シーズン終盤とワールドカップ予選が重なり、世界中でビッグゲームが相次いでいる。サッカーファンには気分浮き立つ季節だ。そんななか、南アフリカでショッキングな事件が起こった。
4月11日水曜日、南アフリカ最大の都市ヨハネスブルク。国内リーグの「オーランド・パイレーツ」対「カイザー・チーフス」。ともに同国きっての人気クラブである。6万人収容のエリスパークスタジアムには8万を超すファンが押し寄せた。当然、数多くのファンが締め出された。
試合は前半から激しい攻め合いとなり、両チームが1点ずつを挙げて1−1となった。事件が起きたのは、前半30分を回ったころである。場内の歓声に刺激されたのか、スタジアム外にいた数千人のファンがついに四つのゲートを突破して場内に殺到したのだ。
猛烈な勢いで走り込んできたファンが転び、将棋倒しとなった。すでにスタンドにいたファンが、後からはいってきたファンに押され、ピッチ前の金網のフェンスに追い詰められ、おしつぶされた。
「押すな、戻れ!」そう叫んでも、次から次へと押し寄せ、逃げまどう人の波を止めることは不可能だった。気づくと、死者34人、負傷者150人という大惨事になっていたのだ。
前売りがなく、当日券だけだったことも混乱の原因だった。しかし最も大きな要因は、スタジアム周辺が落ち着いていなかったのに試合を始めてしまったことだった。
12年前、89年の4月にイングランドのシェフィールドでまったく同じような事件が起き、95人もの犠牲者を出した。その惨劇を教訓に、国際サッカー連盟(FIFA)は安全な試合運営に関するガイドラインをつくった。その重要なポイントのひとつが、「スタジアム内外をコントロール下に置くこと」だった。
入場が遅れて、スタジアム外に数多くのファンがいる状態では、キックオフをしてはならない。あわてたファンが走り出したら、事故の元になる。また、このヨハネスブルクの試合のように、入場券をもたないファンが多数スタジアムを取り巻いている状態も、非常に危険だ。スタジアム周辺から遠ざけたうえで試合を始めなければならない。
95年に日本代表がイングランドで国際大会に出場したとき、リバプールで行われた日本対ブラジルの試合開始が20分以上遅れたことがあった。試合が予想外の関心を呼び、キックオフ予定時刻になっても、まだ1000人以上のファンがスタジアム外で並んでいたからだ。
このとき、運営サイドは、外に並んでいたファンを通常の入り口とは違う入り口からゴール裏の芝生の上を通してスタンドへ導入した。そして全員が着席したのを確認してキックオフの許可を出した。
しかしヨハネスブルクの試合の運営責任者には、こうした判断はなかった。
キックオフを遅らせれば、いろいろなところに影響が出る。最も大きいのはテレビ放映だろう。大きな金銭的損害が出る恐れもある。しかし観客の安全は、すべてに優先されなければならない。それを怠り、結果として多くの人命を失わせた責任は大きい。
日本ではどうか。
幸いなことに、こうした事件はまだ起きていない。しかし観客が万を超す試合を運営する日本協会やJリーグのクラブなどに、FIFAのガイドラインの理解と、現場でそれを実践する態勢があるか、それは疑問だ。
「アフリカの出来事」で済まされる事件ではない。サッカーの運営にたずさわるすべての人が、自分自身のこととしてしっかりと考えなければならない問題だと思う。
(2001年4月25日)
アメリカの女子プロサッカーリーグ(WUSA)がスタートした。
4月14日、首都ワシントンのRFKスタジアムで行われた「ワシントン・フリーダム」対「ベイエリア・サイバーレイズ」の開幕戦には、主催者の予想をはるかに上回る3万4148人がつめかけた。チケット売り場には長蛇の列ができ、ハーフタイム近くになってようやく入場できたファンもいたという。
94年に男子ワールドカップを開催し、いまや国際サッカー連盟(FIFA)のランキング18位と世界のトップクラスに仲間入りしたアメリカ。しかし女子は、そのずっと前から世界の女王だった。女子ワールドカップでは91年の第1回大会で優勝、オリンピックでも正式種目になった96年アトランタ大会で優勝を飾っている。
そして99年に地元で開催された女子ワールドカップでの2度目の優勝が、人気を決定的にした。代表選手は国民的なヒロインとなり、CM契約で年に数億円を稼ぐスターも現れた。
