「スタジアムの年」だった。
ことし、4万人以上の収容力をもつ巨大スタジアムが日本全国で実に9つも完成し、使用が始まった。
そのうち7つは、ワールドカップの試合会場として建設あるいは改築されたものだ。札幌ドーム、カシマスタジアム、埼玉スタジアム2002、新潟スタジアム、静岡スタジアムエコパ、神戸ウイングスタジアム、そして大分ビッグアイ。ワールドカップ会場以外にも、東京スタジアムと豊田スタジアムが完成した。1万5000人規模から大増築したカシマ以外は、すべて新築である。日本は一挙にスタジアム大国となった。
国際試合やJリーグを通じて、私は9つの新スタジアムすべてで試合を楽しむことができた。そのなかで私の「スタジアム・オブ・ザ・イヤー」はどこか、考えてみた。
どのスタジアムもすばらしい。それが最大の感想だ。
芝の根付き状態、アクセスの混乱など、使用し始めるとそれぞれに課題や問題が出た。しかし心配することはない。芝は2年目には改善されるはずだ。アクセスも、輸送機関や観客がコツをのみ込めば、次第にこなれていくだろう。
それよりも、各スタジアムの見事さに心を奪われた。どのスタジアムも大きな屋根がつき、すわり心地がよい座席を備えている。デザインや機能など個性的な工夫もある。
ピッチ、アクセスとも課題を残したが、埼玉スタジアムの完成度は世界でも一級品だ。ワールドカップ準決勝の会場にふさわしい。
野球場としての使用が基本となる札幌ドームには疑問をもっていた。しかし北海道の気候条件を考えれば、ドーム型のスタジアムに天然芝のピッチを引き入れるという発想は正解だったように感じた。
驚いたのは豊田スタジアムだ。急傾斜のスタンドは、サッカーの見やすさという面ではナンバーワンかもしれない。しかしそれ以上に、矢作川沿いに立つスタジアムの偉容が感動的だった。
しかし私は、新潟スタジアムに注目したい。新潟市の鳥屋野潟のほとりに3月に完成、5月から使用が始まった。
J2のアルビレックス新潟は、それまで市営の陸上競技場(収容1万8671人)を使用していたが、5月の京都戦で「こけら落とし」を行い、7月14日以降のホームゲームをすべて4万2300人の新潟スタジアムで開催した。
「スタジアム効果」はすばらしかった。市営陸上競技場では1試合平均3815人だった観客数が、新潟スタジアムでは、なんと2万3999人にもなったのだ。J1昇格がかかった11月3日の京都戦は4万2011人。完全に満員となった。
これまでプロのスポーツチームのなかった新潟。10年ほど前にワールドカップの会場候補地に決定したころ、「大会開催だけでは巨大スタジアムを建てる意味はない。スタジアムにふさわしいJリーグのクラブを育てよう」と計画され、「新潟イレブン」という北信越リーグ加盟のクラブチームを母体につくったのが、アルビレックスだった。
苦闘しながら98年にJFLに昇格、99年に新設のJ2に加盟した。ことしは、反町康治新監督の下、しり上がりに成績を上げ、J1昇格へあと一歩に迫る健闘を見せた。「地元のチームを応援する」という新しい喜び、新しい文化を、アルビレックスは市民生活にもたらした。
同時に、市民は大観衆の声援でチームを後押しした。巨大なスタジアムを埋めた大観衆の存在が、アルビレックスをようやく本物のプロにしたといっていいだろう。
ワールドカップが日本で開催されてよかった----。新潟の状況を見ていると、心からそう思う。そしてその「核」こそ、新潟スタジアムだった。
(2001年12月26日)
語るに足らない私のスポーツ生活のなかで、唯一、誇りにできる「パフォーマンス」がある。高校時代のことだ。
ある秋の日、体育館でのマット運動などのはずだった体育の授業が、急に外になった。体育担当のK先生の父君が亡くなり、失意の先生は「指導する気力が出ない」と、「自習」のような形でソフトボールの試合にすることにしたのだ。
先生はグラウンド横の土手に座り、ぼんやりと私たちのプレーを見ていた。体操の名選手で、小柄ながらいつも気力にあふれ、毅然とした姿勢をしていた先生の背が、老人のように丸くなっていた。
試合は、緊張感のない、だらだらとしたものだった。
だが突然、カーン!と鋭い音が鳴った。痛烈な当たりがピッチャーの横を破った。ショートを守っていた私は、無意識のうちにスタートを切り、ゴールキーパーのセービングのように真横に跳んでいた。左手にはめたグローブのなかに、ボールがすっぽりとおさまるのがわかった。
「おおっ!」
大声を上げたのは先生だった。倒れたまま顔を上げると、先生が立ち上がり、大きく目を見開いて、表情がぱっと明るくなったのが見えた。
