サッカーの話をしよう

No.414 禁煙ワールドカップ

 イギリス政府の健康保健協議会が主催する禁煙キャンペーンへの協力を、政府がイングランド代表チームに求めたことがあった。86年、ワールドカップ・メキシコ大会の直前のことである。
 「サッカーの代表チームは青少年に大きな影響力をもつ。とてもいいことだ」と、イングランド・サッカー協会は大賛成だった。しかし慎重なボビー・ロブソン監督は、スタッフも含めたチーム内でどの程度タバコが吸われているのか、一応調査することにした。喫煙者がたくさんいたら、そのようなキャンペーンへの協力は不正直な行為になると考えたからだ。
 選手には、もちろん喫煙者はいなかった。コーチング・スタッフもすべて非喫煙者だった。用具係、報道担当、マッサージ師...。チームの全員から回答があった。喫煙者はただひとり。チームの健康を預かるドクターだった!

 「今大会は『スモーク・フリー・ワールドカップ』です」
 ワールドカップの主催者である国際サッカー連盟(FIFA)は、2002年韓国/日本大会を前にそう宣言した。
 「自由にタバコを吸っていい」という意味ではない。「煙のない大会」、つまり「禁煙ワールドカップ」ということだ。
 観客席、メディアセンター、大会運営施設を含め、大会の公的な場所はすべて禁煙になった。喫煙が許されるのは、決められた「喫煙スペース」においてだけである。
 各国記者が仕事をするメディアセンターは、これまで「フリー・スモーク(喫煙自由)」だった。フランス大会では、仕事をするデスクのある「ワーキングスペース」は禁煙ということになっていた。しかし仕事が忙しくなると、おかまいなしに吸う記者が多く、コーラを飲んだ後の紙コップを灰皿代わりにしたり、じゅうたんを敷いた床に吸い殻を投げ捨てる者まで出てきた。

 煙の害だけでなく、これでは火災の危険もある。仕方なく、地元組織委員会は灰皿を用意し、それぞれのデスクに置くことにした。
 観客席も禁煙だったはずなのだが、堂々と吸っている人がたくさんいた。タバコの煙が苦手な人は、試合を楽しむどころではなかったという。
 今大会はそういうことにはならない。「スモーク・フリー」は、決勝戦まで、日韓の全会場で実施されることになる。
 サッカー・スタジアムは、もはや屈強な男性サポーターだけの世界ではない。女性も子どもも、そして年配者もやってくる。鼻やのどなど呼吸器系に病気をもつ人でも、周囲からの逃れようのない煙を恐れることなく、安心してサッカーを楽しめる場でなければならない。
 FIFAは、86年大会まで、タバコ会社をワールドカップの公式スポンサーのひとつにもち、場内の広告看板に堂々とタバコの銘柄を入れていた。そう自慢できる組織とはいえないが、今回の禁煙宣言は高く評価したい。

 しかし考えてほしい。スタジアム内では、タバコの煙に煩わされることなく、安心して試合を楽しむことができるが、一歩スタジアムの敷地を出ると、そこは普通の日本の社会なのだ。最寄の駅まで歩く間、たくさんの人が「ようやく禁煙区域を抜けた」とばかりに歩きながらタバコに火をつけたら、周囲の人びとの楽しい一日が台無しになってしまうかもしれない。
 そして町なかに出れば、人込みのなかで歩きタバコをする人があふれている。「スモーク・フリー・ワールドカップ」を体験した外国からの観戦客は、大いにとまどうだろう。
 スタジアムの内外で「スモーク・フリー」になれば、立派なスタジアム、すわり心地のよい椅子、そして快適なアクセスなどと同じように、大会成功の重要な要素になると思うのだが...。
 
(2002年5月29日)

No.413 23人が決まった

 ワールドカップに出場する日本代表23人が決まった。
 ことしの準備試合にまったく出場していなかったベテランのDF秋田豊とFW中山雅史が選出され、日本最高のテクニシャンであるMF中村俊輔は選ばれなかった。中村の左足から放たれるFKがワールドカップで見られないのは残念だが、私は、フィリップ・トルシエ監督のチームづくりを信頼したいと思う。
 代表チームというのは、日本の選手のなかから実力順に23人を選ぶわけではない。負傷、出場停止など、大会中に起こりうるあらゆる事態を想定し、チームをやりくりできる人材をそろえることが必要だ。4年前、カズ(三浦知良)、北沢豪という予選勝ち抜きの功労者を最後の最後に落とした岡田武史監督の決断も、そうしたバランスを考えてのものだった。

