「サッカー界は太陽を失った...」
川淵三郎会長は、目を真っ赤に泣きはらし、力を振り絞るようにそう語ると、言葉をつまらせた。
日本サッカー協会の名誉総裁でもあった高円宮憲仁さまのご逝去は、まるで天照大神が天の岩戸に隠れてしまったようなショックだった。まだ47歳の若さだった。それが、悲しみを増幅させる。
10ものスポーツ団体の総裁職などを兼務され、ご自身も熱心なプレーヤーだった。記者仲間には、フットサル大会でごいっしょしたことがあるという人が何人もいる。
「いつも真剣で、いっしょにプレーするのが気持ちよかった」と、彼らは口をそろえて語る。
私自身には、そうした経験はない。しかしことし5月おわり、ワールドカップ取材で韓国に滞在中に、開幕戦出席のため日本の皇室としては戦後初めて韓国を公式訪問された高円宮さまのニュースを地元のテレビで見て、感銘を受けた覚えがある。正確な言葉は覚えていないが、非常に堂々とした口調で、韓国の歴史と文化を称賛し、日韓親善の意義を説かれた。
金大中(キム・デジュン)大統領との会見では、日本代表の小野伸二選手の言葉を引用して、新しい時代への期待を語られたという。
「『僕は本を通じて韓国との過去のことを知った。でも、サッカーを通じて韓国の人びとを知った。これからサッカーを通じて韓国の友との友情をいっそう深めたい』と、小野選手は話しています。こういう考えをもった若者たちが、日本でさらに増えていくと思います」
韓国の人びとの間に澱(おり)のようにたまっていた日本に対する憎悪や不快感が、高円宮さまの訪韓によってずいぶん減らされたのではないか。強くそう感じた。
「ユーモアも一流だった。日本人で、これほどスピーチの上手だった方は、そういないのではないか」。そう語る人も多い。
聞く人は、最初のひと言からお話に引き込まれた。それは、誰かが書いた原稿ではなく、高円宮さまご自身の言葉で貫かれていたからだ。国際的な視野をもち、スポーツや音楽、演劇などへの幅広い情熱をもたれていたからこそ、生まれた言葉だった。
言葉だけではない。皇族として限りなく制約を受けるなかで、高円宮さまほど、ご自身の意志での行動を常とされた方は少ないのではないか。
日本代表のワールドカップの1カ月間を内側からとらえたDVD『六月の勝利の歌を忘れない』(岩井俊二監督、発売元エンジンネットワーク/電通)のなかに、目立たないが、感動的なシーンがある。
冷たい雨のなか、奮闘空しくトルコの堅守を崩すことができなかった決勝トーナメント1回戦の直後のシーンである。ロッカールームに戻ってきた選手たちを、高円宮さまが、妃殿下の久子さまとともに、部屋の外に立って出迎えられていたのだ。
勝った試合の後でロッカールームを訪れ、お祝いを言うことは、誰にもできる。だが負けた試合後の選手たちに言葉をかけるのは、相手の心情が痛いほど伝わってくるだけに、簡単なことではない。
しかしこのときの高円宮さまの態度と表情は、気高く、ワールドカップの勝敗など超越したものだった。いつものように姿勢正しく立たれ、ご自身の苦痛など微塵も見せずに右手を差し出された高円宮さまとの握手から、何かを感じた選手も多かっただろう。
「全力を尽くして戦ったのだから、恥じることはない。堂々と胸を張ってください」
それは、スポーツにおける究極の「真理」の瞬間だった。
高円宮さまは、本物の「スポーツ人」だった。
(2002年11月27日)
全国高校選手権の岡山県予選決勝で、決勝点となるべきゴールが誤審によって認められず、結局PK戦となって、負けていたはずのチームが勝つという「事件」が起こった。
1−1で迎えた延長前半、作陽高校のシュートが水島工業高校のゴールを破り、ネットを張るためにゴールの後ろに取り付けられている支柱に当たってピッチ内に戻った。作陽の選手たちは歓喜して抱き合い、水島工の選手たちはがっくりとうなだれた。しかしなぜか「ゴールイン」の笛は吹かれず、そのままプレーが続行された。主審は、ボールがゴールポストからはね返ったと勘違いしたのだ。
試合後、ビデオで検証した結果、明らかな誤審であることが判明した。しかし試合結果も、全国選手権出場校も変わることはなかった。
ルール第5条に、「プレーに関する事実についての主審の決定は最終である」と明記されている。プレーが再開される前ならばその決定を変えることができるが、いったんプレーが再開されたら、変えることはできない。試合結果も、その判定を生かしたままで決定される。受け入れ難いことかもしれないが、そうした「理不尽」も、サッカーという競技の一部なのだ。
ところが今週、イングランドで興味深い「事件」が起きた。審判が、試合中の決定を試合後に覆したのである。
