兵庫県明石市の花火大会で起きた惨事のニュースを見て、「他人事ではない」と感じたのは私だけではないはずだ。
狭い歩道橋に一挙にたくさんの人が詰め掛け、しかも進もうとした方向がぶつかり合った。その「前線」にいた人びとが押しつぶされた。重軽傷者は100人を超すというが、命を落とした人が2歳から9歳の子どもと、お年よりの女性だったことが、やりきれない思いにさせる。「弱い者」が犠牲になったのだ。
「他人事ではない」と思ったのは、この事件がサッカー場で繰り返されてきた惨事とそっくりだからだ。
1985年にベルギーのブリュッセルで起こった「ハイゼル事件」では、相手チームのサポーターに襲いかかられて逃げようとしたイタリア人ファンが、わずか高さ1メートルの壁に押し付けられて39人もの死者を出した。89年にイングランドのシェフィールドで起こった事件では、95人もの人が亡くなった。入場券をもたないファンが入場ゲートを破って場内に突進したことが原因だった。
昨年からことしにかけては、アフリカ各地で同様の惨事が繰り返されている。1年足らずのうちに200人以上がサッカー場で命を落としているという。あってはならないことだ。
大量虐殺のために爆弾やマシンガンが使われたわけではない。「凶器」は人間だった。人間の集団と、群集心理と、そして安全対策の甘さだった。まさに「人災」だった。
日本も例外ではない。95年のJリーグでこんな事件があった。柏で行われたレイソル対ガンバ大阪。試合後、ゴール裏にいたガンバのサポーターが、レイソルのファンに三方を囲まれて襲われたのだ。女性を含む約20人のガンバ・サポーターは、ゴール裏の防球ネットに詰まって逃げ場を失った。最終的にはネットの一部をはがして逃がしたのだが、非常に危険な状態だった。
暴力的な行動に出たレイソル・ファンは、わずか数人だった。しかし群集心理からか、彼らの周囲にいたファンも、口々にののしり、それがガンバ・サポーターに恐怖を与えた。警備員は数十人いたが、「押さないでください」と繰り返すだけで、押し寄せるレイソル・ファンを排除することができなかった。
「人災」の危険は、サポーターの暴走だけではない。地震や火災のときに、実際どうなるか。恐慌状態に陥った観客が短時間に出口に集中したら、あるいは下り階段で押されて誰かが倒れたら、とんでもないことになる。実は、地震や火災よりも、こうした「人災」のほうが怖いのだ。
ことしにはいって次つぎと完成したワールドカップ用のスタジアムの多くは、試合を見やすくしようと、観客席の傾斜を急にしている。それも危険な要素だ。
ワールドカップでは、たくさんの外国人観客をはじめ、そのスタジアムには初めてという観客も多いだろう。しかし観客の半数は、通常Jリーグを見ている人びとのはずだ。そうした人びとが、緊急時にも冷静な行動を取れば、スタジアム全体でパニックは抑えることができるはずだ。
Jリーグの各スタジアムでは、場内放送などで緊急時の心構えを告知している。しかし誰も真剣に聞いているようには見えない。ことしの第2ステージのうちに、各スタジアムでなんどか避難訓練を実施しておくべきではないか。大変かもしれないが、人命には代えられない。非常に有用な経験となるはずだ。
明石市の事件では、主催者の見通しの甘さや、警備の不手際が指摘されている。だがどんなに正確に原因を突き止めても、いちど失われた命は戻ってはこない。
(2001年7月25日)
小野伸二の血管にはサッカーが流れている。その赤血球は、白黒のサッカーボールに違いない。
今週土曜日に広島で行われるサンフレッチェ戦を最後に浦和レッズを離れ、小野はオランダ、ロッテルダム市の名門クラブ、「フェイエノールト」に移籍する。
先週、ジェフ市原を迎えての「ホーム最終戦」、別れを惜しむファンの声援に、小野は見事なプレーで応えた。初めてプレーするFWというポジションから、自由自在に動いて攻撃を組み立てた。今季絶好調のジェフも、前半なかばを過ぎて小野が「フル稼動」を始めてからは、沈黙せざるをえなかった。
静岡県沼津市で生まれた小野は、幼稚園時代にキックの魅力に取りつかれ、自宅近くの空き地のコンクリート壁に向かって、毎日ひとりでボールをけりつづけた。やがて小学生時代に「サッカー」というゲームと出合い、チームで行う試合のなかでゴールを決めること、試合に勝つことの喜びを覚える。
沼津市の今沢中学校から清水商業高校時代にかけて、小野はテクニックを磨き上げ、「天才」の名をほしいままにした。各年代の日本代表にも、自動的に選ばれ続けた。