 そして今回のトルシエのチームづくりには、岡田監督にはなかった基準も含まれている。23人で構成されるグループの人間的なつながりを重視した点である。
 23人の選手は、全員が同じ立場であるわけではない。先発を予定されている選手がいる。交代出場してチームを変えるための切り札がいる。そして、状況によっては、試合に出場することなく大会を終えるかもしれない選手もいる。大会が始まれば、当然のことながら、選手のあいだに明暗が生まれる。
 しかしそれがチームに影響を与えるようではいけない。個々の状況はどうあれ、チーム内にいつも明るく前向きな雰囲気と、次の試合への強いモチベーションがあふれていなければならない。試合に出ていなくても、ふだんの生活でチームを盛り立てていけるような選手が必要なのだ。
 4年間にわたって、トルシエは選手たちの技術や戦術能力だけでなく、そうした人間的な側面も観察してきた。先週発表された23人は、その結果に違いない。だから信頼したいと思うのだ。

 4年前のフランス大会に出場した22人と今回の23人を比べて、大きく違う点がある。世界の舞台での経験の豊富さだ。
 4年前のチームには、96年のアトランタ・オリンピックに出場した選手が5人と、95年の17歳以下世界選手権に出場したMF小野伸二がいるだけだった。そのなかで、MF中田英寿だけが、17歳以下、20歳以下の世界選手権と、23歳以下のオリンピックの3大会に出場した豊富な経験の持ち主だった。
 今回の23人は、それとは比較にならない豊富な経験をもった選手の集団となった。
 98年ワールドカップの経験者が8人いる。オリンピック、20歳以下世界選手権の出場経験者はともに11人。17歳以下世界選手権の出場者は5人。こうした大会に2回以上出場した選手は13人にもなる。さらに、2000年アジアカップ優勝経験者も11人含まれている。

 それだけではない。4年前には皆無だった海外クラブでのプレー経験者が、5人もいるのだ。なかでもMF中田英は、4年間にわたるイタリア・セリエAの経験の持ち主だ。MF小野も、1年間のフェイエノールト(オランダ)での経験で、ひと回りもふた回りも大きくなった。
 忘れてならないのは、これらの経験の大部分が、トルシエの功績というより、日本サッカーを支えてきた指導者や、選手個人の努力で積み重ねられたものだということだ。トルシエはそうした選手たちをひとつの戦術の下にまとめ、さらに、強烈なプレッシャーのかかる大会を乗り切ることのできる強い人間性を重視して23人のチームを構成した。
 平均年齢25歳は若い。しかし経験が足りないわけではない。大会中、若さがもたらす伸びにも期待したい。
 
(2002年5月22日)

No.412 稲本潤一のモチベーション

 ロンドンでプレミアリーグのアーセナル対エバートンを見た。
 リーグ最終日。すでに、その3日前にアウェーでマンチェスター・ユナイテッドを1−0で下し、FAカップに続いてプレミアリーグでも優勝を決めていたアーセナルにとっては、ホームのファンに「2冠」を報告する喜びの試合でもあった。
 数日間ロンドンを覆っていた雲が切れ、明るい日差しに包まれた午後、アーセナルは4−3で勝ってファンの幸福感をさらにふくらませた。
 試合後、ピッチの上でプレミアリーグ優勝の表彰式があった。選手とスタッフ全員が登場したが、そのなかに、背番号19、稲本潤一選手の顔もあった。

 ユニホーム姿の選手は、背番号順に並び、ひとりずつピッチの上につくられたひな壇の上に登っては優勝メダルを受け取り、カップをもってファンに掲げて見せた。しかし20数人の選手のうち、3人だけはメダルを受け取ることができなかった。「出場10試合以上」という規定があるためだ。
 21歳のGKスチュアート・テイラーは、今季プレミア9試合出場の記録をもっていた。昨年秋、イングランド代表でもある第1GKのデービッド・シーマンとその控えが相次いで負傷し、チームが危機に陥ったとき、敢然とゴールに立ったのがテイラーだった。1月なかばまでの9試合で、アーセナルは6勝2分け1敗という好成績を挙げ、優勝の足固めをした。
 そのテイラーが、後半40分から交代出場したときには、スタンドから割れんばかりの拍手が起こった。誰もが、これで彼にも優勝メダルをもらう資格ができたことを知っていたのだ。もちろん、アーセン・ベンゲル監督も、その意図で出場させたのである。

