世界の頂点を競うワールドカップ。それは、プロフェッショナルたちがしのぎを削る戦場だ。「戦士たち」は、ほんのわずかなミスも見逃さず、相手の弱点をついて勝ち上がっていく----。
そんなワールドカップに出場するある選手の自伝を読んでいて、私はまったく別の思いにとらわれた。思い出したのは、高校時代の遊び時間のサッカーだった。
私の学校には、休み時間の遊び場としてアスファルト舗装の中庭があった。そして私たちの「遊び」は、1年中、サッカーのゲームだった。
サッカーのためにつくられた中庭ではない。私たちのゴールは、両隅にあるトイレの壁だった。そこだけ違う色に塗られていたからだ。ふたつのゴールは、正対さえしていなかった。90度の角度で向き合っていたのだ。
それでよかった。大きな展開やスピーディーなプレーができるわけではない。いろいろなグループがいろいろな遊びをしていた。ほかの遊びをじゃましないように、かいくぐるようにパスを回し、ドリブルで進んでいくのだ。
ボールは当たっても危険のない軟式テニス用のゴムマリだった。
狭い中庭に、そんなサッカーのグループがふたつも3つもあった。学年ごとのグループだったのだろう。まさに入り乱れてゲームに興じていた。不思議にけがはなかった。
どうチームの区別をしたのか、よく思い出せない。片方のチームがシャツを腕まくりして区別していたような気もする。とにかく、そんなことで苦慮した記憶などないほど、私たちは「中庭のゲーム」に熱中した。
朝礼前にもゲームをするために、私は始業20分前には学校に着いた。高校の3年間を通じて遅刻も欠席もなかったのは、このゲームのおかげだった。
そして昼休みこそ、私たちの1日のハイライトだった。30分以上プレーできたからだ。私たちは弁当を3分間でかきこみ、誰よりも早く中庭に出てゴールを確保し、ゲームを始めた。昼食後の5時間目、最初の10分間は、流れ出る汗を拭くことで費やされた。
私たちの学校は、サッカーが盛んだった。サッカー部員だけでなく、バドミントン部員、テニス部員、新聞部員など、いろいろな連中が参加していた。バレー部員は、ヘディングの名手だった。空中での姿勢が、うっとりするほどきれいだった。
みんながそれぞれの得意技をもち、短い時間のなかでそれをいかに表現するかを競った。そうしたプレーができた者は、本当に幸せそうな顔をしていた。いや、得意なプレーができなくても、私たちはみんな幸せだった。
その幸せな記憶が、いまも私たちをサッカーと結びつけている。私のようにサッカーを仕事にまでしてしまった者は他にはいないが、多くの同級生が、いまでもシニアチームで試合をし、あるいはフットサルに興じている。
少年時代の幸せなゲームの記憶は、おそらく、ほとんどのサッカー選手にあるはずだ。Jリーグの選手も、ワールドカップのトップスターも、そのサッカーの原点は、少年時代の幸福感に違いない。
冒頭の「自伝」の選手は、空き地に変形のグラウンドをつくり、近所の友だちとそこでゲームに興じた。その幸福感こそ、世界的な名選手になるスタート台だった。
ワールドカップの「戦士たち」の心の底にも、少年時代の幸福なゲームの記憶が眠っている。そしていまも、意識下から彼らを動かしている。
どんな「ビッグビジネス」の時代、どんな「組織的サッカー」の時代になっても、ワールドカップが私たちに夢や喜びを与えるのは、そのおかげに違いない。
(2002年1月30日)
サッカーというスポーツの「伝説」のひとつに、戦争中、イギリス軍とドイツ軍の兵士たちが戦場で試合をしたという話がある。
ヨーロッパを中心に4年間にわたって行われ、1000万人の死者と2000万人の負傷者を出した第一次世界大戦。伝説の試合は、1914年のクリスマス休戦中に行われたという。
イギリス軍とドイツ軍が激しく対立した北フランスからベルギーにかけての戦場。その朝、銃声がぴたりと止み、あたりは静寂に包まれた。
イギリス軍の塹壕(ざんごう)のどこからか、クリスマスを祝う歌声が小さく流れた。それに呼応するように、ドイツ軍の塹壕からは合唱が上がった。そのうち、ドイツ兵が何人か、無人の戦場に這い出してきた。彼らは冬の新鮮な空気を胸いっぱいに吸い込んだ。そしてイギリス兵たちも、塹壕から立ち上がった。
このとき北フランスのラバンティ村郊外の戦場にいたイギリス兵のひとりで、昨年106歳で亡くなったバーティー・フェルステッドさんは、こう思い出を語っている。
「最初は、ただ見合っていた。何をしようということもなかった。しかしそのうちに誰かがサッカーをやろうと言い出した。もちろん、戦場にサッカーボールなんてなかった。そのへんのぼろきれを集めて丸め、つくりあげた。そしてけり始めると、すぐさま試合になった」