98年のJリーグデビューは、まさにセンセーションだった。体も顔も左を向いていながら、ワンタッチで右にいる味方に出すパスは、ファンを熱狂させた。Jリーグで2試合プレーしただけで日本代表に選ばれ、6月にはワールドカップ・フランス大会にも出場した。
それから3年半、ワールドユース選手権準優勝、左ひざの大けが、レッズのJ2降格、相次ぐ故障、そして「(ワールドカップへの)最後のチャンス」と自ら言い切って臨んだ先月のコンフェデレーションズカップ準優勝などの「アップダウン」を経験した。そのなかで、小野のサッカーはぜい肉がそぎ落とされ、よりシンプルになった。
ひとりでボールをけることに熱中していた幼年時代、相手を抜き、ゴールを決めて、飽くことなく勝利をつかもうとした少年時代、そして、トリッキーなパスを駆使して相手の逆をとることを楽しんだ青年時代。そうした時期を経て、小野はチームの勝利のためのプレーに徹する成年期を迎えた。それは、一選手の成長の跡であると同時に、サッカーという競技の、発展の歴史そのものでもあった。
先週のジェフ市原戦の決勝ゴールは、小野のFKが相手DFに当たり、大きくコースが変わりながら、ゴールぎりぎりにとび込んだものだった。
「チームメートや、周囲で僕を支えてくれた人の力が、あのボールをゴールに入れさせたのだと思います」
試合後、小野はそう振り返った。その言葉に嫌味はなく、ごく自然に聞こえた。
「昨年、J1への昇格を決めた土橋さんのVゴールのときにも、そう感じました」
ひとりでボールをけり、ひとりで勝利を決めてきた少年は、「チームゲーム」であるサッカーという競技の本質をつかみ、見事に成熟したサッカー選手になった。
小野の血管に流れる赤血球、サッカーボールは、エネルギーを生む酸素を体中に運ぶだけではない。見ている者に喜びを運び、元気を運ぶ。そして、スタジアムいっぱいの笑顔を生む。
新天地オランダでも、いくつもの試練や壁が待っているだろう。しかしまちがいなく、時を経ずして、小野のプレーは人びとの心をつかむだろう。そして、フェイエノールトの地元ロッテルダムだけでなく、全オランダ、そして全ヨーロッパに、「サッカーの喜び」のメッセージをもたらすに違いないと、私は信じている。
(2001年7月18日)
とうとう残り2試合となった。延期されていた今夜の清水エスパルス戦を含めても、残り3試合である。
名古屋グランパスのストイコビッチがサッカーシューズを壁にかける日が、いよいよ近づいてきた。14日のサンフレッチェ広島戦(名古屋・瑞穂陸上)がホーム最終戦、そして21日の東京ヴェルディ戦(東京スタジアム)が現役最後の試合となる。
ドラガン・ストイコビッチ。1965年3月3日、ユーゴスラビアのニシュ生まれ。17歳で町のクラブでプロとなり、21歳で名門レッド・スターに移籍。イタリアで行われた90年ワールドカップで天才的なゴールを決め、世界にその名をとどろかせた。25歳のストイコビッチの前には、輝かしい未来が広がっているように思えた。
しかしこの直後から苦悩が始まる。その夏フランスのマルセイユに移籍したが、ひざを痛めて思うような活躍ができず、翌年にはイタリアのベローナへ移籍。だがこんどは、相手の激しい当たりに自分をコントロールすることができず、出場停止を繰り返した。
ユーゴスラビア代表の試合はなかった。内戦への処罰として、国連がスポーツ交流の禁止を決めたからだ。92年ヨーロッパ選手権の出場権を大会直前にはく奪され、94年ワールドカップは予選にさえ出られなかった。選手として最高の時期であるべき20代の後半、ストイコビッチは忘れ去られた存在になっていた。
94年夏、名古屋グランパスへの移籍。それが大きな転機となった。最初の年は、出場停止を繰り返し、チームも最下位に低迷した。しかし95年にアーセン・ベンゲルが監督に着任すると大きく変わった。チームは整備されてJリーグの強豪に急成長し、ストイコビッチはその天才ぶりをチームの勝利に結びつけた。96年元日の天皇杯優勝は、ユーゴを出てから初めてつかんだタイトルだった。
活動を再開したユーゴスラビア代表での活躍は、多くの人を驚かせた。95年、ペレは「世界の選手トップ3」のひとりに彼の名を挙げた。
94年夏には、ストイコビッチのほかにも、何人もの世界的名手が来日し、Jリーグのレベルアップに貢献した。鹿島アントラーズのレオナルド(ブラジル)、浦和レッズのブッフバルト(ドイツ)などだ。しかしストイコビッチはその誰よりも長くJリーグでプレーした。過去数年間、ストイコビッチは世界に向けてのJリーグの「顔」だった。
