サッカーの話をしよう

No.409 国旗、国歌への敬意の表しかた

 4月10日に福岡で行われたJ2のアビスパ福岡対モンテディオ山形戦の試合後に、地元福岡が引き分けたことに怒ったひとりのサポーターが韓国代表のユニホームをグラウンドに投げ込んだ行為が大きな事件となっている。福岡の韓国人選手・盧廷潤が、その行為を母国への侮辱と受け取り、福岡をやめるとまで言ったからだ。
 投げたサポーターは、ただ勝てなかったことに対する抗議のシンボルとして、ユニホームを投げ込んだのだろう。代表チームのユニホームがいわば国旗と同格にあり、国家と民族の誇りを象徴するものであるということに思いが至らなかったのに違いない。
 ここで日本の国旗・国歌についての議論をするつもりはない。しかし戦後の日本の教育のなかで、国旗・国歌についての教育を避けてきたことは、予期せぬ「副産物」を生んだ。他国の国旗・国歌への無神経さである。

 自国の国旗・国歌に対して反対意見をもつことは自由だし、それに敬意を表さない権利も認めるのが、真の自由主義国家であると思う。しかし他国の国旗・国家、そしてそれに準ずるものに対する態度が同じであっていいというわけではない。世界の多くの国では、自国の国旗・国歌をとても大事にしているからだ。
 ことしになって国内で行われた2つの国際試合、3月のウクライナ戦と4月のコスタリカ戦で、非常に気がかりに思ったことがある。相手チームの国家が歌われている最中にもスタンドの人の動きが止まらず、ざわつきがおさまらなかったことだ。
 警備の関係で入場が大幅に遅れた大阪でのウクライナ戦は特別なケースだったとしても、横浜の試合も同じような状況であったのにはがっかりした。コスタリカの歌手が、愛国心を込めてあの壮大な国歌を歌っている最中に、通路を行き来している人がいるのは、非常に失礼なことだった。

 他国の国歌が歌われている(あるいは演奏されている)あいだには、スタジアム内の全員が起立し、水を打ったように静かにしていなければならない。それが他国の国歌に敬意を表する態度だ。国際社会の常識といっていい。
 このことはこのコラムでもなんども書いてきた。しかしワールドカップ前に、もういちどだけ書いておきたい。
 国歌が歌われている(演奏されている)最中に動くことが許されるのは、選手たちの表情を伝えることを仕事とするカメラマンたちだけだ。他の人びとは、大会役員であろうと、ビールを手に自分の席に戻る途中の観客であろうと、自分の席を探しているファンであろうと、国歌が始まったら全員がその場に立ち止まり、直立してその国歌に敬意を表さなければならない。
 そして国歌が終わったら、盛大な拍手を送らなければならない。それが、ワールドカップ開催国の国民、すなわち大会の「ホスト」役としての最低限のマナーだ。

 横浜でのコスタリカ戦では、もうひとつ気になることがあった。国歌の最中に2機のヘリコプターが上空を旋回していたことだ。騒音がコスタリカ国歌を妨げた。
 このヘリは、警備のためだったらしい。テロの危険から私たちを守るためのものだから、警備の方法は当局に任せるしかない。保安の常識として、「この時間には上空を飛ばない」などということは、口が裂けても言えないだろう。しかし、競技場のすぐ上を旋回することが、その騒音で国歌を妨害し、相手国への敬意を欠く結果になったことだけは知っておいてほしい。
 どんなに親切なもてなしを受けても、自分たちが大事にしているものに敬意を表されなかったら、「ゲスト」は不愉快な思いをする。そんなことになってはいけない。
 
(2002年4月24日)

No.408 沢辺カメラマンの写真集に思う

 イタリアのミラノに住むドイツ国籍の日本人。そんな友人がいる。職業は写真家である。かつてはサッカーのビッグゲームを追って世界中を飛び回っていた。いまは「サッカーと生きる人びと」を求めて、世界の各地をゆったりと歩いている。
 カイ・サワベ氏には、沢辺克史(かつひと)という、親からもらった立派な名前がある。しかし数年前にドイツ国籍を取得したときに、お気に入りの「Kai」にした。
 ヨーロッパ・サッカーの写真を撮りたいと、大学卒業後、ドイツに渡ったのが20年ほど前のこと。スポーツ写真のエージェントに所属して経験を積み、1年後に独立してフリーランスとなった。
 日本にいたころは苦しそうだった。何事もきまじめに考える性格は、なかなか周囲となじまなかった。人間関係を器用にこなすことができず、小さな行き違いに居心地の悪さを感じているようだった。