 優勝セレモニーの喜びの輪のなかで、メダルを受け取ることができなかった稲本は悔しそうだった。UEFAチャンピオンズリーグなどで4試合の出場があったものの、プレミアリーグのピッチにはついに立つことができなかった。ヨーロッパへの挑戦1年目は、がまんを強いられた年だった。
 稲本は笑顔を絶やさなかった。しかし顔は笑いながらも、両腕を組み、居心地の悪さに耐えている様子だった。
 現在の世界サッカーのひとつの頂点ともいうべきプレミアリーグ優勝。しかしその優勝に、自分の力が必要とされることはなかった。仲間の選手たちやチームスタッフから肩を抱かれて声をかけられ、会話をかわしていても、稲本の心に何が渦まいているか、遠いスタンドの席からも想像がつく気がした。

 思えば、稲本にとって、そうした思いは、最初ではないのかもしれない。99年のワールドユース選手権準優勝のときも、負傷明けで体調が十分ではなく、ほとんどプレーできないまま銀メダルを受け取った。5月11日のアーセナル・スタジアムでは、そのときよりはるかに悔しい思いが支配していたように思う。
 しかしがっかりしているひまなどない。逆に、稲本の前には、大きなチャンスが広がっている。もちろん、ワールドカップである。
 そのチャンスを十分に生かして日本をひっぱり、上位進出に導くことができれば、それは必ず、稲本のサッカー人生の大きな飛躍につながる。アーセナルでの立場も、当然変わるはずだ。
 試合後、短時間ながら稲本の表情を見ることができた。そして、誰よりも稲本自身が、そうした思いを強く抱いているのだと感じた。
 5月11日、アーセナル・スタジアムでの華やかな優勝セレモニー。そのときの思いが、ワールドカップでの稲本の強烈なモチベーションとなる。
 
(2002年5月15日)

No.411 私は9歳~ワールドカップ年齢

 成田空港に向かうリムジンバスのなかで考えた。
 このバスに初めて乗ったのは、24年前の5月、78年ワールドカップ取材のためにアルゼンチンに向かうときだった。成田空港は開港してまだ1週間ほどしかたっていなかったはずだ。大きな反対闘争を経ての開港だっただけに、警備は厳重を極めていた。
 箱崎の東京シティエアターミナルからバスが動き出したとたん、アルゼンチンの有名なフォルクローレ「花祭り」の軽快なメロディが流れた。当時の日本では、ワールドカップなどごく一部のファンしか関心がなかったから、ただの偶然だったのだろうが、アルゼンチンに向かう私への応援歌のようでうれしかった。
 2002年韓国/日本大会の開幕まできょうで残り23日、わずか3週間あまりとなった。カレンダーの今月最後の日には、「開幕、フランス×セネガル(ソウル)」と書かれている。

 ワールドカップは4年ごとの夢だ。世界のサッカーファンは、4年単位で人生を過ごし、4年ごとにひとつ年をとるという。
 ワールドカップが人生の区切りとなり、人生のいろいろな出来事が大会と関連づけられて記憶される。ひとつのワールドカップを思い起こすと、そのときの自分がどんな状態だったか、そして次のワールドカップまでの4年間をどう過ごしたかなど、次つぎとよみがえってくる。
 私にとっての「ワールドカップ元年」は、66年、中学3年生の8月だった。3週間ほど前に行われたイングランド大会の決勝戦を、たまたまテレビで見たのが、サッカーとワールドカップにのめりこむきっかけだった。
 そのときを「誕生」とすると、2002年大会で私は9歳の誕生日を迎えることになる。たった9歳だ。ベテラン面をしてワールドカップの本を出したりしているが、それが9歳の子どもの書いたものだとすれば、自分自身で苦笑してしまう。

 書籍や記録フィルムなどで「誕生以前」の大会の経過などを知ることはできる。しかし記録フィルムに残されているのは、ひとつの大会の膨大な事象のほんの一部でしかない。ワールドカップの喜びとして記憶される多くの出来事は、その時代に生き、ワールドカップに強い関心をもっていなければ、感じ取って心のなかに残すことはできない。
 「1歳」の70年大会は、英字新聞で情報を追い、大会が終わってから1年間をかけてテレビ放映を楽しんだ。「2歳」の74年に初めて現地に行き、想像していた以上の喜びを味わった。
 リムジンバスで成田空港へ向かった78年は、まだ「3歳」というのに雑誌編集の責任を負わされ、予想もつかない仕事の量に、いささか気が重い出発だった。その「門出」でアルゼンチンのフォルクローレがかかったことで、どれだけ私が勇気づけられたか、はかり知れない。

