「日本代表監督フィリップ・トルシエ」の4年間が終わった。
日本代表の監督として、トルシエほど物議をかもし出した人物はいなかった。攻撃的で歯に衣着せぬ発言は、しばしば大きな問題となり、たくさんの敵もつくった。
しかし私は、彼が日本代表と日本のサッカーに発し続けたメッセージを忘れてはならないと思っている。それは、「サッカー選手である前に、人間らしい人間であれ」ということだ。
トルシエの日本での最初の衝撃は、98年10月、最初の国際試合後の記者会見での質疑応答拒否事件だった。試合の朝、伊東輝悦選手のお母さんが亡くなった。
「人の生命の前では、サッカーなど無に等しい」
トルシエはそう語っただけで、一方的に席を立った。
会見室は騒然となった。しかし私は、彼が正直な気持ちを語っていたように思った。
サッカーチームは家族のようなものだ。そのひとりの母親の死は、チーム全体の悲しみである。何もなかったように試合を決行した日本サッカー協会は、明らかに何かが欠落していた。トルシエはそこに強い反発を感じたのではないかと思ったのだ。
それから2年半後の昨年3月、日本代表がパリでフランス代表と戦った歴史的な試合を、私は見逃した。直前に父が亡くなったためだった。
遠征の地で誰かからそのことを聞いたトルシエは、わざわざ弔電を打ってくれた。心のこもった電文だった。
帰国後の記者会見の後に、私は彼に礼を言った。そして、重要な試合を取材に行けなかったことをわびた。
彼の言葉は、2年半前とそっくり同じだった。
「いや、人の生命の前では、サッカーなど無に等しい」
さらに月日が流れてことし5月。アウェーでレアル・マドリードと対戦した翌日に、トルシエの甥が交通事故で亡くなった。トルシエはチームを離れ、ひとりパリに戻った。再合流したのは、ノルウェー戦の前日のことだった。
日本に戻ったら日本代表23人の発表がある。パリに滞在中、トルシエはその発表会への欠席を日本協会に申し出た。少しでも長く家族とともに過ごしたいのだと、私には思えてならなかった。
しかし日本サッカー協会は「またトルシエのわがままが始まった」ほどにしか考えていないようだった。その思いが報道陣にも伝わり、トルシエはまた敵を増やした。
トルシエは、非常に明晰なサッカー頭脳とともに、未熟で、欠点の多い性格をもった男だった。駆け引きもした。しかし同時に、彼ほど人間としての心や思いやり、そして人と人とのつながりをサッカーの場に持ち込んだ指導者は、これまでの日本サッカーにはいなかった。
トルシエが無条件に愛したのは、サッカーに一生懸命に取り組み、向上心をもって努力する選手たちだった。スター意識にとらわれた選手などを見つけると、容赦のない批判の言葉を浴びせたが、その裏にも深い愛情があった。
選手たちがどれほどその愛情を感じていたかは知らない。しかしこれから10年、20年とたち、彼らが指導者など現在とまったく違った立場になってひとつのチームを率いていかなければならなくなったとき、この4年間、どれだけトルシエの愛情に引っぱられてきたかを、明確に理解することになるだろう。
その愛情は、人間として人間らしく生きる姿勢から発生している。伊東選手のお母さんの死を心の奥底から悲しみ、「その前ではサッカーなど無に等しい」と、本心から思う心から生まれたものだ。
こうした「人間らしい心」がもたらす力をトルシエから教わったことを、けっして忘れてはならないと思うのだ。
(2002年6月26日)
ワールドカップも日程の3分の2、試合数にすると全64試合のうち8割以上の56試合を終えた。残りはわずか8試合。日本では4試合だけである。日本国内の10会場のうち、すでに6会場が全日程を消化してその役割を終えた。
外国からきている取材陣に話を聞くと、日本の大会運営の評判は悪くない。「とてもいいオーガニゼーションだ」と言ってくれる人も少なくない。
しかし、「韓国のほうがよかった」という話を、たくさんの日本取材陣から聞いた。「とにかく親切で、感じがよかった」というのだ。
ワールドカップの規模、大会の広がりから見ると、ひとりが体験できる範囲など、たかが知れている。それぞれの狭い経験からいろいろな印象をもつのだから、ある人が「すばらしかった」と感じ、別の人が「ひどかった」と思っても不思議ではない。しかし韓国の各会場で、あるいは町なかで、人びとがとても親切だったのは、私も強く感じた。
共通するのは「笑顔」である。スタジアムの周辺で道を聞くとき、メディアセンターで案内を受けるとき、韓国の人びとは、まず笑顔をつくり、親身に、ていねいに教えてくれる。ボランティア・スタッフはもちろん、警備会社の人びとや警官まで、親切そうな笑顔を浮かべた。
