予想以上にいい。期待以上にレベルが高い。ワールドカップ後のJリーグだ。
猛暑のなか、ワールドカップによる長期中断の後遺症でハードスケジュールが続いているが、どのチームも非常に意欲的で、スピード感あふれる試合が続いている。
ワールドカップで活躍したMF中田英寿(イタリアのパルマ)、小野伸二(オランダのフェイエノールト)、稲本潤一(イングランドのアーセナルからフラム)、GK川口能活(イングランドのポーツマス)がヨーロッパに戻った。それに加えて、鹿島アントラーズのFW鈴木隆行がベルギーのゲンクへ、横浜F・マリノスの中村俊輔がイタリアのレッジーナに移籍した。
「スター」が減って、寂しいか。まったく、そんなことはない。胸をわくわくさせるような若手が、「ワールドカップ組」をしのぐ勢いのプレーを見せているからだ。
その多くは、9月末から10月中旬にかけて韓国の釜山を中心に行われるアジア大会に出場する予定の21歳以下(U−21)日本代表選手たちだ。2004年のアテネ・オリンピックを目指す年代でもある。5月にフランスのツーロンで行われた国際ユース大会(21歳以下の各国代表チームによる大会)に参加し、3位という好成績を収めた。
その中心は、コンサドーレ札幌の山瀬功治、ジェフ市原の阿部勇樹、サンフレッチェ広島の森崎和幸、FC東京の石川直宏ら多彩なMF陣だ。
FWでもプレーする山瀬は、高いテクニックとともに、非常にシュートセンスがよく、得点力が高い。ボランチの阿部は、ロングパスが正確で、FK、CKでは大きく曲がるボールで相手を脅かす。阿部とボランチを組む森崎は、正確なミドルシュートが売り物だ。そして右のアウトサイドでプレーする石川は、圧倒的なドリブル突破の能力とシュート力を誇る。
「U−21」組だけではない。その少し上の年代では、昨年、北京で行われたユニバーシアードで優勝を経験した大学卒業の新人たちが活躍を始めている。浦和レッズのDF坪井慶介、左ウイングバック平川忠亮、そしてジェフ市原の攻撃的MF羽生直剛らだ。物おじしない彼らのプレーからは、高校卒業と同時にJリーグでプロになった「エリート」たちにはない「気迫」が感じられる。
そして横浜F・マリノスでは、とんでもない「大器」が登場し、大きな注目を集めている。阿部祐大朗。桐蔭学園高校3年に在籍し、来年正月の高校選手権への出場を目指しつつ、日本サッカー協会の「強化指定選手」としてマリノスで練習、試合をすることを認められたFWだ。
出場停止や負傷でFWが手薄になったマリノスは、7月13日の「再開」第1戦、ベガルタ仙台戦で17歳の阿部をデビューさせた。得点こそなかったが、繊細なボールテクニックとシュートセンスを見せ、スタンドを沸かせた。
今回ワールドカップを戦った日本代表は非常に若いチームで、大半の選手がちょうど成熟期にさしかかるころに4年後のドイツ大会を迎える。しかし彼らがけっして安泰でないことは、こうした若手の台頭で明らかだ。
ここに挙げたのは、そうした野心にあふれる若手のごく一部にすぎない。ぜひスタジアムに足を運び、自分自身の目で「2006年への息吹」を感じ取ってほしいと思う。
この時期のJリーグ観戦には、もうひとつの楽しみがある。「日本の夏」の醍醐味、「夕涼み」だ。夜になっても気温は高いが、スタンドには涼風が吹き、座っているだけで幸福感に浸ることができる。そのうえに若い選手たちの意欲的なプレーが見られるのだから、週末にJリーグに行かない手はない。
(2002年7月31日)
「現在約80万人の登録選手数を、3年後には200万人にまで増やす」
日本サッカー協会の第10代会長に就任した川淵三郎氏が、自らの目標のひとつとしてこのような数字を挙げた。
日本サッカー協会は、傘下の47都道府県協会を経由して加盟チームの登録を受け付けている。サッカーはチームスポーツだから、個人での登録はできない。各チームは、登録の際に全登録選手のリストを提出し、登録選手数分の登録料を納める。
こうして正式に日本協会に登録されたのが、2001年末現在で2万8184チーム、選手数にして78万8125人。それを3倍弱の200万人にしようというのが、川淵会長の話の意味だ。
国際サッカー連盟(FIFA)が2000年に全世界のサッカー人口を調査した。登録サッカー人口が最も多いのがアメリカで約389万人。それにドイツ(345万人)、イングランド(230万人)が続く。日本の80万人は、世界で6番目という数字だ。