「試合といっても、子どもの遊びみたいなものだ。両チームとも50人ほどいただろう。ゴールは目印を置いて決めたけど、何点はいったのか、誰も数えなかったよ」
休戦時の交流は、前線のいろいろなところであったようだ。あるところでは、ひとしきり「歌合戦」が行われた後、互いに歩み寄り、タバコを分け合い、記念品の交換が行われた。しかし多かったのはサッカーの試合だったらしい。
「どこからか、本物のサッカーボールが出てきた」という証言もある。「ザ・タイムズ」紙は、ある戦場でイギリス軍が2−3で敗れたという「記録」を掲載している。
すべてが、フェルステッドさんの経験した試合のように、ただ楽しみのためだけの試合だった。砲弾がつくった穴だらけの戦場。しかし両軍の兵士たちは、嬉々としてボールを追い、開放感に浸った。
そのなかで、互いに敬意が生まれた。ドイツ兵たちは、イギリス兵のドリブルの迫力に舌を巻いた。そしてドイツ兵たちが「とてもいい連中」で、「尊敬すべき」「紳士たち」だったと、イギリス兵たちも口々に語っている。
両軍の兵士たちには、共通の思いがあった。政治家たちが始めた戦争に駆り出され、毎日、生命を危険にさらされ続けることに、兵士たちはうんざりしていたのだ。
ヨーロッパのサッカーは、第一次大戦後に大きく観客数を伸ばした。それは、戦争体験により、平和の尊さ、何も心配なくサッカーを楽しめることのありがたさを、人びとが再認識した結果に違いない。
フェルステッドさんは、こう話している。
「私がそのゲームに参加したのは、ただサッカーが好きだったからだよ」
しかし試合は長くは続かなかった。敵軍と遊んでいる兵士たちを見て激怒したイギリス軍のひとりの少将が、「停戦」を命じたからだ。イギリス兵たちはただちに自分の塹壕に戻った。当然、ドイツ兵たちも同じようにしなければならなかった。
上官の命令には勝てない。しかし「ドイツ野郎をやっつけろ」などとはっぱをかけられても、イギリスの兵士たちは、いっしょに遊んだドイツ兵たちの生き生きとした笑顔を思い浮かべ、しばらくは本気で銃を撃つことができなかったという。
(2002年1月23日)
「メディアの戦い」が始まるーー。
天皇杯後、ほんのつかの間のオフを楽しんだ日本代表選手たちは、来週の月曜日、1月21日から鹿児島県で合宿にはいる。6月4日に行われるベルギー戦まで、いよいよワールドカップへの準備の最終段階が始まる。
3月から5月までの間にこなされる準備試合は総計8。国内で5試合、残りの3試合はヨーロッパで行われる。その一つひとつが、選手たちにとって厳しい真剣勝負だ。
合宿に40人あまりの選手を招集したフィリップ・トルシエ監督にとっても正念場だ。ワールドカップを戦う23人を、5月21日までに決めなければならない。頭のなかにはチームの大半はでき上がっていることだろう。しかし選手を選ぶ作業、すなわち誰かを落とさなければならない作業は、どんな優秀な監督にとっても簡単ではない。
そして、ワールドカップまでの130日間は、選手や監督の戦いと同じように、「メディアの戦い」でもあると、私は考えている。
昨年11月のイタリア戦後、トルシエは「明日がワールドカップ開幕でもだいじょうぶ」と語った。たしかに、昨年の強化試合を通じて、日本代表が短期間のうちに自信を深めたのがわかった。立派に、ワールドカップを戦えるチームが完成したと思う。
しかしひとつだけ未知数がある。大会が近づくに従って強くなるプレッシャーだ。日本選手たちは、これまでも重要な試合をいくつも経験してきた。優勝をかけた試合もあった。しかし「地元開催のワールドカップ」は、誰も経験したことがない。
一昨年のアジアカップ決勝で、トルシエは選手たちの精神的落ち着きに驚いたという。しかしそれは中東レバノンでの大会だった。こんどは、世間の騒音から遮断されたホテルにいても、テレビや新聞が自分たちの話題ばかりという状況になる。選手たちがどんな精神状態になるか、まったく予想がつかない。
そこで大事になるのが、メディアの姿勢だと思うのだ。
もちろん、メディアの役割として、日本代表やワールドカップの話題を大量に報道することになる。それによって国民的期待が増幅され、プレッシャーとして選手たちに重くのしかかっていくだろう。それは当然のことだと思う。
しかし報道というのは、ひとつの記事、ひとつのコメントが暴力にも似た働きをし、選手や監督に大きなストレスをかけることも可能な道具なのだ。メディア側は、それを意識しなければならない。