結局、道がわからないときがある。問題が解決できないときもある。運営上の不手際もある。しかし笑顔で対応し、一生懸命に相手の力になろうとしている人に対すると、結果などどうでもいいとさえ思ってしまう。
一方、日本の会場では、ボランティアを含む運営スタッフは、職務には忠実なのだが、相手の身になって考えるという、重要な基本が忘れられてしまっているのではないかと思わざるをえない場面になんども出くわした。
「報道陣というのは悪いことをするものだと思い込んでいるんですよ」
あるカメラマンが、こんな不満をもらした。
「あれはだめ、これはだめというばかりで、その禁止事項に違反している者がいないか、常に見張られている。感じ悪いですよ」
一般の観戦客がどのような思いをしているのか、毎日試合を追いかけて飛び回っている身としては、なかなか話を聞く機会がない。しかし報道陣と同じように、見張り役ばかり目について、本当に観客の助けになろうとしている人が少なければ、「感じ」がいいわけはない。
私の印象では、日本でも、ボランティア・スタッフはおおむね親切で感じがいい。しかし警備スタッフなど有給で働いている人びとに、「観客や来場者の助けになろう」という意識が低いように思う。自分たちはワールドカップというサッカーのお祭りの「ホスト」役であるという認識と、このお祭りをフルに楽しんでもらおうという意識がとても低いように思う。おそらく、まじめすぎるのだろう。
残り4試合。残された試合会場は、静岡、大阪、埼玉、そして横浜。しかし横浜の国際メディアセンター、駅や空港の案内など、スタジアム以外にもいくつもの重要なポイントが残されている。
私の期待は、それらの場所で働く人びとが、ありったけの笑顔をふるまってくれることだ。大会の終盤、みんな疲れがたまっている。準々決勝から決勝戦まで、見逃すことのできない試合が続くのだから、殺気立った雰囲気になるかもしれない。そうしたときに心からの笑顔を見せてくれる人たちがいれば、大きな救いになる。
残り10日間。いま言いたいのはこれだけだ。
「がんばれ、日本の運営スタッフ! あなたたちの笑顔が、稲本や鈴木のゴールに負けない意味をもっている」
(2002年6月19日)
6月5日水曜日に神戸で行われたロシア対チュニジア戦を見に行った友人から、「スタジアムに着くころには、おなかがいっぱいだった」という話を聞いた。
他のワールドカップ会場でも行われていることだが、神戸ウイングスタジアムでも、混雑をできるだけ回避するために入場ゲート別の来場を呼びかけている。神戸では、スタジアムから歩いて5分ほどのところに地下鉄の駅があるのだが、そこに集中すると大変なことになるので、もうひとつ、JR兵庫駅からの徒歩ルートを設定した。
こちらは25分間もかかるという。しかし「楽しかった」と、友人は言う。ルートが商店街をたどっていて、車両の通行が止められ、広い道をゆったりと歩けたからだけではない。両側の店が店前にワゴンなどを出して、スタジアムに向かうファンに元気に声をかけていたからだ。
大きな紙コップによく冷えた生ビールを注いでいる店がある。かと思うと、串に指した肉を焼きながらおいしそうなにおいをまき散らしている店がある。友人は、そのジュウジュウと焼ける肉につられ、つい買って食べてしまった。だから、スタジアムに着いたころには、おなかがいっぱいだったという。
ワールドカップ・グッズに限らず、いろいろなものを売っている店、楽しそうに話しながら飲んだり食べたりしている人びと。そうしたなかを車に気を取られずに歩いているうちに、気がつくとスタジアム入り口だった。
その話を聞いて、地下鉄でスタジアムに行った私は、心からうらやましく思った。
サッカー観戦の楽しみは、スタジアムだけのものではない。家を出てから試合を見て家に帰るまでの全体験が、心に残る。ましてそれが日常のJリーグなどではなく、一生の出来事であるワールドカップ観戦だったらなおさらだ。
まだ国内の全会場を回ったわけではないので、ランキングなどつけることはできないが、神戸と対照的なのが埼玉スタジアムだ。徒歩で行くことのできる浦和美園駅からスタジアムまで20分あまり。フェンスで仕切られた立派な歩行者専用道路がつくられている。ところが、そこがあまりに殺風景なのだ。
音楽は流れているが、途中に救護所がある程度で、ほかには何もない。ただ歩くしかない道なのだ。私も、6月6日の試合に、駅から歩いた。
途中、歩行者専用道路の切れ目に弁当を売っている場所があり、その周辺では、たくさんの人びとが路肩に座って弁当を食べていた。まるで何かの災害の避難所のようで、見るに忍びなかった。