悪くはない。しかしこの数字は、右肩上がりに伸びてきたものではない。96年に約3万チーム、90万人に達したものの、その後、徐々に減ってきているのである。
その一方で、フットサルや各地の市民大会など、日本協会に登録していなくてもできるサッカー自体は年々活発になってきている。FIFA発表の資料によれば、登録していない日本のサッカー人口は約250万人。しかし精密な調査による数字ではない。
川淵会長は、登録選手数を増やす手段として、遅れている女子サッカーの振興とともに、40代以降のシニアと少年サッカーの振興を、重要なポイントとして挙げた。
日本のシニアサッカーはすでに半世紀を超す歴史をもっていて、各地で盛んに行われている。日本サッカー協会がチーム登録に「シニア」のカテゴリーを設けたのは2000年のこと。現在は大会の整備などを行っているが、まだ登録数は数千人にすぎない。
少年チームでは、チームに何十人いても、日本サッカー協会の公式大会に出場しそうな少年しか登録しないことが多い。協会に納める登録費を抑えるためだ。
たしかに、女子、シニア、少年は重要なポイントだ。しかし同時に、日本協会や都道府県の協会とは無関係に活動している区や市町村のサッカー協会に加盟し、地域で活動しているチームを仲間に加えることが大きな課題ではないか。区や市町村はグラウンドをもっていて、苦労なく試合をすることができるから、チームはどんどん増えている。
日本協会に登録しなくてもサッカーが楽しめるのだからそれでいいという考えもあるだろう。しかし日本のサッカーや日本代表チームを支える最も基礎的な部分は、全国のサッカーチームであり、サッカー選手にある。
登録することによって、代表チームが本当に自分たちの代表となる。そして、登録することは、代表チームを支援するという意味にもなる。
選手ひとりあたりの登録料として、年数千円かかる。チームでまとめるとけっこうな額になる。そしてその見返りが、ホームゲーム用のグラウンド探しに苦労する都道府県のリーグや1回戦で負けてしまうカップ戦への参加だけでは、日本協会への登録をためらうのは当然だろう。
日本サッカー協会はまず非登録のサッカーの現状を調査し、区や市町村などでサッカーをしている人びととよく話し合って、日本協会への登録の意味と意義をわかりやすく説明しなければならない。そして同時に、誰もがその一員になることが誇りに思えるような、魅力ある組織にならなければならない。
(2002年7月24日)
新着の『ワールドサッカー』誌(イギリス)で、編集長のガビン・ハミルトン氏が、「日韓両国のすばらしいホスピタリティーにより、アジア初のワールドカップは大成功だった」と絶賛している。
彼はまた、韓国はほとんど南米的で、日本はヨーロッパ的だったと指摘する。熱狂的に自国を応援して大会を盛り上げた韓国に対し、日本は自国を応援しつつも公平なアプローチでこのワールドカップを楽しんだというのだ。
興味深い見方だと思う。日本人の私たちとしては、どうしても日本側に厳しくなる。そして韓国と比べて、「ここが悪い」という指摘が増える。
しかし共同開催は、文化も歴史も違うふたつの国でひとつの大会を行おうという試みである。「違い」があって当然だ。「外の目」としてハミルトン氏のような評価を読むと、目を開かされる思いがする。
ものごとの本質を見極める作業のなかで、見るポイントを変えることほど重要で、しかも難しいものはない。長い間探し求めていた本を最近ようやく見つけ、ページをめくりながらその思いを深めた。
チリから移住したアメリカ人であるルシアノ・G・カストロ著による『ワールドカップの歴史:南米からの見方』(2002年、アメリカのブルーノート出版社刊)という、そのものずばりの本である。
ワールドカップの歴史は、もっぱら「ヨーロッパの目」で語られてきた。とくに英語からの情報が中心になる私にとっては、イギリス(あるいはもっと狭くイングランド)人の目や見方、考え方を通じてワールドカップを見ることが中心になってきた。
同じ大会の同じ出来事でも、ヨーロッパ人の目からと、南米やアフリカ人の見たものでは違う解釈が成り立って当然だ。できるだけ南米やアフリカなどの「違った目」からの情報を入手するよう努力してきたが、実際のところは、なかなかままならなかった。