 個人主義が貫かれたドイツに住み始めて、気が軽くなった。競争の激しいドイツのスポーツカメラマンのなかでめきめきと頭角を現し、やがてドイツ人カメラマンたちからねたまれるほどの実力を身につけた。数回のワールドカップ取材は、すべてドイツからの登録だった。
 しかし次第に、ビッグゲームを追うスポーツカメラマンの世界に嫌気がさしていった。少しでもいい撮影ポジションを取ろうとする争いはエスカレートする一方だった。そして大多数の同業者は、写真という手段でサッカーの魅力や世界を表現しようというのではなく、雑誌や新聞に売るためのスターのショットを撮ることに血眼になっていた。
 サッカーを撮ることをやめた。正確にいうと、ひじを張って撮影ポジションを奪い合うような試合の取材はやめた。以後は、自分でテーマを考え、いろいろな写真を撮った。日本の競輪をテーマに写真集をつくったこともあった。98年ワールドカップでは、スタジアム外に「超簡易仮設スタジオ」をつくり、世界中からやってきたサポーターを撮影し、インタビューした。

 そんなサワベ氏が、99年から日本の月刊誌「ワールドサッカーマガジン」(ベースボール・マガジン社)に連載をはじめた。「フットボール・デイズ」と名づけられた連載は、世界のスター選手の写真やインタビューでいっぱいの雑誌のなかで、ひときわ光彩を放つものだった。
 世界の各地を訪ね、サッカーと人びととのつながりを考える。マラドーナの時代の栄光を忘れきれないナポリ(イタリア)の市民、北大西洋の島国フェロー諸島の人びとのサッカーへの情熱...。サワベ氏らしい考え抜かれたテーマが、画面の隅ずみまで神経の行き届いた写真と、選び抜かれた言葉で構成された文章で表現されていた。
 その連載が本になった。連載と同じタイトルで、つい先日、双葉社から発行された。写真と文章が半々の、ていねいな仕上げの本だ。

 ページをめくっていくと、世界中でサッカーがいかに愛され、サッカーが人びとの生活といかに密接に結びついているか、理屈抜きに伝わってくる。あらためて、良質な写真のもつ力を見る思いがする。
 そしてまた、サワベ氏が、被写体となった人びととしっかりと向き合い、心を通わせたことがわかる。
 若いころの、彼の人間関係の不器用さを思った。不器用だったからこそ、自分を飾ったりごまかしたりすることなく、まっすぐに他人と向き合ってきたのではないかとも、考えた。
 人間とサッカーと写真に、まっすぐ向き合ってきた20年間。写真を見つめていると、写真のなかの人びとからも見つめられているような気がした。
 
(2002年4月17日)

No.407 強化推進本部の成功

 「そういえば、そんな組織があったな」
 名前を挙げたら、こんな反応が返ってくるような気がする。財団法人日本サッカー協会の「2002年強化推進本部」である。
 ちょうど2年前、2000年のいまごろは、この名前が新聞に載らない日がなかった。この年の6月で切れるフィリップ・トルシエ日本代表監督との契約を更新するか、憶測が飛び交っていたころだ。
 「強化推進本部」は、前年、99年の7月に日本代表チームのサポートのために設立され、釜本邦茂・日本協会副会長が本部長となった。しかしこの推進本部はサポートというより「お目付け役」のような立場になってしまい、トルシエとの関係が悪化した。両者のあいだには、日々、不信感がつのるばかりだった。

 トルシエは、日本協会との約束どおり、シドニー・オリンピックとアジアカップ決勝大会への予選を突破した。そして2000年の春には、それまで別々に強化を進めていたオリンピック代表とA代表を統合し、2002年に向けての具体的なチームづくりに着手したばかりだった。しかし4月末に韓国との親善試合で敗れたことで、「契約不継続論」、あるいは「解任論」に火をつけた。それは国民的な関心事にまで発展した。
 大騒動に決着をもたらしたのは、岡野俊一郎・日本サッカー協会会長の決断だった。6月にモロッコで行われたフランス戦の結果などを見てトルシエに対する信頼を固め、一部の強化推進本部員の反対を押し切る形で、日本代表を2002年までトルシエに任せるという結論を出した。
 7月、日本協会は強化推進本部を改組し、岡野会長が自ら本部長に就任して再スタートを切った(木之本興三・Jリーグ専務理事、大仁邦彌・日本協会技術委員長は副本部長として留任)。

 強化推進本部の重要な役割は、監督の強化方針に従って年間の強化スケジュールを立案し、Jリーグとの日程調整をすることだ。昨年とことしの日本代表の活動日程とその内容を見れば、推進本部がいかに「サポート役」を果たしてきたかわかる。
 2001年には、ヨーロッパの「国際試合デー」に合わせた画期的な強化が行われ、Jリーグを長期間中断することなく、ヨーロッパでの国際試合を4試合もこなすことができた。3月のフランス戦(アウェー)をはじめとするこれらの試合が、日本代表の強化にどれほど重要な役割を果たしたか、語るまでもない。
 そしてワールドカップ年のことし前半は、Jリーグと、準備のための国際試合の、絶妙なバランスを実現した。
 難しい課題もあった。3月下旬のヨーロッパ遠征は当初予定されておらず、Jリーグの日程がはいっていた。しかし日程決定後、どうしてもここにアウェー試合を入れたいというトルシエからの要望が出た。推進本部はJリーグと調整し、同時にポーランドという恰好の相手とのマッチメークに成功した。

