コンフェデレーションズカップが始まる。日本サッカー協会が何と言おうと、これはワールドカップの「リハーサル大会」である。信じがたいほど短い準備期間しかなかったが、「来年」へ向け、さまざまなことが試される大会だ。
きょう、水曜日の午後5時には、韓国の大邱(テグ)で開幕のフランス対韓国が行われる。明日試合が行われる鹿嶋と新潟、そして来週準決勝と決勝が行われる横浜の会場では、役員やスタッフが緊張感を高めているだろう。
みんな、失敗のない立派な運営と評価されたいと願っているに違いない。静まりかえったスタジアムや、閑散としたメディアセンターのなかで、最後の準備に追われながらも、不安と同時に大きな期待を抱いて、「自分たちの番」を待っているのではないか。
そうした役員やスタッフに、いま、ぜひとも思い起こしてほしい言葉がある。
「ホスピタリティー」(客をもてなす心)。
世界中で多くの大会を見てきたが、失敗のない運営など、皆無だった。すべてが計画どおりに運び、観客や報道関係者が何の苦痛も感じず、100パーセント満足いく大会など、いちどもお目にかかったことはない。
大会のはじめに、そして途中に、必ず何らかのトラブルがあり、困難がある。いらいらし、自分の顔が険しくなるのがわかる。
そんなときに救いになったものは何か。それは役員や運営スタッフの心からの親切だった。仕事だからするのではない。相手が困っているのがわかるから、何とか助けになりたいという気持ちが伝わってくるのだ。
助けが功を奏するときもある。結局だめだったときもある。しかし私が困難に陥っているときに同じ気持ちになって助けようとしてくれる人の存在は、いつの間にか私の心から怒りやいらつきを消し去った。そして私は表情が穏やかになっているのを感じた。
ナイジェリアで行われたワールドユース選手権(99年)で、通信のために使うことのできる良好な電話回線を探して数時間歩き回ったことがある。スタジアムのメディアルームが閉鎖されていたため、運営本部や近くの電話会社など、あちこちをたらい回しにされたのである。
結局、電話会社の社長が、なんと自宅に案内して、電話回線を貸すだけでなく、お茶やお菓子を出してくれた。おかげで、その数時間が楽しい思い出となった。
日本人は、仕事に対して非常にまじめだ。それはもちろん長所なのだが、短所になるときもある。
何かトラブルがあって、役員やスタッフのところに人がくる。そのとき、役員やスタッフが考えなければならないのは、マニュアルを思い出すことではない。何よりもまず、その人がどう困っているのか、どんな気持ちなのか、想像力をめいっぱい働かせて、相手の身になって考えることだ。
トラブルのときだけではない。小さな用のときにも、明るい表情で元気よく対応されたら、理屈抜きに気分がよくなる。「間違いがないように」と緊張していたら、冷たく、よそよそしい感じを与えてしまうかもしれない。
大会の印象は、こんなところで決まる。運営スタッフが明るく、親切だったら、どんな不便があっても、悪い思い出にはならないものなのだ。日本での試合スタートに先立って、相手の気持ちを思いやる「ホスピタリティー」の心を思い起こしてほしい。
難しいことではない。失敗など恐れず、自分自身で仕事を楽しむことだ。そしてその心を、外国からくるサポーターや報道関係者にも伝えてほしいと思う。
(2001年5月30日)
「サッカーは筋書きのないドラマです」
そう話したのは、英国のエリザベス女王だった。考えぬかれたシナリオもまったく及びもつかないドラマチックな結末を見ると、私はいつもその言葉を思い出す。先週土曜、ドイツのブンデスリーガの最終節が、まさにそうだった。
優勝にいちばん近いバイエルン・ミュンヘンと、2位シャルケ04の間には、勝ち点3の差があった。シャルケがどんな結果になろうとも、バイエルンは負けなければ優勝が決まる。リーグ最終日、バイエルンはアウェーでハンブルガーSVと戦い、シャルケはホームで残留に必死のウンターハヒンクを迎えた。
バイエルンは余裕だった。守備重視の手堅いサッカーで0−0のまま後半44分まで終えた。3年連続のリーグ優勝は彼らの手中にあった。
一方のシャルケは前半27分までに2点を失うという苦戦。6万を超すサポーターに後押しされて前半のうちに同点に追いついたが、後半の半ばには再び1点をリードされた。しかし終盤、爆発的な攻撃力で3点を連取、5−3で勝利を確定しようとしていた。