うれしかった。ファインプレーをしたことではない。私のプレーが、沈み込んだ先生の心を一瞬でも慰め、力を与えたことがわかったからだ。
スポーツには、おそらく、こうした力があるのだろう。敗戦後の日本人に力を与えたのは、プロ野球のはつらつとしたプレーだった。ただひたすら走っているだけのマラソンが人気を集めるのも、そこから強く伝わってくるものがあるからに違いない。
それは、マスメディアが好んで伝える「スター選手」たちの物語ではない。一瞬のうちに見せる超人的な力や技、誰にも真似のできないがんばり、困難にくじけず、それを乗り越えていく力。目を凝らして競技を見ている者ならば、何の解説も必要とせずに伝わってくるものだ。
幸いなことに、2001年のサッカーにも、いくつもそうしたシーンがあった。
日本代表にことしの初ゴールをもたらした小野伸二のFK。堅守を誇るイタリアのゴールをこじ開けた柳沢敦のシュート。同じイタリア戦で、決定的シュートをブロックした宮本恒靖のタックル。
Jリーグでは神戸のカズ(三浦知良)の横浜戦(11月)のゴールが忘れられない。あの切れ味を見ただけで、神戸まで行った甲斐があった。
しかしことしなんといっても私を勇気づけたのは、5、6月のコンフェデレーションズカップで見せた日本代表FW中山雅史のプレーだった。
カナダとの初戦、前半途中から交代出場した中山は、持ち前のエネルギッシュな動きで攻撃をリードした。先制点となった小野のFKは、中山へのファウルで得たものだった。そしてその数分後には、左タッチラインを切るかと思われたパスを最後まであきらめずに追い、西沢明訓の2点目を引き出した。
カメルーンとの第2戦、勝利の2点を決めたのは、「中山さんのようにプレーする」と語ってピッチに出ていった鈴木隆行だった。中山は後半途中から出場し、疲労の見え始めたチームを奮い立たせて勝利へと導いた。
中山は、プロとしてやるべきことをやっただけなのだろう。しかしその徹底ぶり、そして味方を鼓舞する力は、誰にもできるものではない。そのプレーは、味方を勇気づけただけではない。見ている私たちをも勇気づけ、力を与えて、来年への希望を抱かせてくれたのだ。
2002年、ワールドカップで、私たちは、日本代表チームだけでなく、世界の最高峰のサッカーから、大きな力を与えられるに違いない。
(2001年12月19日)
「あっという間に読めますから、どうぞ」
浦和レッズのマッチデー・プログラムの編集長として知られる埼玉新聞社の清尾淳さんから手渡された本は、教科書の副読本のような、薄くて小さな冊子だった。
『浦和レッズのしゃべり場1 土田尚史×田北雄気 先発と控えの際(きわ)』。発行は、さいたま市のランドガレージという出版社。清尾さんが聞き手となって、レッズで長い間ライバル関係にあったふたりのGKの対談を収録したものだった。
土田と田北は、Jリーグでも珍しい関係にあった。
ともに1967年生まれ。大阪経済大を卒業した土田がレッズの前身である日本リーグの三菱にはいったのは89年。その4年目の92年に、東海大を出てNTT関東(現在の大宮アルディージャ)でプレーしていた田北が移籍してきた。
ファイトあふれるプレーを身上とする土田、冷静な守備が売り物の田北。持ち味は対照的だったが、ともにレッズの頼りになる守護神だった。
ある年にはどちらか一方が完全なレギュラーとして全試合に出場し、翌年にはそれが逆転し、さらに翌年にはちょうど半数ずつ出場した。
通常、プロのクラブのGKは力関係が明確で、誰がレギュラーかはっきりしている。しかし土田と田北の場合にはともに正GKだった。サポーターにも「土田派」と「田北派」がいた。これほど強烈なライバル関係は、プロでもあまり例がない。そのふたりが、初めて(!)胸襟を開いて語り合ったのが、この本だった。
現役時代には、チームメートでありながら、ほとんど話したことがなかった。それどころか、目も合わせなかった。ともに現役を退いたことし実現した対談は、ふたりの正直な告白が次から次へと出てくる。出場しているほうがミスをすると、もう一方は、他人に悟られないようにベンチでほくそえみ、「よし、次の試合はオレだ」と思った。相手のけがまでうれしかった。
サッカーというチームゲームにおいて、GKほど特殊な立場はない。ひとつのチームにポジションはひとつしかない。フィールドプレーヤーなら他のポジションでプレーすることもできるが、GKの座はひとつだけだ。「ポジション争い」の意味が、フィールドプレーヤーとはまったく違う。「ライバル」同士の心理は、サッカーより個人競技のものに近いのかもしれない。