 「4歳」の82年大会は、東京の編集部で原稿を受け、本をつくる役割だった。「6歳」の90年大会から新聞の仕事を始めた。毎日ファクスで記事を送った。「東京新聞」に記事を書くようになったのは、「7歳」の94年大会以来のことである。この大会から、原稿送りはパソコンを使ってのメール送信となった。
 今大会は「9歳」。サッカーの指導でいえば、「ゴールデン・エージ」といえる。小学校時代の後半で、技術や戦術をどんどん吸収できる年代にあたる。そのつもりで、今大会に取り組んでいきたい。
 さて、分別がつく年齢には、いつごろなれるのだろうか。実年齢で80歳を超えても、「ワールドカップ年齢」ではまだ17歳にしかならない。残念ながら、どう考えても、成人はできそうにないのである。
 
(2002年5月8日)

No.410 入場券送付方法を危惧する

 「ワールドカップの月」がやってきた。今月31日にはソウルで開幕戦のフランス対セネガルが行われ、それから先は、本当にひと息で決勝戦まで64の試合が日本と韓国で展開されることになる。
 大会のID発行もすでに始まった。あと2週間もすればいくつかのチームが日本に到着してキャンプをスタートし、日本代表メンバー23人も17日に発表される予定だ(そう宣言したのはトルシエ監督だから、あてにはならないが)。
 その5月を迎えて最も心配なのは、入場券の配布が間に合うかという点だ。
 先月、ワールドカップの日本組織委員会(JAWOC)は国内第3次販売の申し込み受け付けと予備抽選を行い、入場券の送付方法も明らかにした。普通の書留郵便ではなく、「本人限定受取郵便」という、これまであまり聞いたことのない送付方法だ。

 JAWOCから入場券が発送されると、各地区で郵便物を配達している郵便局から入場券の受け取り人に「到着通知」が送られる。それを受け取った人は、自分がどの郵便局で受け取りたいかを通知し、身分証明証をもってその郵便局の窓口に行って受け取るという方法である。
 間違いがないように、また、不正がないようにという配慮なのだろうが、これはあまりに行き過ぎではないか。入場券を受け取る人に、あまりに多くの労力を強いるうえに、多くのトラブルが予想されるからだ。
 身分証明には、運転免許証、パスポートなど、写真付きの公的証明書であれば1点、健康保険証など写真の付いていない公的証明書あるいは写真付きの社員証、学生証などであれば2点必要だという。
 委託された郵便局は厳格に業務をこなすだけだから、窓口でトラブルが発生するのではないか。そして不正を意図したわけでないファンが身分証明の不備を理由に受け取りを拒否され、あるいは何かの都合で受け取ることができず、多くの入場券がJAWOCに戻されてしまうのではないか。

 JAWOCのスケジュールでは、入場券の発送開始は5月上旬だという。そして郵便局では、10日間、その郵便物を留め置くというから、受け取ることのできなかった入場券は5月下旬になってJAWOCに戻ることになる。
 それが大量に発生したらどう対処するのだろうか。再度通知して、送付するのだろうか。もし何かの都合で本人が受け取ることができない場合には入場券を受け取る権利がなくなるのだろうか。そしてその代金はどうなるのか。宙に浮いた入場券は?
 入場券販売の時点で、すべての入場者の氏名と生年月日を厳格に登録させられた。そのうえに郵送料までとって代金を先払いさせられたあげく、入場券を受け取ることができず、ワールドカップを見ることができなかったファンはどうなるのだろう。

 4年前、日本の旅行会社が詐欺にあって、ツアーの申し込みをしながら観戦ができなかったファンが大量に出た。悪くすれば、今回は、それ以上の悲劇的な事態に発展する恐れさえ感じる。
 入場券を受け取ることができないままにその試合が終わってしまったら、誰がどんな責任を取ろうと、つぐなうことなど不可能だ。JAWOCはそうしたファンの気持ちをどこまで理解しているのか。
 できるだけ公平に、そして悪質なチケット業者などが介入する危険を避けようとしてきたJAWOCの努力と工夫は、評価できる。しかし最後の入場券送付で無用のトラブルを起こしてしまったら、元も子もない。
 「本人限定受取郵便」などという「屋上、屋を架す」愚は避け、通常の書留郵便、あるいは宅配便で着実に届けるよう努力すべきだと思う。
 
(2002年5月1日)

サッカーの話をしようについて

1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。

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