プレミアリーグのアーセナル対トットナム。結果は3−0。ホームのアーセナルの完勝だった。勝負の分かれ目は、前半26分、トットナムのウェールズ代表MFサイモン・デービスの退場だった。60分間以上を10人でプレーしなければならなくなったトットナムに勝機はなかった。
退場は2枚目のイエローカードによるものだった。26分にビエラへのラフなタックルで2枚目を受けた。誰の目にも明らかな反則だった。問題は1枚目だ。
その4分前、デービスのタックルにコールが大きく吹っ飛んだ。マイク・ライリー主審は迷わずイエローカードを出した。ところがこのとき、デービスはコールにほとんど触れてもいなかったのだ。
試合後、トットナムのホドル監督は、「最初のイエローカードは明らかな間違いだった。見直してほしい」と、ライリー主審に要望した。ライリー主審はビデオを見直した。
「僕はタックルをよけようとしただけなんだ。主審は自分の判断で判定を下したのだろう。でも正直に言えば、不運で、厳しすぎる決定だったね」というコールのコメントも読んだのかもしれない。ライリー主審は誤審を認め、1枚目のカードを撤回するとイングランド協会に通知、協会もこれを認めた。必然的に、退場処分も取り消された。
審判の人数を何人に増やしても、誤審をゼロにすることはできない。はいったはずのゴールが無視されたり、ないはずの反則で退場になったり...。だが「間違いだった」と認めることはできても、時間を戻したり、試合をやり直したりすることはできない。
ただひとつだけ、こうした「理不尽」をなくす方法があるとしたら、それは、相手チームの選手が「正直」になることだ。水島工の選手たちは、その場で「ゴールにはいっていた」と主審に告げることができた。コールも、試合後のコメントを、カードを出そうとしているライリー主審自身に語ることができたはずだ。
そんな「正直さ」を、今日のサッカーで期待するのは、ばかげたことだろうか。
誤審を減らすよう、ゼロに近づけるように、努力や制度の改善が必要なのは言うまでもない。しかし本当の問題は、あまりに勝負にこだわり、スポーツに不可欠な正直さや公正な態度が、まったく見られなくなってしまったことではないだろうか。
(2002年11月20日)
キックオフしては、バックパスし、自陣ゴールにけりこむ。またセンターサークルにボールを置き、キックオフする...。こんな異常なシーンが、90分間になんと149回も繰り返された。最終スコアは149対0。しかし記録的な勝利を得たチームは、ボールに触れることさえなかった。
アフリカ大陸の東に浮かぶ島国マダガスカル。この国の2002年チャンピオンを決めるために、4チームが東海岸にある人口10万人の町トアマシナに集まった。10月21日に始まったプレーオフは、しかし、最終日を待つことなく、地元トアマシナのASアデマが優勝を決めた。
27日日曜日、昨年のチャンピオンでもある優勝候補のオランピーク・レミルネ(SOE)がDSAと対戦、終盤まで2−1でリードしていたのだが、終了直前に相手にPKが与えられ、同点とされた。2位SOEが2−2で引き分けたことで、首位アデマの優勝が決まったのだ。
そして迎えた10月31日、プレーオフの最終日、アデマと対戦したSOEのラツァラザカ監督は、4日前のPK判定に対する抗議として、オウンゴールを入れまくるよう選手たちに命じたのだ。
もちろんSOEはプロチームである。ことしのアフリカ・チャンピオンズリーグでは3回戦に進出した実績もある。国内で連覇できなくても、2位を占めれば、来年のチャンピオンズリーグ出場も約束されていた。それを自ら投げ打ってしまったのだ。
それにしても、149点とは! どんなに力の差がある試合でも、90分間に10点取るのは簡単ではない。ワールドカップ予選でオーストラリアがアメリカ領サモアから31点を取ったことがあったが、「3分に1点」でも、攻めるたびにゴールが決まった印象だったという。149点とは、想像を絶するゴール数だ。
たしかに、オウンゴールなら、相手にボールを触らせることなく、10秒もかからずに1点を記録することはできる。しかしそれをキックオフから終了のホイッスルまで繰り返すことなど、よほどの執念がない限りできるものではない。監督の指示に従って、90分間、自分のゴールに入れ続けたSOEの選手たち(そのなかには、マダガスカル代表のキャプテンまで含まれていた)は、何を思っていたのだろうか。
怒ったのは、地元アデマの「完全優勝」を見ようと集まった約1万人の観客だ。その矛先は入場券売り場に向けられた。試合終了を待たずに窓口につめかけた観客は、口々に払い戻しを求めたという。