なぜ、あの広大な歩行者道路に、見るだけでも楽しい出店などを出せなかったのだろう。スペースがあるのだから、パラソルとテーブルを出して、簡単なレストランぐらいできそうだし、弁当売り場の周囲に簡単なベンチを置いておけば、みんなもっと人間らしい食べ方ができるのに...。
スタジアムの敷地ではないのだから、大会スポンサーなどの制約を受けることもないはずだ。たとえば「夜店」を運営する団体に権利を与えれば、焼きソバやたこ焼きなどの簡単な食べ物だけでなく、金魚すくいやヨーヨーすくいなど、歩くだけでも楽しい道が生まれるではないか。
道が楽しければ、みんなゆっくりと歩く。試合後の駅の混雑緩和にも役立つ。
6月6日に埼玉スタジアムで試合を見た別の友人は、「駅から遠すぎる」と話していた。といっても、兵庫駅から神戸のスタジアムまでに比べると、ずっと近いのだ。
「道が楽しくなかったからだろう」
と聞くと、彼はこう言った。
「そうかもしれない。何か、強制収容所への道を歩かされているような感じだった」
(2002年6月12日)
6月2日、釜山のホテルで目覚めてテレビをつけると、NHK・BS放送のニュースが飛び込んできた。
「きょうさいたま市で行われるイングランド対スウェーデンの入場券が、2600枚インターネットで販売されている」というニュースだった。
イングランドの大会初戦とあって、日本で行われる1次リーグ24試合中屈指の人気カード。当然、入場券は完売のはずだった。
ところが、国際サッカー連盟(FIFA)と契約して海外販売分を担当してきたバイロム社(イギリス)に、売れ残り分がまだあった。日本組織委員会(JAWOC)は、混乱を避けるために「入場券の当日販売はしない」という取り決めをFIFAとかわしていたのだが、バイロム社は6月1日から当日販売をしていた。完全に約束違反だ。それを知ったJAWOCは、長い議論の末、「ひとりでも多くの人が観戦できるなら」と、追認し、併せてメディアに情報を流したのだという。
しかし朝刊で朝6時にこのニュースを知った人がインターネットでバイロム社が運営するチケットセンターにアクセスしようとしても、まったくつながらなかったという。なかには、12時間も格闘して、結局つながらなかったという話もあった。
運良く購入できた人は、国内12カ所でバイロム社が運営する「チケッティングセンター」へ出向いてチケットを受け取った。しかし正確に何枚売られたのか、バイロム社あるいはFIFAからは何の発表もない。
4年前のフランス大会では、日本の旅行社が大がかりな詐欺にあい、数万人のファンが応援ツアーの申し込みをしながらチケットを入手できないという被害にあった。日本サッカー史上最大の悲劇だった。多くの人の心に、一生消えることのない悲しみを残した。
そうした悲劇を繰り返してはならないと、FIFAと日韓の組織委員会は入念な計画を練ったはずだ。しかし海外販売分とともに、チケットそのものの印刷を担当したバイロム社の無責任な仕事ぶりが、昨年来、世界中で大きなトラブルを巻き起こしてきた。
JAWOCは3日に、売れ残った4日以降の3試合分のチケットについて、電話販売で受け付けることを決めた。しかし電話やインターネットの受け付けでは、申し込むのに何時間も、ときには十数時間もかけ続けなければならない。JAWOCに求められるのは、より人間的な対応だ。
試合の2日前までに売れ残りがあったら、そこで海外向けあるいは全国的な販売を打ち切り、JAWOCの責任で試合前日に試合開催地で先着順、または抽選で「地元販売」に切り替えるべきだ。
昨年秋の「第2次販売」のときには、3日間、毎日8時間も電話をかけたがつながらなかったという人がたくさんいた。さらに、ことしにはいっての第3次販売では、予備抽選で当選して数十万円もの代金を支払わせられながら、落選してひどく落胆した人も少なくなかった。
すべては、JAWOCが、どこかの立派なビルのなかにいて、自分たちだけは安全に、そして確実に入場券を売り、購入するファンの気持ちや苦労などまったく顧みない結果だった。
JAWOCは、日本のファンとワールドカップをつなぐ唯一の公的な組織である。もうFIFAやバイロム社に振り回されている場合ではない。余っている入場券があるなら、責任をもって彼らから取り上げ、事務総長が自ら先頭にたち、自らの手で直接ファンに売るという潔さ、ファンとの連帯を見せなければならない。
ワールドカップは始まり、宝物のような試合が一日ごとに過ぎ去っていく。悠長なことをしている時間はない。
(2002年6月5日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。