しかし強力なリーグ組織などなく、代表選手たちが安心してサッカーに集中できる環境、そして次代の選手を育てる組織をつくることが必要だった。2000年には代表チームと世界選抜との対戦が全米各地で開催され、女子サッカーの人気を定着させたが、それを恒常的なものにするには、どうしてもプロリーグの結成が必要だったのだ。
1年目のことし、加盟は8チーム。3回戦総当たりで8月中旬までに各チームが21試合をこなし、プレーオフでチャンピオンを決定する。
代表チームの人気を背景にしたリーグだから、8チームにはアメリカ代表選手が均等に振り分けられた。そして、各チーム二十数人の選手のうち原則として3人まで外国人の登録を許可している。
「アトランタ・ビート」というチームには、日本の沢穂希(さわ・ほまれ)選手も、背番号8で登録されている。中国代表のスン・ウェン、そしてかつて日本でプレーしていたカナダ代表のシャーメイン・フーパーとともに強力な攻撃陣を構成する。
世界のサッカー史のなかで、女子リーグがプロとして自立できたことはなかった。WUSAは、徹底した「草の根サッカーファン」の掘り起こしにその命運をかけている。
男子プロリーグMLSの「DCユナイテッド」と同じワシントンにフランチャイズを置く「フリーダム」の女性運営部長ルイーズ・ワクスラーはこのように話す。
「DCユナイテッドは中南米系のファンが中心。彼らは女子サッカーには興味をもっていない。私たちは、首都近郊の8歳から18歳までの女子サッカー選手と、その両親をターゲットにしている。バッティングはしない」
アメリカでは、とくに東海岸とカリフォルニアで女子サッカーが盛んで、その競技人口は10代を中心に数百万人にのぼる。これこそ、WUSA設立の最大の背景だった。
「フリーダム」は昨年秋から数カ月をかけてこの地域でのサッカークリニック、各種イベントに選手を派遣し、「草の根ファン」の開拓に努めてきた。その結果が、開幕戦の大観衆となって現れたのだ。
開幕戦、「フリーダム」は1−0で「サイバーレイズ」を下した。歴史的な決勝点を挙げたのは、ブラジル代表のプレティーニャ。PKだった。その他のチームの初戦は、4月21日に行われる。
世界のトップクラスが集まったWUSA。世界中の女子サッカー選手、そしてファンが、プロとして成功することを期待している。日本からただひとり参加している沢選手の活躍も祈りたい。
(2001年4月18日)
「食べ物の恨みは恐ろしい」という。きょうは「おいしいスタジアム」の話をしよう。
食いしん坊のせいか、初めてのスタジアムに行くと、記者室に荷物を置くや、どんな食べ物があるのかと、探検に出かける。先日も、完成したばかりの東京スタジアムで売店に並んでみた。
キックオフ30分前。いちばん込み合う時間だった。しかし売店の能率の悪さには、ほとほとあきれた。列には、私の前に5人しかいなかったのに、10分近くも待たされたのだ。おいしいものがあるかという以前の問題である。
4列ほど並べるカウンターがあって、内側に売り子がいる。客の注文を受けて飲み物や食べ物を用意し、代金を受け取って品物を渡すという流れのすべてが非効率的で、時間がかかる。この日は定員の半数、2万7000人ほどの入りだった。満員になったら大混乱になるだろう。
食べ物も、コンビニの弁当のようなもので、なんとか腹の足しにはなるがそれ以上のものではない。スタジアムでは珍しいスパゲティもあったが、最初から容器に入れたものを電子レンジで温めて出しているだけのようだった。
待たされる。おいしくない。日本の他のスタジアムと大同小異だった。
スタジアム関係の人びとから話を聞かれると、私は必ず「おいしいものを用意してほしい」と話す。スタジアムにはいってから出るまで3時間近くにもなるサッカー観戦で、飲み食いの満足は、トイレの快適さと並び不可欠な要素だと思うからだ。
西ドイツで行われた74年ワールドカップを思い出す。私にとって、初めての海外でのサッカー体験だった。そして初日から、私はドイツサッカーのとりことなった。スタジアムの周囲に無数に出ている屋台のソーセージが、これまでに味わったことのないおいしさだったからだ。
ドイツ語で「ブルスト」という。注文すると、ボール紙を圧迫成型した長細い皿の上に熱あつのソーセージを置き、その上に丸パンを1個乗せてくれる。周囲の人びとを見ると、パンを半分に割り、そこにソーセージをはさんで食べている。パンからはみ出たソーセージにかじりつくと、ジューシーで深みのある味! 固いパンとの組み合わせも抜群だった。
