戦の楽しさが増えたこと、新しい話題づくりなど、totoのいい面はたくさんある。しかし売り上げが伸びなくては、その本来の目的を達成することはできない。
販売店を増やす、販売時間を延ばすなど、購買者の利便を考えた改善が急務だ。
(2001年3月14日)
楽しみなJリーグ開幕が近づいてきた。今週土曜日、21世紀最初のシーズンが全国でスタートを切る。
ヴィッセル神戸に活気を与えたカズ(三浦知良)をはじめ、今季のJリーグは活発な移籍が行われ、面目を一新したクラブも少なくない。サッカーくじのスタート、ワールドカップ入場券のサポーター割り当てなど、一気の追い風に乗って、ふたたびJリーグ人気が盛り上がるかもしれない。
その開幕日の10日、スコットランドの首都エジンバラでは、第115回「国際サッカー評議会」年次会議が開催される。毎年いちど、サッカーのルールを討議し、改訂作業を行う会議だ。
今回は、10のルール改正案がかけられることになっているが、そのなかにウェールズ・サッカー協会の興味深い提案があり、注目されている。
「意図的に相手の体をつかむ、あるいは相手のシャツを引っぱった競技者は、反スポーツ的行為として罰せられなければならない」
このような条項を、ルール第十二条(反則と不正行為)に附属する「国際評議会の決定事項」(ルール本文と同じ拘束力をもつ)の「決定7」として付け加えようというのが、ウェールズ協会の提案である。「反スポーツ的行為として罰する」ということは、すなわち、自動的に警告処分(イエローカード)が出されることを意味している。
こうした行為は、ルールの第十二条本文の直接FKになる10の反則のなかに「相手を抑える」 (ホールディング)として組み込まれている。この反則で相手のチャンスをつぶそうとしたり、相手に対する報復として使われるなど、悪質と判断されたときには、これまでも「反スポーツ的行為」で罰せられてきた。しかし今回の提案は、意図的に行われた場合には、状況にかかわらず警告にするという厳しいものである。
現代のサッカーには数多くの醜い、あるいは危険な行為がある。国際評議会は、サッカーの魅力を守るために、過去のルール改正を通じてそうした行為を撲滅しようとしてきた。
98年には、相手選手に危険を及ぼす「背後からのタックル」を退場にする厳しい処罰基準がつくられた(ルール第十二条、国際評議会の決定事項「5」)。昨年のルール改正では、レフェリーをあざむいて利益を得ようとする「シミュレーション」を警告処分にするという条項(同決定事項「6」)が付け加えられた。しかし競り合いのなかで相手の腕や体をつかむ、あるいはシャツを引っぱる行為は、甘く扱われてきた。
こうした行為は、しばしば非常に巧妙に行われる。レフェリーの目の届かないところで、あるいはレフェリーが反則にとる寸前のところで、選手たちは微妙な「さじ加減」でこうした行為を駆使し、プレーを有利に運ぼうとする。
98年ワールドカップ・フランス大会では、アップで高画質のスローリプレーがテレビ中継のなかで使われ、こうした行為の横行が白日の下にさらされた。それは、多くのファンを失望させるものだった。
日本でも、外国チームに対抗するように、腕をつかむ、シャツを引っぱるなどの行為が行われるようになってきた。コーチのなかには、それを推奨し、わざわざ教えて強要する者までいる。そうしなければ、厳しい試合を勝ち抜いていくことはできないというのだ。
私は、こうした行為を撲滅しようというウェールズ協会の提案を歓迎する。ぜひとも今回の会議で採用が決定され、ことしから実施に移されることを期待する。そして来年のワールドカップでは、ずっと気持ちのいいサッカーを見たいと思うのだ。
(2001年3月7日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。