国際サッカー連盟は95年に「サッカー行動規範」を発表した。サッカーを健全に保ち、いつまでも人びとに愛されるスポーツであり続けさせるための10箇条だ。その第1条に、「勝利のためにプレーする(play to win)」とある。どんな試合、どんな状況でも、勝とう、ゴールを奪おうという姿勢をもち、そのために最善の努力をすることが、サッカーをスポーツとして成立させる。勝利のためにプレーすることは、フェアプレーの基本でもある。
審判や役員は、なぜこの愚行をやめさせることができなかったのか。審判は、相手ゴールに攻める気配も見せずにオウンゴールを繰り返すSOEの選手に対し、「反スポーツ的行為」としてイエローカードを出すことができただろう。それでもやめなければ、次々と選手を退場させ、試合成立の最少人数である7人を切った時点で打ち切ることができたのではないか。
世界は広い。サッカーには本当にいろいろなことがある。しかしこの話は、面白がっているだけではすまない。勝つために一生懸命プレーすることの大切さを、もういちど考えてみるべきだと思うのだ。
(2002年11月13日)
11月3日に行われたイングランド・プレミアリーグのフラム対アーセナルは、興味深い一戦だった。フラムはティガナ、アーセナルはベンゲル。両チームの監督は、ともにフランス人だったからだ。
監督だけではない。ピッチ上にもたくさんのフランス人選手が出ていた。とくにフラムは、11人の先発のうち5人がフランス人だった。
「フランス・パワー」の活躍は、この2チームに限らない。2002年ワールドカップのフランス代表23人のうち8人がイングランドのクラブ所属だった。リバプールでは、フランス代表の監督を務めたこともあるウリエが指揮をとっている。
いまや、「フランス・パワー」のないプレミアリーグなど考えられない。しかしフランス・サッカーの「イングランド侵攻」の歴史は、驚くほど浅い。20世紀初頭にクロジエというGKがフラムで活躍したが、その後は1984年にアストンビラと契約したシクスまで皆無だった。彼も、15試合に出場し、2ゴールを記録しただけで、1年でイングランドを去った。
しかし92年はじめにドーバー海峡を渡ったひとりのフランス人FWが歴史を変えた。マンチェスター・ユナイテッドに黄金時代をもたらしたエリック・カントナである。
才能には疑いがなかった。フランス代表でも欠くことのできないエースだった。しかし歯に衣着せぬ言動と、絶え間のない監督やレフェリーたちとの衝突は、カントナを25歳で引退に追い込もうとしていた。
91年の年末、引退を決意していたカントナを、数人の友人がいさめた。もし契約半ばで引退してしまったら、所属のニームに多額の違約金を支払わなければならない。カントナは翻意した。しかしフランスはもういやだと主張した。
「フランスから遠く離れて、文化違うところ、たとえば日本なんかどうかな」と、彼は言った。
エージェントが調べたが、日本は日本リーグのシーズン終盤に近く、そのタイミングでの移籍は無理だった。エージェントはイングランドのクラブはどうかと薦めた。
カントナは了承した。歴史の転換点だった。92年、リーズをリーグ優勝に導いたカントナは、即座にマンチェスター・ユナイテッドに引き抜かれ、大好きな背番号7を背負っていくつものタイトルをもたらした。
以後、フランス・サッカーの優秀さを認めたイングランドのクラブが、数多くのフランス人選手を獲得するようになる。そして、フランス人選手とフランス人監督は、イングランド・サッカーの質的向上に大きな貢献をする。
A・ヘイズ他著の近刊『フランス革命〜カントナ以後イングランド・サッカーの10年間』(英国・メインストリーム社刊)を読みながら、私の頭をよぎったのは、日本と韓国の関係だった。
過去数年間、数多くの韓国人選手がJリーグで活躍した。洪明甫、柳想鉄らはワールドカップでも大活躍した。しかし現在、代表クラスは市原の崔龍洙、京都の朴智星、清水の安貞桓など数人にすぎない。
指導者としては、札幌の張外龍監督がいる。シーズン半ばに就任、J2降格から救うことはできなかったが、確固たる信念の下、チームをまとめ上げた。
もっと数多くの韓国人選手、韓国人指導者が、日本のサッカーにほしい。ワールドカップ共同開催をきっかけに、韓国だけは「外国籍選手」の枠から除外し、流入を促進してはどうか。
日本で不足している2つのポジションであるストライカーとストッパーに次々と優秀な選手を輩出している韓国のサッカーから学ぶものは、まだまだ多いはずだ。
(2002年11月6日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。