明日11月1日、Jリーグが10歳の誕生日を迎える。
第1回Jリーグの開幕は1993年5月15日だった。しかし「社団法人日本プロサッカーリーグ(通称Jリーグ)」は91年11月1日に法人設立が認可され、日本サッカー協会「プロリーグ設立準備室」の室長だった川淵三郎さんが初代「チェアマン」に就任した。今季のJリーグは9シーズン目だが、リーグ自体は「満10歳ということになる。
バブル経済の終末期に誕生したJリーグ。日本の社会にとっては激動の10年間だった。そしてこの社会のなかで、Jリーグも大きく変化した。
スタートは、当事者たちさえ驚く熱狂に包まれた。スタジアムは超満員、チケット入手は困難を極め、選手たちは一夜にしてスターになった。その熱狂は数年で去り、暴騰していた選手たちの年俸も、急速に落ちていった。
1年目の93年に1万7976人、翌94年には1万9598人を記録した1試合の平均観客数も、翌年から急落し、97年には1万0131人にまで落ち込んだ。
しかしそれらの事象をJリーグの「凋落」と解釈するのは間違いだと思う。最初が異常だったのだ。数年を経て正常な姿で「定着」したのが、現在のJリーグの姿といえるだろう。その「定着」の姿は、多方面で見ることができる。
第1に、Jリーグの存在が、確実に日本代表の強化、すなわち日本サッカーの世界への進出を支えていることが挙げられる。ワールドカップに出場を果たし、日本からヨーロッパへ移籍して活躍するタレントも出はじめている。プロリーグがなければ、このような急成長を成し遂げることは不可能だっただろう。
第2にクラブ数の大幅な増加だ。スタート当時の10から、99年の2部導入を経て、現在は28まで増えているのだ。東京、大阪、横浜の3都市にふたつずつクラブがあるが、残りは四国を除く日本全国に広く分散している。現在は、実に25もの都市でJリーグが楽しまれていることになる。
第3に、それぞれのクラブがホームタウンに根を張り、地域生活の欠くことのできない一部になりつつあるという点だ。J1の強豪クラブだけの話ではない。観客数の多寡はあっても、それぞれに熱心なファンをもち、スタジアムは熱気にあふれている。
この10年間で最大の事件は、98年の横浜フリューゲルス「消滅」だっただろう。形としては同じ横浜のマリノスとの「合併」だったが、実際には、クラブが突然消滅したのである。
このときのファンの反応こそ、Jリーグの日本社会への定着を明確に示すものだった。誰もが「企業の論理」に屈しかけたとき、ファンだけは事件の本質を見抜き、力を合わせて「自分たちのクラブ」を存続させたのである。そのときに生まれた横浜FCは、ことしJ2への昇格を果たした。
この事件がファンの泣き寝入りで終わっていたら、同様のケースが他クラブにも波及し、Jリーグは危機的状況を迎えていただろう。少なくとも、現在とは本質的に異なるものとなっていただろう。
企業によって支えられてきた日本のスポーツは、90年代の終わりに大崩壊を始めた。そのなかで誰もが「新しいスポーツのあり方」と思い浮かべたモデルが、Jリーグだった。「地域に根ざしたクラブ」という方向性だった。日本のスポーツは、まさにそうした方向へ希望を託し、進もうとしている。
それは、Jリーグが「定着」したものとなったからこその希望に違いない。
「定着の10年」は過ぎた。これからのJリーグは、どのような方向に向かっていくのだろうか。
(2001年10月31日)
「ゴールネット」に不満がある。
サッカーで最もエキサイティングな瞬間である「ゴール」。しかし日本のスタジアムでは、無粋なゴールネットが感動を間の抜けたものにしてしまっているように思うのだ。
「真っ白なゴールネット」の話から始めよう。最初に印象づけられたのは、中学生のときにテレビで見た66年ワールドカップの決勝戦だった。
ロンドンのウェンブリー・スタジアム。延長終了直前、エネルギッシュなジェフ・ハーストが西ドイツの守備ラインを突破し、パワフルな左足シュートを放った。ボールはゴールの左上隅を破り、ゴールネットに突き刺さった。
その20分前にハーストが決めた勝ち越し点は、クロスバーに当たって真下に落ちたものだった。本当にはいったのか、よくわからなかった。だから、真っ白なゴールネットを大きくふくらませ、力を失ってゴール内に落ちたボールは非常に印象的だった。