そのとき突然、スタンドから歓声が上がった。ハンブルガーがなんとバイエルンの堅陣に穴を開けたのだ。後半44分、バルバレズが放ったヘディングシュートは、バイエルンGKカーンをあざ笑うかのようにゴール右隅に飛び、ネットに吸い込まれた。
シャルケのスタジアムでは、試合終了とともにお祭り騒ぎが始まった。ファンはピッチになだれ込み、選手たちと抱き合いながら43年ぶりの「優勝」を祝った。
ハンブルガーのスタジアムでは、バイエルンのサポーターが絶望に打ちひしがれていた。しかしチームはあきらめていなかった。赤いユニホームが次つぎと相手ゴール前になだれ込んでいく。
そのとき、信じがたいことが起こった。バイエルンの攻撃をかろうじて防いだハンブルガーのDFのキックをキャッチしたGKのプレーに、バイエルンの数選手が「バックパスを取ったぞ!」とアピールすると、メルク主審は魅入られるように笛を吹いてしまったのだ。今日ではこのような競り合いからのキックにはほとんど適用されることがない「バックパスルール」だ。
ゴールまでわずか10メートルの間接FK。しかしハンブルガーのゴール前には、ぎっしりと人が立ち並ぶ。こうしたケースが得点につながることは、意外に少ない。
ロスタイムはすでに4分を超えている。最後のチャンスだ。バイエルンはGKカーンまで上がってくる。
主将のエフェンベルクが短くキック。それをスウェーデン代表のアンデションが冷静に低いシュート。ボールはゴール前に立つ相手DFの股間を抜け、ネットに突き刺さった。同点だ。引き分けは、もちろん、バイエルンの優勝を意味していた。
「サッカーには、神はいなかった」。シャルケのアサウアー・マネジャーはうめいた。
バイエルンは、99年のUEFAチャンピオンズリーグ決勝で、終了直前まで1−0とリードしながら、ロスタイムに2点を失って1−2でマンチェスター・ユナイテッドに破れた。世界のサッカー史に残る逆転劇だった。その経験が、選手たちに最後まであきらめないスピリットをもたらしたのだろうか。
今夜(日本時間明日未明)、バイエルンは、2年ぶりのチャンピオンズリーグの決勝を、スペインのバレンシアと戦う。
ドラマ以上のブンデスリーガ最終戦後、冷静さを取り戻したバイエルンのヒッツフェルト監督は、こう語った。
「水曜日の試合に勝つまでは、本当のお祝いはできない」
(2001年5月24日)
5月31日、コンフェデレーションズカップの初戦(新潟)で日本が対戦するカナダは、出場8チーム中唯一、来年のワールドカップの予選敗退が決まっている。昨年9月、トリニダードトバゴ戦の0−4の敗戦で、カナダの「ワールドカップ2002」は終止符が打たれた。
カナダは、昨年2月に行われた北中米カリブ海サッカー連盟の「ゴールドカップ」で優勝し、今回のコンフェデレーションズカップへの出場権を得た。カナダ代表の115年の歴史で得た初めての国際タイトルだった。
準々決勝のメキシコ戦で、カナダは超守備的な試合を見せ、1−1の同点から延長前半2分にMFヘイスティングスが「ゴールデンゴール」を決めて大番狂わせを演じた。
準決勝、決勝のヒーローはGKフォレストだった。決勝戦のPKストップを含む再三のファインセーブでピンチをしのぎ、優勝をもたらした。
率いるのは、かつて浦和レッズをJリーグの「お荷物」的な存在から優勝争いをするまでにしたドイツ人、ホルガー・オジェック監督である。98年9月に就任、難しい状況のなかでよくチームをまとめた。
カナダの最大の問題は、国内に全国リーグがないことだ。もちろんプロではないから、代表選手の大半はヨーロッパに出て、トップリーグだけでなく、ときとして2部、3部でプレーしている。ワールドカップ予選の敗因は、ヨーロッパのクラブ在籍選手が休暇明けでコンディションが整わなかったためといわれる。
しかしこの敗退決定直後、カナダ協会はオジェック監督に2006年までの契約延長を提示、感激したオジェックは即座にサインした。
「カナダでは、アイスホッケーやバスケットボールの人気が高く、サッカーはマイナー競技にすぎない。ゴールドカップで、ある試合が生中継されたのだが、それも前半30分まで。アイスホッケーの中継に切り替えられてしまった」と、オジェックは、サッカーの地位の低さを嘆く。