ワールドカップを目指す日本代表でも、川口能活と楢崎正剛が強烈なライバル関係を続けている。4年前のフランス大会は川口が正GKで、楢崎は控えだった。1試合も出場できなかった。トルシエ監督時代になって楢崎が優先的に起用されてきたが、ことしの活躍で川口が抜き返した。
そしてそこに、11月のイタリア戦で大活躍を見せた曽ヶ端準が猛烈な追い上げをかけている。コンフェデレーションズカップでブラジルを0点に抑えた都築龍太も、代表の有力候補だ。
ワールドカップ決勝大会の登録選手は23人。GKはそのうち3人だ。その枠を目指す競争がある。さらに正GKの座を巡る争いがある。
4人は、けっして仲のいい「お友だち」にはなれないだろう。表面的にはどんな表情をつくっても、腹の底では「こいつらには絶対に負けない」と、ライバル意識を燃やし続けるに違いない。
土田と田北が普通に話せるようになったのは、土田がコーチ兼任となって実質的に現役を離れた昨年からだったという。その年、田北は自分の闘志を支えてきたのが土田であったことに気づき、以来かけがえのない親友になった。
それでいい。日本代表候補の4人も、そんな関係になればいいと思う。
(2001年12月12日)
ベルギー・サッカーの話をしよう。先週土曜の組分け抽選の結果、ワールドカップで日本の初戦のライバルと決まったチームである。
ヨーロッパの中央に平坦で九州よりやや小さい国土をもち、約1000万人の人口をかかえるベルギー。ドーバー海峡をはさんで北西にブリテン島が広がっているせいか、世界で最も早くサッカーが伝わり、広まった国となった。
イギリス人学校で1860年代に始められたサッカー。1878年には最初のクラブがつくられ、サッカー協会も1895年に協会された。イギリスの4協会を除けば、世界で最も古い協会だ。
ヨーロッパ大陸におけるサッカーの先駆者として、1904年には、国際サッカー連盟(FIFA)創立の中心的役割をフランスとともに果たしている。今回のワールドカップで同じ組にはいった日本とロシアが「日露戦争」を戦っている真っ最中のことである。ちなみに、このときまだチュニジアという国はなく、フランスの植民地の一部だった。
この1904年に、ベルギーは最初の国際試合を首都ブリュッセルで開催している。相手はフランス。3−3の引き分けだった。
ただ、これだけ古いサッカー国でありながら、国際的なビッグタイトルには恵まれていない。1980年のヨーロッパ選手権で決勝に進出し、86年ワールドカップでは準決勝までコマを進めたのが最高の成績である。2000年にはオランダとの共同開催でヨーロッパ選手権のホスト国となったが、グループリーグで敗退という残念な成績に終わっている。
隣国オランダとは、かつてひとつの国だった。現在も公用語としてフランス語とともにオランダ語の双方が使われている。しかし現在では、そのサッカーのスタイルは大きく違う。テクニシャンをそろえたオランダに対し、ベルギーのサッカーは、無骨で、力強さを前面に押し出したプレーをするのだ。
ベルギーのサッカー史には、ときおり、飛びぬけたテクニシャンが出てチームをリードした。1970年代のポール・バンヒムスト、80年代のエンゾ・シーフォなどである。しかし私が見た最も印象的なベルギー代表は、無骨そのもののMFヤン・クーレマンスがリードした86年ワールドカップ・メキシコ大会のチームだった。
グループリーグは1勝1分け1敗の3位。この大会では3位でも勝ち点次第で決勝トーナメントに進むことができたため、かろうじて生き残ったが、ベルギーに注目する人はほとんどいなかった。
しかし決勝トーナメントにはいるとベルギーは勝負強さを発揮する。1回戦でソ連を延長戦の末4−3で下すと、準々決勝も延長に突入し、1−1の引き分けながら5−4でPK戦を制してスペインを退けた。準決勝はマラドーナに技巧的な2ゴールを喫して0−2でアルゼンチンに敗れ、フランスとの3位決定戦はまたも延長戦に突入し、最後は力尽きて2−4で敗れた。
「ゴールデンゴール(Vゴール)」制ではなく、30分間の延長を最後まで戦った当時、ベルギーは丸々1試合分に当たる90分間を余計に戦わなければならなかった。3位決定戦まで7試合、1大会で計720分間ものプレーは、ワールドカップ最長記録である。
メキシコ大会は猛暑の大会だった。そのなかで、華麗さなどかけらもなかったが、クーレマンスの驚異的な50メートル・ドリブルに引っぱられて戦い抜いたベルギーのがんばりは、感動的ですらあった。
大きなタイトルはなくても、「赤い悪魔」とヨーロッパの各国から恐れられているベルギー。その伝統の力をあなどるのは間違いだろう。
(2001年12月5日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。