日本では、90年代のはじめまでゴールネットは黒やうすい茶糸などが主流だった。白いネットもあったが、細いひもでつくられ、現在のように目立つものではなかった。真っ白な太いひもで編まれたものになったのは、91年に住友金属でプレーを始めたジーコの助言からだった。
「サッカーはあのネットにボールを入れることを目指すスポーツなんだ。ネットを真っ白にして、ピッチ上のどこからでも目立つようにしなくてはいけない」
ゴールネットに関する競技ルールの規定は、驚くほどあっさりとしている。
「ネットをゴールとその後方のグラウンドに取り付けることができるが、それは適切に支えられ、ゴールキーパーの邪魔にならないようにする」
これだけである。ネットの色どころか、奥行きや張り方に関する規定もない。
以前、日本の多くの競技場では、「移動式」のゴールが使用されていた。ネットを張り、全体の構造を支えるためのゴール後方の支柱と、ゴールポストが一体となっている形だ。
しかしこの形だと、シュートが後方の支柱に当たってピッチ内にはね返ることがある。誤審のもとになるので、現在は大半のスタジアムで「埋め込み式」のゴールが使用されている。ゴール本体はポストとバーで構成された部分だけ。ネットは、ゴールの後方に別に立てられた支柱から引っぱって張る方式だ。
競技ルールにはないが、国際サッカー連盟(FIFA)発行の「スタジアム建設指針」には、この方式が推薦されている。いわば「世界標準」の方式といってよい。
では、その何が無粋なのか。日本では、ネットをあまりに律儀に、きちんと張りすぎているのだ。後方に強い力で引っぱるだけでなく、下にも引っ張り、固定してある。だから強いシュートがはいると、ネットからはね返されてピッチ内に戻ってしまうのだ。
もちろん誤審を招くようなはね返り方ではない。しかしボールがゴール内にとどまらないことで、ゴールの印象が薄くなるように思うのだ。
当然、ボールが抜けないように「すそ」の部分は地面に固定しなければならない。しかしネットに余裕をもたせて、カーテンのようにたるむようにできないだろうか。そうすれば、どんな強シュートでもネットで力を吸収され、ピッチ内にはね返ってくることはなくなる。
強烈なシュートがGKを破り、ネットに突き刺さる。その瞬間のネットの揺れ、この地上では他に見ることのできないたわみ、そして力なくゴール内に転がるボール。それでこそ、「ゴールの感動」が完結するように思うのだが...。
(2001年10月24日)
「ファンのみなさま、本当に...おめでとうございます」
ぼんやりと夜のスポーツニュースを見ていたら、思いがけない言葉が飛び込んできてとびはねた。
画面には、プロ野球、ヤクルト・スワローズの若松勉監督がいた。一瞬、その日にファン感謝デーでもあったのかと思ったが、日本シリーズの直前にそんなものがあるわけがない。よく聞くと、10月6日、セ・リーグ優勝を決めた直後に語った言葉だった。
こんなすばらしい言葉を聞き逃していたのかと、すこしあせった。だが考えてみると、その日私は日本代表の遠征にくっついてイングランドのサウサンプトンにいた。ホテルの部屋で、マンチェスターでイングランドが劇的にワールドカップ出場を決めたシーンを見て、興奮していたのだ。
まるで、2年前のUEFAチャンピオンズリーグの決勝戦、マンチェスター・ユナイテッドがロスタイムにはいっての連続得点でバイエルン・ミュンヘンに逆転勝ちした試合の再現を見る思いだった。
イングランドは「楽勝」と予想されていたギリシャに苦戦し、90分が経過したときには1−2とリードされていた。ロスタイムは4分間と示された。その2分が経過したとき、イングランドにFKが与えられた。
東へ約700キロ離れたドイツのゲルゼンキルヘンでは、ドイツとフィンランドの試合がちょうど終わったところだった。0−0の引き分けだった。もしイングランドが敗れれば、ドイツのワールドカップ出場が決まる。しかし引き分けにもち込めば、「韓国/日本大会」へ直行するのはイングランドだ。
ゴール正面28メートルのFK。けるのはイングランドの主将ベッカムだ。右足から放たれたボールは矢のように飛び、ぐいっと曲がってゴールネットを揺らした。ギリシャGKニコポロディスは微動もできなかった。