4年前のフランス大会で日本代表の監督を務めた岡田武史さんは、準備期間から大会を通じて、メディアのプレッシャーから選手たちを守る手段がなかったと、大会を振り返った。言ってもいないことを書かれても、選手や監督には反論の機会がない。そうしたことの積み重ねが、大きなストレスになったという。
大会前の準備試合の結果に一喜一憂してはいけない。それが6月の試合とどうつながるのか、冷静に判断した報道に努めなければならない。
センセーショナリズムに走ってはいけない。ジャーナリストは、自分たちが新聞や雑誌を売るためでなく、日本代表チームとファンの橋渡し役として存在することを常に念頭におかなければならない。
ひたすら「がんばれ」とか、選手をスター扱いする報道をしようと言っているわけではない。メディアとしての責任を感じて、これからの130日間を過ごさなければならないということだ。
ワールドカップはチームだけの戦いではない。協会、メディア、ファン...。勝負を決めるのは一国の総力だ。メディアにとっても、大変な戦いであるのだ。
(2002年1月16日)
2002年元日、東京・国立競技場。
晴れやかな表情でカップを受け取る清水エスパルスの選手たちを、セレッソ大阪のMF森島寛晃が見上げている。
J2への降格が決まった後に就任した西村昭宏監督がチームを立て直し、見事な試合を続けて決勝に進出した天皇杯。決勝戦終了後、私は、「森島はやっぱり日本の宝だ」と思わずにいられなかった。
中盤で献身的に動いてつなぎ役を果たしながら、ペナルティーエリアにはいっていって決定的な仕事をする----。0−2の劣勢から、森島は彼ならではのスタイルで追撃の1点を決め、この日、両チームの誰よりも多い6本のシュートを放った。
苦しい1年だった。一昨年末、「オーバートレーニング症候群」で入院を余儀なくされ、ようやく回復して間に合ったJリーグ開幕戦で左ひざを負傷、4月下旬まで欠場を余儀なくされた。森島を欠いて崩れたセレッソのバランスは復帰後も戻らず、セレッソは第1ステージ14位と低迷した。
第2ステージにはいった8月には左足に肉離れを起こし、1試合休んだだけで復帰したが、9月末には練習中に再発して約1カ月間の欠場を余儀なくされた。この間にチームは泥沼の7連敗を喫し、事実上降格が決まった。
故障は不思議に日本代表の海外遠征と重なっていた。森島は2001年に日本代表が国外で行った4試合のすべてを欠場した。
しかし国内では、全9試合に出場し、コンフェデレーションズカップ準優勝、キリンカップ優勝などに貢献した。森島こそ2002年ワールドカップ日本代表の攻撃に不可欠な存在であることを、強く印象づけた年でもあった。
森島はセレッソとともに育った選手である。
91年、静岡の東海大一高を卒業して日本リーグ1部のヤンマーにはいり、すぐデビューして5月までシーズンの残り6試合に出場したが、ヤンマーは2部に降格。翌シーズン、森島は2部の全30試合に出場、7得点を記録した。
Jリーグに参加できなかったヤンマーは92年からJFLに参加、94年に現在の「セレッソ大阪」となり、95年にJリーグ昇格を果たした。森島が日本代表に選ばれたのはその年だった。
96年には日本代表のエース格になった。当時メキシコ代表の監督をしていたボラ・ミルチノビッチ(現在中国代表監督)は、日本に2−3で負けた後、「印象に残った選手は?」と聞かれて、言下に「背番号15(森島)」と答えた。しかし98年ワールドカップでは、クロアチア戦で交代出場しただけ。わずか十数分間の「世界経験」だった。
4年後のいま、ワールドカップに向けて不可欠な存在となった森島。その最大の魅力は、「ひたむきさ」にある。
スピード、技術、決定力は世界の強豪を相手に十分通用する。しかし、ただ優れた選手であるだけではない。試合が進むにつれ、彼の存在感はどんどん大きくなるのだ。
体を張って守備をした次の瞬間には、懸命に走って相手ゴール前に現れ、シュートを放っている。少年のような純粋さ、もっているものを出し尽くす意志の力、ひたむきにサッカーに打ち込む姿が、私たちの心を打つ。
天皇杯決勝から2日後の1月3日、森島は故郷の広島市のグラウンドにいた。小学校時代に在籍した大河(おおこ)少年団の「初げり」に参加したのだ。そこには、小学生を相手に真剣な表情でフェイントをかける森島がいた。
少年団も天皇杯もそしてワールドカップも、森島にとっては、「サッカー」というひとつの「輪」のなかにある。質の高いプレーだけでなく、彼のそうした心こそ、「日本の宝」だと思うのだ。
(2002年1月9日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。