カストロ氏の本職は電気技師で、南アフリカにも長く住み、そこでは94年ワールドカップ(アメリカ大会)のテレビ解説者まで務めた。現在の国籍はアメリカだが、「南米人」としての誇りをもち、南米から情報を仕入れてワールドカップを見てきた。その著書のなかで、彼はヨーロッパ人たちの独善的な見方を敢然と攻撃する。
たとえば、78年アルゼンチン大会は「グラウンド状態が最悪だった」と、大きな非難を浴びた大会だった。とくにマルデルプラタのスタジアムのピッチは、まるで昨年11月の埼玉スタジアムのようにボコボコと芝生がはがれ、プレーに影響を与えた。
しかしカストロ氏は、「これは仕方がないことだった」とアルゼンチンを擁護する。
「ワールドカップは、ヨーロッパのサッカーシーズンに合わせて6月に開催される。しかしそれは南米では真冬にあたる。当時のヨーロッパの1月や2月のピッチコンディションを思い浮かべてほしい。あのときのアルゼンチンより悪くないといえるグラウンドがいったいいくつあるか」
ワールドカップ開催を通じて、多くの日本人が「世界」を広げただろう。世界には実にいろいろな文化や習慣をもった国があり、サッカーも驚くほど多彩だということだ。人びとの日常生活のなかにサッカーがあり、人びとの好みや願いに支えられて各国のサッカーが成立している。違いがあって当然なのだ。
ひとつの大会にも、世界の各地にいろいろな見方、評価がある。まして今日のワールドカップは、巨象のように途方もない規模があり、ひとりで全体を体験するのは不可能だ。一面的な見聞にとらわれず、広く世界の見方に耳を傾けて評価を確定していく必要がある。それこそ、「サッカー的態度」といえないだろうか。
(2002年7月17日)
今回のワールドカップで私を最も驚かせたのは、日本中で多くの人がサッカーに熱中したことだった。ワールドカップに、ではない。サッカーに、である。
メディアがあまりに騒ぐものだから、どんなものかと思って見てみた。そしてはまってしまった。そんな人が多かったのではないか。そうでなければ、決勝戦66パーセントなどという驚異的な視聴率が出るわけがない。
「サッカーはもういやだ」という声を聞いた。テレビで見ていても、とにかく疲れる。一瞬でも気を抜いたら、大事な場面を見逃しそうになる。トイレに立つことも、冷蔵庫にビールを取りに行くこともできない。集中しきっているから、見終わるとぐったりしてしまうというのだ。
そうした話は、年配の男性に多かったようだ。これまでテレビでJリーグを見ても、あまり面白いとは思わなかった。しかしワールドカップはまったく違った。スピード、激しい接触、一本のパスがもつ意味、そして芸術的なまでの守備。それは、かつて体験したことのない興奮だった。
なぜ、ワールドカップのサッカーがそれほど人びとの心をとらえたのだろうか。もちろん第1には、超一流のプレーだったからだろう。しかし私は、それに劣らない理由が、テレビ放映の質にあったのではないかと思っている。
今回の国際映像をつくったのは、フランスに本社を置くHBSという会社だった。日常、何かの番組をつくっている会社ではない。ワールドカップの国際映像制作のためにつくられた会社であり、技術スタッフはすべてフリーランスのテレビ技術者、すなわち「傭兵部隊」だった。
かつては、ヨーロッパでも、サッカー中継は国営放送局など有力局の独占だった。しかしデジタル多チャンネル化にともない、10年前に比べると毎週数十倍もの試合中継番組が制作されるようになった。そうした制作の担い手となっているのが、彼らフリーランスの技術者たちなのである。
試合の流れを分断しないカメラワーク。プレーの意味や意図を即座に映像として伝える絶妙の「スイッチング(同時に撮影されているいくつもの映像から電波に載せる映像を選ぶ作業)」。日本人が魅せられたのは当然のことだった。
もうひとつ見逃せないのは、アナウンサーと解説者の集中度だ。Jリーグなどふだんの日本のサッカー中継は、ともすれ緊張感に欠け、試合の流れなどそっちのけでアナウンサーと解説者の「サッカー談義」になってしまっている。当然、視聴者は試合に集中することなどできない。
しかし今回のワールドカップでは、アナウンサーはプレーしている選手名を正確に伝えようと努力し、解説者も手みじかなコメントで試合を引き締めた。彼ら自身がサッカーに熱中し、のめり込んでいたから、視聴者を集中させる放送ができたのだろう。