ひとりの少年が、お父さんに連れられて初めてJリーグの試合観戦にきたとしよう。お父さんが売店で買ってくれたものは、これまでに食べたことのないおいしいものだった。少年は、サッカー観戦を、その食べ物への恋焦がれるような気持ちとともに、楽しい思い出としてずっと抱き続けるだろう。そして必ずこう言うに違いない。
「お父さん、またサッカー見に行こうね」
しかし現実のJリーグスタジアムには、そんな「名物」はない。以前、横浜の三ツ沢球技場で中華街直送の熱い「ちまき」を売っていたことがあったが、新しい横浜国際競技場には受け継がれていない。このワールドカップ決勝会場も、食べ物は寒ざむとしたものだ。
食べ物ひとつでスタジアムへファンを連れ戻すことができるような「名物」を開発すること、そして販売効率を上げ、待たせることなくサービスすることは、これからのスタジアムにとって非常に重要なテーマではないか。
「都市公園法」の規制など難しい問題もあるだろう。しかし努力と工夫次第で、改善できることはいくらでもあるはずだ。そしてそれが、観客に「より豊かなスポーツ観戦」を与えることになる。
「おいしいスタジアム」づくりは、スポーツ観戦の文化づくりにほかならない。
(2001年4月11日)
モルジブが勝った。
2002年ワールドカップのアジア第1次予選第9組がスタート。中国を大本命に、インドネシア、モルジブ、そしてカンボジアが、最終予選のひとつの座を争う。
その初戦、4月1日に首都マーレで行われたカンボジア戦で、モルジブは6−0の勝利をつかんだのだ。前半33分にアリ・ウマルのシュートで先制したモルジブは、後半は歓声に押されてすっかりリラックスし、次つぎとゴールを破った。
モルジブがワールドカップ予選に参加したのは98年フランス大会に続いて2回目。今回のカンボジア戦が7試合目で、初勝利だっただけでなく、ウマルの先制点は、記念すべきモルジブの「ワールドカップ予選初ゴール」だった。
イランなどと組んだ前大会の予選では、6戦全敗、得点0、失点59。シリアの首都ダマスカスで行われたイラン戦が、モルジブの予選デビューだったが、なんと0−17という歴史的な大敗を喫してしまったのだ。
一試合17ゴールは公式国際試合での世界新記録(その記録は、昨年11月に、同じイランがグアムを19−0で下して更新した)。まったく相手にならなかった。
インドの南、インド洋上に赤道をはさんで点々と連なる1000以上の島々からなるモルジブは、総面積約300平方キロ。淡路島の約半分の広さという小さな国だ。人口は約25万人。そのうちの5000人がサッカー選手として登録されている。
英国からの独立が1965年。アジアサッカー連盟(AFC)発行の年鑑によると、1970年代にスリランカ人がサッカーを伝えたというが、100年近い英国支配でサッカーが行われなかったとは思えない。ただそれは、駐在の英国人たちだけのものだったのだろう。
83年にサッカー協会が誕生し、AFCに加盟。国際サッカー連盟(FIFA)への加盟は86年のことだった。しかし首都マーレでも人口は6万人。大都市がないため国内リーグが発達せず、サッカーの発展も遅れた。
さらに大きな発展阻害要素があった。コーチの不足だ。ほんの数年前まで、モルジブには資格をもったコーチがふたりしかいなかったのだ。
日本サッカー協会が藤田一郎コーチを主任インストラクターとして送り込んだ指導者養成コースが有資格コーチの数を飛躍的に増やし、若い選手のレベルが急速に上がった。そして、AFCの援助で外国人コーチを雇うことができるようになったことも効いた。
アジアの1次予選では、多くの組が1カ国か2カ国での集中開催となっているが、モルジブの属する第九組は完全な「ホームアンドアウェー」形式で行われている。
そのおかげで、国民の20分の1に当たる1万2000人が、国立スタジアムでこの幸福な勝利を楽しむことができた。
今週末から、厳しいアウェー3連戦がスタートする。国民も、モルジブが中国を押しのけて最終予選に到達するとは考えていないだろう。
しかしたとえ中国に手ひどくやっつけられたとしても、モルジブの人びとの幸福感を奪うことはできないだろう。彼らの「ワールドカップ」は、まさに2001年の4月1日にあった。この日付けは、モルジブのサッカー史に永遠に語り継がれることになるだろう。
(2001年4月4日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。