試合終了後、選手たちは抱き合って喜び、やがて更衣室へと引き上げていった。日本のような「ウイニング・ウォーク」はしないのかと思っていたら、しばらくしてイングランドの選手たちがユニホーム姿のままピッチに戻ってきた。そしてゆっくりと場内を一周しながら、スタンドのファンに手を振った。そのなかで、勝利を決めたベッカムが、両手を上げてスタンドに向かって拍手する姿が映った。
「みんな、おめでとう。さあいっしょに韓国/日本に行こう」
ベッカムはそう言っているように思えた。
ワールドカップ出場という偉業を達成したのは選手であり、イングランドというチームである。しかしファンも、チームと一体となって、つらいときにも戦い続けてきた。この日偉業を成し遂げたのは、ファンたちでもあった。
そうしたチームとファンのつながりは、栄光のときだけではない。2年前、浦和レッズのJ2降格が決まった試合の直後、サポーターたちはつらさをこらえて叫び続けた。
「ウィー・アー・レッズ!(僕らはレッズだ)」
ヤクルト・スワローズの優勝もまた、苦しい時期にも応援を続けたファンのものでもあった。だから、若松監督は、ファンに向かって、「応援ありがとう」と言う前に、何よりも、心から「おめでとう」と言いたかったに違いない。
プロ野球というと、資金にあかせてスター選手を買い集めるチームの話題ばかり出る。しかしこの若松監督のような心を、多くの人がもっているからこそ、長い間、これほど大きな人気を保ち続けているのだと、よく理解できた。
若松監督のひとことは、ことしのスポーツ界で聞いた、最も感動的な言葉だった。
(2001年10月17日)
「ほらね、ここに私の名前もあるんだ」
誇らしげな笑顔でレンガ壁の一角を示したのは、警備のボランティアとして働くビル・ケインさん(60)だ。
日本代表がナイジェリアとの「ホームゲーム」を行ったイングランド南部サウサンプトンの「セントメリーズ・スタジアム」は、プレミアリーグ「サウサンプトンFC」のホームスタジアム。ことしの8月にオープンしたばかりの、イングランドで最も新しいスタジアムである。
サウサンプトンFCは70年に来日し、日本のファンにイングランド・サッカーの魅力をたっぷり見せてくれた。当時のエースであったロン・デービス、マイク・シャノンの、長身を生かしたヘディングの威力は抜群だった。
イングランド南部の最大の港湾都市サウサンプトン。悲劇のタイタニック号が出帆した港でもある。サウサンプトンFCが誕生したのは、1885年。「セントメリー教会」のYMCAのチームだった。以来、クラブは「セインツ(聖者たち)」と呼ばれることになる。そしてこのクラブが歴史の大半を「ホーム」として過ごしたのが、「ザ・デル」と呼ばれるスタジアムだった。
住宅地の真ん中に建設されたザ・デルは、イングランド・サッカーの魅力がいっぱいに詰まったスタジアムだった。スタンドからピッチまでの距離が近く、選手とサポーターは一体となって戦った。屋根を支える柱が何本もスタンド前に立っていたが、それも「イングランド・サッカー」のひとつの味だった。1969年には3万1044人の最高観衆を記録している。
しかしフーリガン撲滅のために、イングランドでは90年代半ばに観客席の全個席化が義務づけられた。ゴール裏の立見席が廃止された結果、ザ・デルの収容人員はわずか1万5300人にまで落ちてしまった。プレミアリーグでは最少の収容数だった。
これでは、ファンの期待に応えられないだけでなく、クラブの財政上も厳しい。サウサンプトンFCは「新しい家」への引越しを決意し、候補地を探し始めた。
ザ・デルは、都心から徒歩10分ほどの便利な場所にあった。郊外に出ればいくらでも土地はあるが、クラブは都心に近い土地を探した。ようやく見つかったのは、クラブ発祥の「セントメリー教会」があった場所の近くだった。
2000年6月に工事が始まり、わずか1年間で最新の設備を備えた3万2000人収容のスタジアムが完成した。360億円といわれる建設費は、ザ・デルの敷地の売却、クラブ・スポンサーの不動産業「フレンズ・プロビデント」からの出資(スタジアムの正式名称に企業名を入れる権利を得た)、そして借り入れ金でまかなった。