ワールドカップが終わり、Jリーグが始まった。今回のサッカー人気が定着するか一過性のもので終わってしまうかは、何よりもまず選手たちがどんなプレーを見せるかにかかっている。しかし同時に、テレビ放送の質も、大きなカギを握っている。
番組制作予算はワールドカップの数分の1、あるいは数十分の1かもしれない。カメラの台数も限られているだろう。しかしそのなかでも、技術者たちの努力工夫と、アナウンサーや解説者たちの集中度があれば、ワールドカップに負けない魅力を伝えることができるはずだ。
「どれ、Jリーグでも見てみるか」という人びとは何百万人もいるはずだ。いったん合わせたチャンネルを変えられないような、そしてトイレにも立つことができないようなテレビ中継を期待したい。
(2002年7月10日)
美しいフィナーレだった。
6月29日、韓国南部の大邱。韓国とトルコの対戦には、3位決定戦らしい、角の取れた雰囲気があった。いつもは相手にブーイングを浴びせかける赤いサポーターたちも、この日は大きなトルコ国旗を掲げて両チームの健闘を期待した。
試合も見事だった。1カ月間に7試合。疲労のピークにありながら、両チームは果敢に攻め、ゴールを守った。勢いのうえでのファウルはあったが、汚い反則はほとんどない気持ちのいい試合だった。韓国が終盤に見せた追い上げは、理屈抜きで胸を打った。しかしそれ以上のシーンが試合後に待っていた。
終了のホイッスル。追い上げ空しく2−3で敗れ、グラウンドに倒れ込む韓国の選手たち。そこにトルコの主将ハカンシュキュルが歩み寄り、抱き起こした。そして肩を組んでいっしょに観客の歓呼に応えようとうながした。
やがてその輪はピッチ全面に広がった。交互に肩を組んだ両チームの選手たちが横一列になってスタンドのファンにあいさつに向かった。
「俺たちは最後まで戦いぬいた。きょうは勝者も敗者もない。みんなが勝者なんだ」
ハカンシュキュルのそんな気持ちが、あっという間にスタジアムを包み、公園や広場で応援していた数百万の韓国国民に伝わり、そしてテレビを通じて世界中に広まっていった。黄金のFIFAワールドカップの価値に勝るとも劣らない、すばらしいメッセージだった。
そして翌30日の横浜。ここでも、ドイツとブラジルの見事なプレーが私たちを酔わせた。しかし決勝戦に先立って行われた「クロージング・セレモニー」も、この大会の最後を飾るにふさわしい感動的なものだった。
豪華なショーだったわけではない。むしろ地味な演出だった。そのなかに出場32カ国の大きな国旗をもった数百人のボランティア・スタッフが「出演」していた。旗を運びながら、彼らは精いっぱい背伸びをしてスタンドを埋めたファンに手を振った。
この大会を支えてきたのは、間違いなく彼らボランティアだった。大会の役に立ちたいと、学業や仕事を休んで参加した人びと。どの会場都市に行っても、笑顔でファンを案内するボランティアの姿が目についた。世界中からやってきたファンや報道関係者の心に、ロナウドのゴールやカーンのセーブと同じように長く残るのは、ボランティアたちの心からの親切と、温かいもてなしの心だろう。
クロージング・セレモニーでは、そうしたボランティアたちが、自分の気持ちを体いっぱいに表現していた。言葉にならない彼ら自身の感動を7万の観衆に、そして世界の人びとに向かって示していた。ただの「お手伝い」ではない。彼らこそ、選手たちと並んで、この大会のひとつの主役であったことを、私は理解した。
7月1日午前1時。横浜国際総合競技場から新横浜駅に向かう報道関係者用シャトルバスは超満員だった。まだ興奮さめやらずに試合のことを語り合うブラジル人たち。ひざの上にパソコンを広げてわき目も振らずに仕事するドイツ人。1カ月間の取材で疲労困憊のカメラマンは、座ったとたんに居眠りを始めていた。
バスが動きだした。そのとき、メディアセンターからバスへの案内をしていたボランティアの女性たちが、バスに向かって両手を振った。バスのなかからどよめきが起こった。そして、多くの報道関係者が「アリガトウ!」と叫びながら手を振った。
サッカーはもちろん見事だった。しかしそれ以上にすばらしかったのは、人と人の心が結びつき、通い合ったことだった。
美しいフィナーレだった。
(2002年7月3日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。