あと2試合、スタジアムはこの天才に対する惜別の思いであふれるに違いない。彼のエレガントなボールテクニック、変化に富んだドリブル、正確無比なロングパス、そして意表をつくヒールパス。誰もが、そのプレーのすべてを脳裏に焼き付けようと、目を凝らすに違いない。
しかし私は、そうしたプレーだけでなく、彼の「心」を感じ取りたいと思う。
先週、大分で行われた日本代表対ユーゴスラビア代表戦、ストイコビッチは試合後、こんな告白をした。
「前半はなんとかがんばったが、後半はいろいろな思いがこみ上げてきて、集中力が切れてしまった」
彼のプレーには、超人的なサッカー技術と、試合を読む目があった。しかし同時に、彼のゲームはいかにも人間的だった。過ちや後悔にあふれていた。天才でありながら弱さを隠し切れず、その弱さと戦おうとする人間だった。それこそ、サッカーという競技の根源的な魅力に違いない。
そうしたものをすべて受け入れ、サッカーに対する深い愛情でくるんだのが、ドラガン・ストイコビッチだった。その最後のプレーを、私も心に焼き付けようと思う。
(2001年7月11日)
キリンカップのパラグアイ戦は、日本代表が「本当に変わった」ことが明確になった試合だった。
昨年10月、レバノンで行われたアジアカップで、日本は圧倒的な攻撃力を見せて優勝を飾った。余裕たっぷりのボールキープから、突然の変化で生み出された攻撃は、アジアのライバルたちを圧倒し、次つぎとゴールを重ねた。相手が守備を固めても、絶妙なFKで得点を奪った。
日本の強さは、チームプレーと個人のアイデアの組み合わせにあった。攻撃時に、ある段階までは自動的にパスをつないで組み立て、相手ゴールに迫るとチームプレーの拘束を解いて選手たちの創造性に任せる。高い技術と判断の速さが、その組み合わせに破壊的な力を与えた。
そのアジアカップ以来、ひさびさに日本を見る人がいたら、「これが同じチームか」と目を疑うに違いない。相手ボールになったときのプレーが、この9カ月間で大きくイメージチェンジしたからだ。
攻撃から守備に切り替わったときの日本のチームプレーは、アジアカップ時も見事だった。相手のパスコースを限定し、追い詰め、いつの間にかボールを奪い返してしまう守備だった。
基本的な考え方は、現在も変わりはない。しかし相手ボールに対する個々のアプローチの速さ、詰めの激しさは、アジアカップ時の比ではない。現在の日本選手たちは、身体接触をいとわず、当たり負けもしない。昨年までの「ひ弱さ」は完全に消え、90分間、フルに、激しく戦うチームになった。
変化の触媒役を果たしたのは、もちろん、ことしになってから経験した世界の強豪との対戦だった。
3月にパリでフランスと対戦して0−5で叩きのめされた。昨年のアジアカップ時のサッカーができれば、勝てないまでもいい試合になるのではないかという期待は、こなごなに打ち砕かれた。
4月にやはりアウェーで戦ったスペイン戦では、その敗戦を生かして徹底的に守備を固めた。ディフェンスに人数をかけ、同時に、個々の競り合いの場面で、ときには過剰な激しさで対抗した。
そして5月末から6月にかけてのコンフェデレーションズカップは、その戦いをできるだけ前でするという「アグレッシブな守備」をつかんだ。スペイン戦は引いて守っているだけだった。しかしコンフェデレーションズカップでは、前に出て戦うことで、ボールを奪った後にいい形の攻撃ができるようになった。準優勝は、そうした段階的な変化がもたらしたものだった。
そして、先日のパラグアイ戦で、その戦い方が、すでに日本代表の「ベース」になっていることが確認された。
相手ボールを追い詰める日本選手の動きが、イタリアでプレーする中田英寿に似てきた。猟犬のように鋭くアプローチをかけ、いちどふっとスピードを緩めて相手に油断させ、その瞬間に襲いかかる。まるでヘビのような、狡猾ささえ感じさせる動きだ。
アジアカップから9カ月。昨年12月の韓国戦を入れても、その間にこなした試合はパラグアイ戦まで9試合にすぎない。しかし経験の内容の濃さが、日本代表を昨年とはまったく別のチームにした。
できるなら、3月のフランス戦のような、本当の意味で「壁」になるような試合が、このあたりでまたほしい。そこで自分たちの成長を確認するだけでなく、乗り越えるべきものまでの距離をしっかり見極めるためにも、相手のホームで世界クラスのチームと戦う機会がほしい。
伸び盛りのいまほど、内容の濃い経験が必要とされているときはない。
(2001年7月4日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。