しかしカナダは、実は、世界でも最も歴史のあるサッカー国のひとつでもある。最初の「フットボール」の記録は1846年。その17年後に統一ルールができて「サッカー」が誕生してからは、東部を中心に盛んに行われた。
最初の国際試合は1885年のアメリカ戦。この試合は、英国とアイルランドを除くと、世界最古の国際試合でもある。1912年には協会が設立され、国際サッカー連盟(FIFA)に加盟した。
サッカーは東部から西部へと広がっていった。しかしラグビー・ルールの競技に切り替えるチームも多く、南米諸国のようにサッカーが熱狂的に愛されることはなかった。
ワールドカップ決勝大会の出場は86年メキシコ大会の1回だけ。フランス、ハンガリー、ソ連を相手に、3戦全敗、得点0、失点5だった。
しかし近年は、少年少女の間で人気が定着し、競技登録人口はアイスホッケーを抜いてナンバーワンスポーツとなった。ユースの強化策も進み、好プレーヤーが続々出てくるようになった。アメリカのように、国内にしっかりとしたプロの全国リーグをつくることが、次の大きな目標だ。
そのためには、オジェック監督率いるカナダ代表が、2006年ワールドカップへの出場権を獲得し、ファンを増やすことが前提となる。
現在のスターはイングランドのウェストハムで活躍する大型GKのフォレストと、同じくイングランドのフルハムでプレーする小柄なFWのペシソリド。固い守りから鋭い速攻を繰り出すカナダは、日本代表にとって、けっして簡単な相手ではない。
(2001年5月16日)
Jリーグ1部(J1)の第1ステージも、折り返しの第8節を過ぎた。
プロフェッショナルな戦いで首位を独走するジュビロ磐田にそれに対抗できそうなチームがないのはすこし寂しい。だが観客動員は好調だ。8節までで総入場者はすでに100万人を超えた。1合平均1万6702人。昨年の50パーセント増しという数字だ。
ゴールデンウイークの真っ只中の5月3日に行われた第7節では、8試合に16万6634人、1試合平均2万人を超すファンが集まった。
観客増には、いくつかの要因が重なっている。
第一に、鹿島アントラーズが4回のホームゲームをすべて東京の国立競技場で開催していること。カシマスタジアム改装のための「緊急措置」だが、それが1試合平均2万8996人という最多観客数に結びついている。
第二には、東京スタジアムの完成で、FC東京と東京ヴェルディが観客数を大きく伸ばしていること。ともに昨年の3倍以上にあたる1試合平均2万3000人台だ。今月はさらに静岡県のワールドカップスタジアムと拡大されたカシマスタジアムがオープンする。「新スタジアム効果」は、さらに広がるはずだ。
第三に、浦和レッズのJ1復帰。5月3日には国立競技場を満員にし、平均2万5733人。レッズの大サポーターは、アウェーゲームでも観客増に大きく貢献している。
第四には、「サッカーくじ」(toto)人気がある。1億円の賞金が2度も出たことで、売り場不足をものともせず、売り上げを伸ばしているtoto。それがスタジアムへ人を引き付ける力になっているのはまちがいない。
しかし私は失望している。これほど好材料がそろっているのに、各クラブの「努力」が感じられないのだ。
ファンをスタジアムに呼ぶための宣伝や「営業活動」には力を入れているかもしれない。しかし肝心の試合運営は、何の変化も見えない。
プロサッカークラブの「商品」とは、年に10いくつかのホームゲームである。いくら大声を上げて売り出しをしても、その商品を改善していかなければ、一時的に増えた「お客さま」はまたすぐに去ってしまう。
スタジアムのアクセスを、より快適に、そしてより楽しい雰囲気のものにするために、何かアイデアはないだろうか。試合をフルに楽しんでもらうために、どんなサービスが必要か。スタジアム内で、観客に不要な不快感や苦痛を与えていないか。
試合運営のあらゆる側面において、「もっといいもの」があるはずだ。別にカネなどかけなくても、工夫やほんのすこしの努力で、試合観戦を快適に、楽しいものとし、「商品価値」を上げていくことはできるはずだ。しかしJリーグの各スタジアムを訪れても、そうした努力の跡はまったく伝わってこない。