その借り入れ金をすこしずつでも返済しようと始められたのが、市民、ファンからの募金だった。一口30ポンド(約5400円)。応募者には、スタジアム外壁のレンガのひとつに名前と簡単なメッセージを入れてくれる。
ケインさんは自分の名前とともに「コックスフォード」という市内の住所名を入れた。他のレンガには、「がんばれセインツ」「生涯セインツ」「SFCよ永遠に」などのメッセージが見られる。
「いまでも募集しているよ。きみも1枚どうだい?」ケインさんはそういって笑った。
ロンドンからの列車がサウサンプトン中央駅に近づくと、左手に真新しいスタジアムの真っ白な屋根を見ることができる。クラブと企業と、そして市民が一体となって実現したセントメリーズ・スタジアムは、この町の新しいランドマークであり、同時に誇りとなっている。
ビル・ケインさん
(2001年10月10日)
現在、日本代表はヨーロッパに遠征している。4日(木曜日)にフランスのランス(Lens)でセネガルと対戦し、7日(日曜日)には、イギリスに渡ってサウサンプトンでナイジェリアと対戦する。
日本代表のことしのテーマのひとつが「世界の強豪とのアウェーでの対戦」だった。フランスもイギリスも、たしかに「ホーム」ではないが、かといって「相手国」でもない。最初の対戦相手であるセネガルを材料に、すこし考えてみたい。
セネガルは、7月に終了した2002年ワールドカップのアフリカ予選でモロッコ、エジプトという強豪国を退け、初めて出場権を獲得した。
7月14日、首都ダカールにモロッコを迎えたとき、モロッコは余裕たっぷりだった。引き分けさえすれば、連続出場が決まるからだ。
しかし6万人のホームの観客の前で、セネガルは勇敢な戦いを見せた。前半17分、エースのエルハジ・ディウフが決勝ゴールを決め、1−0で勝利。モロッコは勝ち点15、得失点差+5で全日程を終えた。
セネガルが最終戦でナミビアに勝てば、モロッコに勝ち点で並び、得失点差で上回ることになる。しかしライバルはモロッコだけではなかった。エジプトも、セネガルと同勝ち点でアルジェリア戦を残していたのだ。
7月21日セネガルはナミビアの首都ウィントフークに遠征し、5−0の快勝。一方のエジプトは、アルジェリアと1−1で引き分けた。アフリカ大陸の南北に7000キロも離れたふたつの試合の結果は、セネガルにワールドカップ初出場をもたらした。ダカールでテレビに見入っていたファンは通りに飛び出し、町を挙げ、夜を徹してのお祭りになったという。
セネガルはアフリカ大陸の西端に位置し、ヨーロッパとアメリカ大陸を結ぶ航路のちょうど中間にあたるため、18世紀から列強が争奪戦を続けた。そして19世紀半ばにフランスの支配権が確立し、1960年に独立を達成するまで植民地の時代が続いた。公用語はフランス語である。
サッカーはフランス人の手で導入された。最初はフランス人だけのものだったが、次第に地元の人々も参加し、第二次大戦後には「フランス領西アフリカ・リーグ」も誕生した。独立後すぐにサッカー協会がつくられ、62年に国際サッカー連盟(FIFA)に加盟した。
しかしワールドカップ初出場までに40年を要した。トップクラスの選手はフランスで活躍していたが、金銭的な条件が合わず、そうしたプロ選手たちをフルに召集することができなかったのだ。2年にいちどのアフリカ・ネーションズ・カップを含め、予選は地元の選手を中心に戦うのが常だった。
しかし今回のワールドカップ予選は別だった。フランス人のブルーノ・メツ監督の下、ヨーロッパで活躍するプロ選手たちが集結、固いチームワークで戦いぬいたのだ。
ヨーロッパといっても、その大半がフランスのクラブである。そして、予選で8得点を挙げた21歳のエース、エルハジ・ディウフ、左バックのフェルディナン・コリー、守備的MFのエルハジ・サール、FWのラミン・サコーの4人は、まさに、日本戦が行われるランス・クラブの所属選手なのだ。
フランス中から、セネガル系の人々が駆けつけるだろう。その雰囲気は、完全に「アウェー」のものとなるはずだ。
アフリカ最終予選8試合で失点わずか2という守備の固さと、「ホーム」のファンの声援にあと押しされる攻撃。この強豪に、日本がどんな戦いを見せるか、本当に楽しみだ。
(2001年10月3日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。