 ワールドカップへの準備が順調に進んでいるいま、誰も「強化推進本部」の名前を口にする者はいない。それは、推進本部にとって大きな「勝利」ということができる。
 ワールドカップでどこまでいけるか、結果がどうなるかはわからない。しかし強化推進本部が、2000年7月以来、日本代表チームの見事な「サポート役」を果たしてきたことは高く評価されるべきだと思う。
 この組織は、2002年ワールドカップのためだけのものだった。その経験を生かし、代表サポートのための恒常的な組織と、その考え方を構築し、固める必要がある。その新組織設立の提案が、「2002年強化推進本部」の最後の仕事となる。
 
(2002年4月10日)

No.406 テレビ・マネーの終焉近づく

 ポーランドでの取材からの帰途、ロンドンに立ち寄った。空港で買い求めた新聞「ザ・タイムズ」の一面は衝撃的な記事だった。ITVデジタルという有料のテレビ局が、前夜、経営破たんしたという。
 ITVデジタルは、2年前からイングランドの「フットボール・リーグ」の放映権を一手に握ってきた。「プレミアリーグ」の下のプロリーグで、1部から3部まで72クラブで構成されている。放映権料は年間約200億円。現在では、「フットボール・リーグ」の多くのクラブが、この放映権料の配分を大きな財源としている。
 視聴契約数が思うように伸びず、経営難に陥ったITVデジタルは、最近になって、フットボール・リーグに対し、放映権料の値下げを求める交渉をしていた。しかしリーグ側が拒否したため、ついに先月27日、経営破たんが不可避となった。

 これによって、少なくとも12、多ければ20ものクラブが破産の危機にさらされるという。「ザ・タイムズ」は、「イングランド・サッカーの最大の危機」と報じている。
 危機はフットボール・リーグのクラブにとどまらない。プレミアリーグは、BスカイBという別のテレビ局と3年間で2000億円という巨額の放映権契約を結んでいる。単純に所属クラブ数で割れば、1クラブあたり100億円、1年でも33億円という信じがたい契約が、高額の移籍金支払いや、近年の天井知らずの俸給上昇を支えてきた。
 しかし最近では、あまりに放送が増えすぎたためか、視聴率が上がらず、今後テレビ側が放映権料の値下げを求めるのは必至だ。プレミアリーグとフットボール・リーグを合わせて、イングランドには、現在3500人ものプロ選手がいるが、この夏には、3000人にまで絞られることになるだろうという。

 ヨーロッパのサッカーには90年代の半ばからテレビマネーが加速度的に流入し、その資金で史上かつてない繁栄の時代を築いてきた。
 その間にスタジアムや練習場などのクラブ施設、あるいは若手育成に投資してきたクラブは、テレビマネーが去っても生き残ることができる。しかし急激な成功を追い求めて、スターへの投資ばかりしていたクラブは、重大な危機を迎えることになる。
 サッカークラブの生命線は、いまも昔も同じだ。ホームゲームにスタジアムいっぱいの観客を引きつけること、そして、次代を担う若手選手を継続的に育てあげていくことだ。テレビに引きずられてその生命線を見失ったら、クラブの明日はない。
 Jリーグでも、今季、新しいテレビ放映権契約の成立とともに、土曜だけだったJ1の試合が日曜にも広げられた。私は、日曜開催自体には反対ではない。それが少しでも多くのファンを引きつけるためであれば大賛成だ。しかしテレビ放映の都合で日曜開催を決行するなら、それはクラブとリーグの自殺行為と言わなければならない。

 3月31日、私は東京・国立競技場で東京ヴェルディ対柏レイソルというカードを見た。午後7時キックオフ。誰が好き好んで、3月の日曜夜に試合を見に行くだろうか。翌日の学校を考えれば、子どもたちを行かせる気にもなれないだろう。
 巨大な国立競技場のスタンドを埋めたのは、わずか8349人。この日の午後は初夏を思わせる気候だったが、この試合のキックオフの直後には冷たい雨が降りはじめ、後半には雨足が強まった。天候は誰のせいでもない。しかし私には、テレビ放送の都合で日曜夜の試合を決めたファン無視の態度への、手ひどいしっぺ返しのように思えた。その最大の被害者は、もちろんファンである。
 
(2002年4月3日)

サッカーの話をしようについて

1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。

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