あるのは、「マニュアル」化した機械的な試合運営ばかり。いつもどおりにやることしか頭にないから、現場の運営スタッフの顔に輝きがない。運営側にうきうきとした気持ちがないから、スタジアムが楽しい場にならない。
「もっとこうしたら」「こんなことをしたらどうだろう」。そんなアイデアが、アルバイトを含めた全運営スタッフのなかから湧き上がるように出て、それが次つぎと実行に移されていくような試合運営こそ、いま必要ではないか。
いくつもの好条件が重なっている。Jリーグの各クラブにとっては「千載一遇」のチャンスに違いない。それを生かすために、知恵を絞り、アイデアを出し、毎試合、前の試合より何か一歩進んだ試合運営に努めなければならない。
(2001年5月9日)
南スペインのコルドバ市で行われたスペイン対日本の親善試合取材の帰途、マドリードで短時間の空きがあったため、「レアル・マドリード」クラブの「サンチャゴ・ベルナベウ」スタジアムを訪れた。
世界でも屈指の名スタジアムのひとつといっていいだろう。82年ワールドカップ・スペイン大会決勝戦の舞台。ことし7月には、「クラブ世界選手権」に出場するジュビロ磐田が、初戦をヨーロッパの王者レアル・マドリードとここで戦うことになっている。
スペインの首都マドリードの北部、多くの省庁や美術館が集まるカステリャーナ大通りに面した一等地に、巨大なスタジアムがそびえている。日本でいえば、東京の霞ヶ関のような場所である。
1902年創立のレアル・マドリードは、20年代からここに隣接する土地に1万5000人を収容するスタジアムを所有していた。当時すでにスペイン屈指の強豪クラブのひとつだったが、優勝回数は同じマドリードの「アトレチコ」に及ばず、抜きん出た存在というわけではなかった。
内戦後の1940年代に会長になったサンチャゴ・ベルナベウは、クラブを発展させるために新スタジアムの建設を決意、3年間を費やして12万人収容の偉容を誇るスペイン最大のスタジアムが完成した。竣工は1947年12月のことだった。
そして50年代、レアルは世界一のクラブとなった。スペイン・リーグで4回の優勝を果たし、55年に始まったヨーロッパ・チャンピオンズ・カップでは第1回から5連覇という偉業を達成したのだ。上から下まで真っ白なユニホームのレアルは、スペインだけでなく、ヨーロッパ・サッカーの伝説となった。
82年、スペインがワールドカップを迎えたときには主会場となり、三方のスタンドに巨大な屋根がとり付けられるなど、大改装が行われた。その後、四隅の外部には階段を使わずに上部スタンドに昇ることができるらせん状のスロープがつくられ、さらに近代的なスタジアムとなった。
スタンドにはいると、その大きさにあらためて圧倒される。全個席になった現在でも、10万を超す収容力をもっているのだ。ラインぎりぎりのところから立ち上がったスタンドが、4層に積み重なってピッチを取り囲んでいる。満員になったら、その威圧感は、世界のどのスタジアムにもないものになるだろう。
ラテン系の国ぐにのスタジアムにつきものの「堀」がないことも、大きな特徴といえるだろう。実は、このスタジアムのピッチは、地表から10メートルも下がったレベルまで掘られている。そのわずか1メートル下に地下鉄10号線が走っているため、堀をつくることができなかったのだという。堀がないことがさらにスタンドとピッチを近づけ、威圧感を増している。
スタンドに立って思ったのは、前日、前半だけの出場ながら格違いのプレーで日本守備陣を手玉にとったスペイン代表FWラウルのことだった。彼は子どものころからレアルに所属し、17歳のときからここで10万の観衆に囲まれてプレーしてきた。
国内リーグのホームゲームだけで年に19試合。ヨーロッパの「チャンピオンズ・リーグ」などを含めると、年間に30数試合を、ホームの大観衆が生む巨大なプレッシャーのなかで戦っているのだ。その経験が、どれほどラウルの力となっているだろうか。
それが「伝統の力」というものなのだろう。1試合平均の観客数が1万5000人を超すかどうかという日本のJリーグを考えながら、私たちの前にある「道」が、まだまだはるかであることを思わずにはいられなかった。
(2001年5月2日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。